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第二話 婚約者と牛鍋丼

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「楽しみです。今夜はふたりでゆっくりしたいところですが……」
「お客さまがいらっしゃるんですよね」
「ええ」

 言葉少なに清人さんがうなずいたとき、入り口の戸が薄く開く。戸の奥には誰もおらず、視線をさげていくと、よいしょと敷居をまたいで中へ入ってくる小天と目が合った。

「いい匂いがするな」

 立ちあがろうとする私を制した小天は、座敷にちょこんと座ると、鼻をクンクンさせる。そして、牛めしに気づき、現金な顔をして私の隣へやってくる。

 どうぞ、と牛めしを取り分けた皿を差し出すと、いいのか? と様子うかがいしつつ、小天は小さな前足を伸ばす。

 久しぶりの豪華な食事なのか、生つばを飲み込んだ小天は、ちらちらと上目遣いで見てくる。にこりとすると、せきを切ったように一気にほおばるからおかしくて笑ってしまう。

「清人よ、昨夜はあおいが来たようだな。朝まで一緒だったか」

 もぐもぐと口を動かしながら、小天はそう言う。

 葵? 誰だろう。女性だろうか。

 ちらりと清人さんを盗み見てしまう。女性と朝まで一緒にいたなんて。きっと、夜中に来た客だろうと思いつつ、もやもやしてしまう。

「朝までではありませんよ。夜明け前に帰りました。あまり人目に触れたくないのでしょう」
「絶世の美女だからなぁ、葵は。生きづらかろう」

 どういう話なのだろう。

 昨夜、しきよみ亭にやってきた葵さんという方は、清人さんと小天の共通の知り合いで、絶世の美女だという。

 しかし、美しすぎて人目に触れたくなくて、夜に訪れるというのだろうか。

「今夜も来るそうですよ」
「その話だがな。今夜は来れなくなったそうだ。そう清人に伝えてくれと、俺様に頼みに来たわ。ヨミ安の子孫はどいつもこいつも俺様をこき使う」

 小天はぶつぶつと小言をこぼす。

「葵さんって方は清人さんの親戚なの?」

 尋ねると、小天が面倒くさそうに言う。

「遠い縁者だ。天幻神社のそばで暮らす半妖はんようと言われる狐のほとんどはヨミ安の子孫だろう。日本各地におる。いちいち把握しておれんわ」

 なまじ、人間と結婚するから子孫が繁栄してしまったと言わないばかりだ。小天はヨミ安が大好きだけど、人と結婚したことは賛成していなかったのかもしれない。それでも、清人さんを大切にしてるところを見ると、ただ口が悪いだけかもしれないけれど。

「その葵さんのご用事ってなんだったの?」

 小天は首をかしげる。知らないみたい。代わりに、清人さんが言う。

「俺の結婚を聞きつけたようです。香代さんに会いたいのですよ」
「ほお。清人はいやだと常吉つねきちと結婚したのにな。己に惚れた男が幸せになるのは許せないときたか」
「違いますよ」

 清人さんはおかしそうに声を立てて笑うが、私の内心は穏やかじゃない。

 清人さんは葵さんが好きだった?

 清人さんをふって、別の男性と結婚した女性が私に会いたいなんて知ったら、心がざわつく。しかも、相手は絶世の美女だというではないか。

 今夜、来れなくなったと知って安堵してしまう。清人さんに好きな人のひとりやふたりいたってふしぎではないとは思ってるんだけど。

「あー、そうです。小天、頼みがあります」
「何を買ってくるんだ?」

 あうんの呼吸のように、小天がそう問う。

「牛鍋丼の材料をお願いします。明日までに」
「あした? こき使いやがる」

 またしても小天は、見た目の愛らしさとは真逆の悪態をつくと、からになった皿に手を合わせ、「香代よ、うまかったぞ」と礼を言うと、早速買い出しにいくと言って店をあとにした。
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