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第二話 婚約者と牛鍋丼
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しおりを挟む常吉さんと葵さんが帰宅したのは、夜もすっかり更けた子の刻だった。じきに丑の刻がやってくるであろう時刻。
すっかり長居してしまったと謝る常吉さんたちだったが、ずいぶんと晴れ晴れした表情で帰っていった。彼らにとって夜更けは一番活動しやすい時間なのだろう。
彼らを見送ったあと、清人さんは先にお風呂に入るといって裏庭へ出ていった。
台所の裏には内風呂があり、さっきからお湯をかける音が聞こえている。
彼がお風呂へ入っているうちに片付けてしまおうと、私は黙々と食器を洗っていた。その間も、風呂場からは物音が聞こえていた。
台所の片付けを終えると、次は寝間へ行き、押し入れからふとんを下ろして敷いた。
ふとんは一組しかなかった。嫁入り道具はまだ何も持ってきてないから仕方ないけれど、彼と過ごす夜は想像もつかなくて、落ち着かなくなってしまう。
母は殿方にすべてお任せすればいいというだけだし、義理の姉である君子さんとだって、男性との密事を話したことはない。
「やっぱり帰らなきゃ……」
無意識につぶやいたとき、後ろのふすまがスーッと開く音がした。
「香代さん、帰りたいのですか?」
「ひゃっ! 清人さんっ、いつの間に出られたの?」
尻もちをつくほど驚いて、仁王立ちする浴衣姿の清人さんを見上げる。
ほんの少し着崩した前身から胸もとが見えている。胸の張りに雄々しさを感じて目をそらしてしまう。
しかし、私の前へひざをついた彼は、濡れた髪をかきあげて、顔をのぞき込んでくる。なんと妖艶な男だろう。
この男が私の夫となる人だというのだから、今さらに他人事に感じてしまうのだが、彼はそうではなかった。
「呼んだのに返事がありませんでしたのでね、心配になって来たのですよ」
「え、呼んだって?」
「背中を流して差し上げようかと」
さらりと言う。まるで当然のように。
「け、け、結構です! 背中ぐらい自分で流せますっ」
「そうですか。ではどうぞ。お風呂から出るまで待っています」
たたみの上であぐらをかく。本当に待っていそうだ。
「……もう、じきに丑三つ時になってしまいますから」
「丑三つ……何か気になることが?」
私の目をのぞき込む神妙な彼と手が重なり合う。まだ心配ごとがあるのかと、気遣うようにそっと触れてくる。迷ったけれど、言う。
「修太郎がね、修太郎が丑三つ時は危ないからはやく帰るようにって」
「ほう、修太郎くんが。危ないとは何でしょうね。彼は何があるって言ったんです?」
唇の端をわずかにあげて笑む。やけにいじわるな顔をする。
「何って、あの、その……」
ちらちらと清人さんの髪を見てしまい、彼は察したみたいに笑った。
「けもの耳が生えてくるとでも言われましたか」
見透かされてる。
「だって、九十九さんも葵さんもヨミ安の子孫なのだし、同じようにと考える方が自然でしょう?」
「父?」
心底ふしぎそうに、彼は首をかしげた。
「……違うの?」
私も同様にする。
「父にも、けもの耳もしっぽもありませんよ。人を脅すために、細工をしたことはあったようですが」
「えっ! 細工っ?」
それに、脅すって。穏やかじゃない。
「しきよみ亭の亭主はあらぬ恨みを買うこともありますのでね」
「つまり、護身のため?」
「そういうこともあるでしょう。しきよみ亭の亭主は白狐で、丑三つ時になると人を喰らう。修太郎くんにそう言われましたか」
やたらと核心をつくようにはっきりと言うものだ。過去にも誰かしらに、まことしやかにうわさを立てられ、迷惑したことがあるのだろう。
「そこまでは言ってないけれど……」
「わかっていますよ、修太郎くんの魂胆は」
あきれたように、彼は言う。
「魂胆?」
あの、修太郎が? 計算高くなくて、ちょっとドジで真面目なだけが取り柄みたいな修太郎に、いったいどんな魂胆があるっていうのだろう。
「修太郎くんには、香代さんをはやく帰らせたい理由があるのです。彼らしい、子どもだましのような策ですが、純粋な香代さんには効果がありましたね」
「はやく帰らせたい理由?」
「そうですよ。わかりませんか?」
「全然」
ふるふると首を横にふると、清人さんはおかしそうに目を細めて、私の肩に触れる。
「わからないのならそれでもいいでしょう。修太郎くんも年貢を納める時が来たのですよ」
「修太郎、何かしたの?」
「彼もなかなか良い縁談を断るそうですね」
何を急に言い出すのだろう。だけど、それはあながち間違ってない。修太郎だって、そろそろ結婚を考え始めてもいい年頃だ。
「修太郎は良い家柄のご子息だから、それなりのご令嬢と良縁があるみたい。結婚しないのは、私と同じで結婚に興味がないようだから」
「ほう、結婚に興味がない?」
「そうじゃなきゃ、良縁は断らないでしょう?」
ほかに断る理由など何があるっていうのだろう。
「そうなると、修太郎くんに同情しますが、まあ、そういう行き違いがあるのも、ご縁がないとあきらめてもらうしかありませんね」
「あきらめるって?」
さっきからちんぷんかんぷんなことばかり言う。
「しばらく修太郎くんはしきよみ亭に来ないかもしれませんが、ほとぼりが冷めれば大丈夫ですよ。以前のような関係に戻れます」
「修太郎とけんかしたわけじゃないの……」
「はい、わかっています。ではそろそろ寝ましょうか?」
「……えっ!」
どさくさにまぎれて、サラッと言うものだ。
「まだ何か?」
後ずさると、柔らかなふとんがお尻にあたる。そして、ひざをついたまま私ににじり寄ってくる彼に、ふとんの上に組み敷かれてしまう。
動転してしまうが、あまりの緊張で身動きが取れない。
「取って喰ったり……しない?」
顔を近づけてくる彼に不安を伝えると、にやりと唇の端があがるから、心臓が飛び出しそう。
「それはどうでしょうね。一晩かけて、教えて差し上げますよ」
「そんなに積もる話が……?」
「ええ、無垢なあなたには、どうやら教えなければならないことがたくさんありそうです」
清人さんはかんざしを引き抜くと、髪をゆるりとなで、そのまま長い指ですいていく。
積もる話があるというのに、彼は何も言わずにほおに口づけを落とす。そのまま唇が合わさって、部屋の隅で揺らいでいた行灯の火がふっと消えた。
わずかに枕もとを照らす灯りだけが揺らめいて、仰向けになった私の帯をほどいていく彼を照らし出す。
はるか昔、人の死期を詠めるヨミ安は、愛する娘をめとり、しきよみ亭を開いた。脈々と続いた血縁は、やがて清人さんを誕生させて、私という妻をめとる。
縁とはふしぎなもので、一期一会が築く未来に私たちは翻弄され、そして癒されていく。その先にあるのは、やはり、さらなる温かい未来だろうか。
たとえ、もしそうでない未来が待っていようとも、私たちはけっして心を離さないだろう。そう思える相手だからこそ、私は清人さんと結婚するのだと思った。
藤城家一同が嫁入り道具をしきよみ亭へ運んできたのは、翌朝のこと。清人さんの腕に優しく包まれて眠る私はまだそのことを知らない。
【第二話 完】
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