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糸島編
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「菊井はただの社員です」
「そうなのですか?」
「ええ」
俺は目を細めて笑顔で受け流す。
「私と主従を結んでいるわけでも、なんでもありません」
「……そうですか。あなたが、そう仰るのならば」
彼女は呟き、肩の力を抜いてソファーに腰をおろす。
同時に広がっていた髪も足元も人間らしい姿に戻り、瞳も黒目がちな憂いを帯びた双眸になる。本性をまろび出してしまった恥じらいのようなものを目元に浮かべ、彼女は髪をいじりながら、ぽつりと呟く。
「私、昔、噂に聞いたことがあるんです。『天神のはぐれ霊狐』ーー篠崎さんが、稲荷神の神使にも昇格できるほどの霊力を持ちながら、ずっと天神にいらっしゃる理由は、」
その時。
「うわー!!!!!! 寝てしまったーーーー!!!!!!!」
全身の緊張がヘナヘナと抜けていくような叫び声が、奥のソファーから響く。
振り返れば寝汗まみれの菊井楓が青ざめた顔で辺りをキョロキョロ見回していた。
「うわっ、私っ、天神で霊力吸って、その、あれからどうなッ……ええ、夕方? ここどこ? え、」
「落ち着け」
俺は用意しておいた水のペットボトルの蓋を緩め、菊井楓によこし、顎で飲み干すように示す。
「ここは会社。仕事に関しては引き継いで終わらせた」
「あっ……も、申し訳ありません……。ご迷惑おかけいたしました」
彼女はハッとして口を拭うと立ち上がり、雫紅に深々と頭を下げる。雫紅は立ち上がると楓に近づき、目の前で深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしたのは私の方です。私が興奮して失敗してしまい、申し訳ありませんでした。楓さんが霊力を吸って下さって、そして篠崎さんが後始末をしてくださったお陰です」
「よくあることですよ。気にしないでください」
俺はいつもの調子で微笑んで返す。これ以上、先程の話は続けないという意思を込めて。
雫紅も理解したのだろう。楓に向き直って彼女の汗ばんだ額をハンカチで拭ってやっている。
「ご体調はいかがですか?」
「私は大丈夫です! なんだかスッキリしてます!」
「そりゃあ3時間も昼寝すりゃあな」
「昼寝って……えっあっ本当だ!! もうこんな時間!!!」
雫紅は俺を振り返った。
「大丈夫そうですね、菊井さん」
「ええ。こういう奴ですよ」
俺は肩をすくめた。
「菊井さん。私はそろそろ帰りますので、来週の面談よろしくお願いします」
「あ、せめて私がお見送りします!」
「待て。その前に涎の痕を拭け」
「ぎゃっ」
慌てて手鏡を見て口元を拭う楓を見て、雫紅は微笑ましげに目を細めている。
「申し訳ありません、落ち着きのない社員で」
「そんな……私は楽しいです。今後も菊井さんがご担当なら、安心してお仕事ができます」
彼女はふっと表情を変え、俺にしか聞こえない囁き声で、ひっそりとつぶやく。
「魂は生まれ変われば別人となります。あやかしと違って、魂の脆い人間は心を引き継げない」
窓辺から差し込む夕暮れの日差しが、磯女のつるりとした顔顔を照らした。
「ご存知でしょうけど。……どうか、苦しまないでくださいね」
「お心遣いありがとうございます」
俺は笑顔で彼女に返す。
ーーそんなこと、400年ずっと自分に言い聞かせてきた事だ。
「そうなのですか?」
「ええ」
俺は目を細めて笑顔で受け流す。
「私と主従を結んでいるわけでも、なんでもありません」
「……そうですか。あなたが、そう仰るのならば」
彼女は呟き、肩の力を抜いてソファーに腰をおろす。
同時に広がっていた髪も足元も人間らしい姿に戻り、瞳も黒目がちな憂いを帯びた双眸になる。本性をまろび出してしまった恥じらいのようなものを目元に浮かべ、彼女は髪をいじりながら、ぽつりと呟く。
「私、昔、噂に聞いたことがあるんです。『天神のはぐれ霊狐』ーー篠崎さんが、稲荷神の神使にも昇格できるほどの霊力を持ちながら、ずっと天神にいらっしゃる理由は、」
その時。
「うわー!!!!!! 寝てしまったーーーー!!!!!!!」
全身の緊張がヘナヘナと抜けていくような叫び声が、奥のソファーから響く。
振り返れば寝汗まみれの菊井楓が青ざめた顔で辺りをキョロキョロ見回していた。
「うわっ、私っ、天神で霊力吸って、その、あれからどうなッ……ええ、夕方? ここどこ? え、」
「落ち着け」
俺は用意しておいた水のペットボトルの蓋を緩め、菊井楓によこし、顎で飲み干すように示す。
「ここは会社。仕事に関しては引き継いで終わらせた」
「あっ……も、申し訳ありません……。ご迷惑おかけいたしました」
彼女はハッとして口を拭うと立ち上がり、雫紅に深々と頭を下げる。雫紅は立ち上がると楓に近づき、目の前で深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしたのは私の方です。私が興奮して失敗してしまい、申し訳ありませんでした。楓さんが霊力を吸って下さって、そして篠崎さんが後始末をしてくださったお陰です」
「よくあることですよ。気にしないでください」
俺はいつもの調子で微笑んで返す。これ以上、先程の話は続けないという意思を込めて。
雫紅も理解したのだろう。楓に向き直って彼女の汗ばんだ額をハンカチで拭ってやっている。
「ご体調はいかがですか?」
「私は大丈夫です! なんだかスッキリしてます!」
「そりゃあ3時間も昼寝すりゃあな」
「昼寝って……えっあっ本当だ!! もうこんな時間!!!」
雫紅は俺を振り返った。
「大丈夫そうですね、菊井さん」
「ええ。こういう奴ですよ」
俺は肩をすくめた。
「菊井さん。私はそろそろ帰りますので、来週の面談よろしくお願いします」
「あ、せめて私がお見送りします!」
「待て。その前に涎の痕を拭け」
「ぎゃっ」
慌てて手鏡を見て口元を拭う楓を見て、雫紅は微笑ましげに目を細めている。
「申し訳ありません、落ち着きのない社員で」
「そんな……私は楽しいです。今後も菊井さんがご担当なら、安心してお仕事ができます」
彼女はふっと表情を変え、俺にしか聞こえない囁き声で、ひっそりとつぶやく。
「魂は生まれ変われば別人となります。あやかしと違って、魂の脆い人間は心を引き継げない」
窓辺から差し込む夕暮れの日差しが、磯女のつるりとした顔顔を照らした。
「ご存知でしょうけど。……どうか、苦しまないでくださいね」
「お心遣いありがとうございます」
俺は笑顔で彼女に返す。
ーーそんなこと、400年ずっと自分に言い聞かせてきた事だ。
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