非才の催眠術師

水城ひさぎ

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まわり始める運命の時計

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「このスコーン、お店でも出したの?」
「常連さんにね」

 常連さんに、というが、さびれたビルの小さな喫茶店だ。常連さん以外の客が来ることの方が少ないだろう。そう考えながら、ふとママの手元に視線が行く。

「ああ、これ? 昼間にね、若い男の人が置いていったのよ。お店のどこかに貼ってくれませんか? って」

 聞いてもいないのに、ママはチラシに手を乗せて流暢に話す。

「ヒプノセラピーを信用してないわけじゃないけど、資格を持たないヒプノセラピストの中には悪質な人もいるの。ママがその手助けをするかもしれないなら、私はお店に貼るの反対よ」

 思いがけず、声が出た。自分でも正直驚いた。思考がはっきりしている。こんなことは久しぶりだった。

「ヒプノ……何?」
「催眠療法士のこと」
「聞きなれないからー、でもさすがね、悠紀ちゃん。看護師なだけあるわ」

 ママは戸惑いで寄せていた眉をさげ、にこやかに微笑む。

「……看護師はもう辞めたの」

 声が小さくなってしまう。看護師だった頃の記憶は忘れたい過去で、話題にもしたくなかった。

「辞めたのは病院でしょう? 悠紀ちゃんは今でも看護師よ。それにその人ね、医師の資格があるらしいわよ」
「医師免許を見せてもらったの?」
「まあ、疑り深い」

 ママはあっけらかんと笑う。悪事に加担してしまうことになるのではないかと心配している私とは対照的だ。

「医師なら尚更変よ。そんなチラシ配り歩いて」
「なんでも、近くで開業したいらしいの。移転先を商店街で探してるって。今はほら、隣町の駅前に大きなビルが建ったじゃない? あそこで開業してるらしいわ。家賃が高いらしいの」
「だからって、こんな活気のない商店街に来るなんて」

 ママの店は特別だ。さびれた商店街で生計をなしていけるのは、昔からの常連客に支えられているからだ。それでも細々としたもので、新事業が成功するはずはない。だから私は余計に力む。田舎の住民を騙す悪どいクリニックではないかと思えて。

「悠紀ちゃんは反対? お断りはしなかったんだけど。だってとても人柄の良さそうな青年だったから」
「お断りしなかった?」

 気にかかるフレーズはいくつかあったが、私はそうママに尋ねた。ある嫌な予感がしたのだ。

「ええ、喫茶店の隣、空き店舗のままじゃない? そこを貸してもらえませんかっていうものだから」

 ママは相変わらずのんきな返事をする。悪い予感は当たるものだ。開いた口が塞がらない私は、お腹が空いているのも忘れてママを見つめ返す。

「ほら、家賃収入もないよりあった方がいいじゃない」
「それはそうかもしれないけど……」

 ママにそう言われてしまったら、無収入の私には何も言い返せない。ママだって大変なのだ。女手一つで私をここまで育ててくれた。どこまで私は彼女を困らせたら気がすむのだ。

 自分を責める私が現れる。
 私なんかいるから、ママが苦労する。私のせいでしなくていい苦労をして、いろんな幸せを諦めただろう。

「反対? 悠紀ちゃんが反対するならママもお断りするけど、もう少し考えてからでも遅くはないわ」
「住むところはどうするの? お金に困ってる人なら、部屋も借りれないでしょ?」
「三階に部屋があるじゃない。前にも美容師の女の子が暮らしてたでしょう?」
「それは女の人だったし、私もまだ学生だったし、前とは事情が違うよ」
「本当に好青年って感じの落ち着いた人だったわよ。信頼できると思うわ」

 ママはやけに乗り気だ。それはそうか、家賃収入がかかっているのだ。こんなさびれたビルを借りたいなんて言ってくれる人を見つける方が今は難しい。

 もしかしたら居心地悪くして、私をここから追い出そうとしているのかもしれない。そう考えてみたが、ため息が出た。ママに限って、そんな遠回しな嫌がらせはしないだろうと思ったのだ。

「期限付きなら……」

 私は結局、譲歩する。
 ママの勧める青年が信頼に値する人だと信じたからじゃない。これ以上ママに迷惑はかけられないと思ったからだ。

「二階を使う時間はお互いに決めましょう。決まりを守っていれば暮らしていけるわ、悠紀ちゃん」
「時間……」

 途方にくれる。一番気にしたくないことを気にする生活が始まるのだ。

「規則正しい生活は大切よ。それをよくわかってるのは悠紀ちゃんじゃない。案外楽しい生活になるかもしれないわ」
「だから……」

 だから、か。とため息をつく。
 自分のためと言いながら、ママは結局私を心配している。以前のようなハツラツとした私の生活を取り戻そうと、彼女も必死なのだ。

「ママの期待を裏切るのは得意なの……」
「悠紀ちゃんがいつ期待を裏切ったのよ。ね、悠紀ちゃん、気づいてる? 久しぶりね、こんな風におしゃべりするの。スコーン、食べて? 自信作なんだから」

 私は目の前に出されていたスコーンを迷った挙句手に取り、ほんの少しかじった。

 味なんてわからない。わからないけど、切なくて涙が出た。

 私がもう一口かじると、ママがにこっと笑って、「おいしい?」と尋ねるから、涙はとめどなく流れた。泣きながら私は何度もうなずいた。
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