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第一話 さくらとあんぱん

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 東京日本橋近くにある旅籠屋はたごや藤城屋ふじしろや』の内庭ウチニワでは、母の千花ちかが手紙を広げて熱心に目を通していた。

 その目は少女のようにきらきらしていて、懐かしい昔を想起してるようにも見える。何か良い知らせだろうか。

 湯気のあがる窯からは、鼻孔をくすぐる甘い香りがしていた。

 ごはんの炊き上がる匂いが大好き。料理をつくるのも食べるのも好きな私にとって、旅籠屋の娘として生まれたのは何かのお導きで、宿の仕事は天職だろう。

 数ある縁談をことごとく破談にしてきた私ももう、21歳。家族は一様にあきれていて、最近はすっかり縁談とも無縁になっていた。結婚になんて全然興味がないけど、家業の担い手として役に立ってるのだから、一生結婚しなくても充実した毎日を送れるだろうと思っている。

「お母さん、誰からのお手紙読んでるの?」
「あら、香代かよちゃん」

 窯のふたをあけると、モワッと白い湯気が立ちのぼる。その匂いをクンクンとかぎながら、母の手のひらの上で広がる手紙に視線を落とす。それを、母は隠そうとせず、どちらかというと、私に見せるように傾けた。

純子すみこちゃんからよ。ほら、細谷ほそや純子ちゃん。前に話したでしょう? 今は結婚して、四季しき純子ちゃんよ」
「小さい頃からお友だちの純子さんだよね?」

 母は大きくうなずく。純子さんのこととなると、何度でも同じ話をする。本人も無自覚なのだろう。たぶんきっと、母が思うより、私は純子さんに詳しい。

 母の千花と純子さんは、姉妹のような強い絆で結ばれている。母と純子さんはともに、武家の生まれだった。親同士が知り合いで、お互いにひとり娘という同じ境遇で育った。明治維新の後、両家は衰退したが、離れていても手紙のやりとりをして、今日こんにちまでその縁をつなげている。

 私にはそういう親友と呼べるお友だちがいなくて羨ましく思ったのを覚えている。

「純子ちゃんね、三日後にこちらへ帰ってくるんですって」
「旅行から?」

 去年も母は、純子さんが旅行から帰ってくると喜んでいた。純子さんは一人息子を東京に残し、ご主人とふたりで旅行に出かけている。一年に一度は東京へ戻るらしいが、それが三日後みたい。

「そうよ。四季さん……あ、純子ちゃんのご主人ね、旅行が大好きで、東京にはたまにしか顔出さないんだけど」

 旅行が大好きとはいうけれど、度を超えているとひそかに思っている。

 母は細かいことを気にしない性格で、四季家は悠々自適な生活をしてるのだと平然と話すけど、日本各地を渡り歩いて一年のほとんどを過ごすなんて、四季さんという男は相当な変わり者だと思う。

 彼らの息子さんも変わり者だと日本橋で有名だから、血は争えないのだろう。なにせ、四季夫妻の一人息子の四季清人きよひとは、あの『しきよみ亭』の亭主なのだから。

「純子さんが帰る日は、宿のお仕事まかせて」
「ああ、いいの、香代ちゃんは。君子きみこさんにお願いするから」

 君子さんは兄、英一えいいちの奥さんで、私の義姉になる。おっとりとした優しい人で、楽観的な母と、おてんばと言われる私とともに育った聡明な兄が彼女に惹かれた理由はなんとなくわかる品の良い方だ。

 父の真之さねゆきは温厚な人で、お見合いで母を一目で気に入ったというのもまた、納得できる話な気がしている。

 小さな頃は私にもいつか、父に似た穏やかな旦那さまができるのかと夢見る日があったけれど、宿のお仕事を手伝うようになってからは、そういう思いは一切なくなっていた。

「君子さんひとりでは大変でしょう?」

 純子さんが帰ってくると、一年分の土産話に花が咲くから、母は宿の仕事をほっぽり出してしまう。一年に一度だからと大目に見る父は、やはり優しい。

「大丈夫よ、君子さんは働き者だから。理由も理由だし、気を悪くすることもないわ」
「理由も理由だし?」
「ええ。前から純子ちゃんと話し合ってたんだけど、香代ちゃんに清人さんはどうかしらって」
「え? どうかしら?」

 どうかしらって、なんなのだろう。

「真之さんも前々から賛成してくれてるし、問題ないと思うの。むしろ、純子ちゃんの息子さんと香代ちゃんが結婚してくれるなら、お母さん本当にうれしいわ」
「え、待って。何の話?」
「あら、清人さんのこと、話してなかったかしら?」
「それは知ってる。しきよみ亭の亭主でしょう? そうではなくて、結婚って?」

 矢継ぎ早に言う私を、母はおっとりと受け流す。

「純子ちゃんとはね、昔から話してたの。お互いに結婚して子どもを授かることができたら、結婚させたいねって。清人さんもなかなか縁談に恵まれないようで純子ちゃんも心配しているの」

 それはそうだろう。変わり者と名高い四季清人と結婚したい酔狂な女性なんているのだろうか。そんな彼だから、私に縁談が来たというのも複雑ではある。

「香代ちゃんとどうかしら? って去年、話したの。そうしたら、お手紙が来たのよ。三日後に戻るから、しきよみ亭でお食事しましょうって。清人さんを香代ちゃんが気に入るかしら? って」

 母は手紙を広げて、私の方へ差し出す。そこには長々と連ねた文章が見えたが、血の気が引く思いの私には、その文章のどこに『お見合い』の文字が隠れているのか見つけ出すことはできなかった。
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