上 下
28 / 145
糸島編

2

しおりを挟む
 窓外からはちゅんちゅんと雀の鳴き声。ニュースを観ながらトーストを食べて、それでも時計はまだ7時半。こんな時間に起きてゆったりと用意するなんて、昔は考えられなかった。

「篠崎さんに拾ってもらってよかったな。私も、夜さんも」

 私は独り言のように言いながら服を持って脱衣所に入り、就活の時からそのままのリクルートスーツに袖を通す。流石に猫とはいえ成人男性の姿になる人の前で着替えは無理だ。

 ーー篠崎社長の会社に入社した私と夜さんは。
 あのあと二週間みっちりと篠崎さんによる研修を受けた。とは言っても良くある社員研修のようなマナーや心得のようなものとは少し違った。
 あやかしという「怪異」についての必要最低限の知識や身を守るための知識、あやかしに対するマナーや礼儀作法、会社理念や日々の業務の流れ、などなど……

「まあ、口であれこれ言うよりもまずは現場で慣れて、それから改めて研修するのが早いな」

 篠崎社長はそんな言葉で研修を切り上げた。でも確かに篠崎社長の言葉は正しい。私はまだ、あやかしのことも、会社のことも何もわかっていない。わからないことが、わからない。

「早く慣れたいな」

 言いながら、キスを思い出す。

「あーーーー……」

 あれから研修でも仕事でも顔を合わせたけれど、彼はセクハラをしてくることもキスをすることも全くなく、意識しているのは私だけのようだった。
 やはりあやかしの彼にとっては、私とキスするなんて大したことじゃないのだろう。むしろ尻尾を預けてくれると言うのは余程の親愛の証なのかもしれない。

「……まずは仕事を頑張らなきゃ」

 鏡に向かってメイクをしながら、私は自然と口角が上がるのを感じていた。仕事に行くことが楽しいと思えるのは人生で初めてかもしれない。
 私にできることがある。普通になろうと、無理に頑張らなくていい。
 それだけでこんなに気持ちが軽くなるなんて思わなかった。
 ーー頑張ろう。鏡の中の自分と見つめ合って頷く。

「ヨシッ!」
 
 ヘアメイクを整えたところでふと隣を見ると、全裸の夜さん(人間の姿)がテレビを見ていた。

「ぎゃーーーー!!!!!!!」
「どうした、楓殿」
「人間! 服! 男子! 目のやり場!」

 菊井楓(23)、彼氏いない歴史も23年。
 そんな私がどうして、全裸美形の隣でメイクして「ヨシッ!」とか言ってるの。何もヨシじゃない。
 カーテン越しの柔らかな朝の日差しを浴びた夜さんは、まるでグラビアピンナップみたいに非常に絵になる。絵になるのはいいから、とにかく、やめてほしい。
 朝から如何とも言い難い状況に頭を抱える私の前で、夜さんはきょとんと首をかしげる。

「俺にとってはこの姿も猫の姿も同じ俺だから、気にしないで構わないが」
「夜さん。例えば私が人間のメスですけど、私が猫のメスだったら、どう思うんですか」
「……そうか。そういうものか」
「そう。そういうこと」
「しかし楓殿は人間の雌だから、関係ないのでは」
「ごめん、わかってなかったね」

 夜さんが立ち上がるので「ギャッ」と叫んで顔を覆うと、その間に夜さんは猫になり、するりと私の横を抜け、器用にサッシを開いて窓から降りていった。

「また会社で、楓殿」
「……頼むから、人間の格好でマッパで外に出ないように気をつけてね……」

 私は朝からぐったりと疲労を覚えながら、簡単に片付けてテレビを消す。

「そうよね。夜さんもあんな感じだし、篠崎さんも私に対して、そんなもんよね」

 玄関でパンプスを履き、そして8畳一間の部屋を振り返った。

「……」

 部屋を振り返って、私は胸がじんとする。生まれて初めての、一人暮らし。

「いってきます」

 誰もいない部屋に笑顔で挨拶し、私はドアを閉めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件

森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。 学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。 そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

諦めて溺愛されてください~皇帝陛下の湯たんぽ係やってます~

七瀬京
キャラ文芸
庶民中の庶民、王宮の洗濯係のリリアは、ある日皇帝陛下の『湯たんぽ』係に任命される。 冷酷無比極まりないと評判の皇帝陛下と毎晩同衾するだけの簡単なお仕事だが、皇帝陛下は妙にリリアを気に入ってしまい……??

神様の学校 八百万ご指南いたします

浅井 ことは
キャラ文芸
☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.: 八百万《かみさま》の学校。 ひょんなことから神様の依頼を受けてしまった翔平《しょうへい》。 1代おきに神様の御用を聞いている家系と知らされるも、子どもの姿の神様にこき使われ、学校の先生になれと言われしまう。 来る生徒はどんな生徒か知らされていない翔平の授業が始まる。 ☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.: ※表紙の無断使用は固くお断りしていただいております。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...