小さな恋の物語

木崎優

文字の大きさ
上 下
1 / 2

前編

しおりを挟む
「一度でいいから恋をしてみたいわ」

 アクシスウィア国王女ナディアの呟きに、彼女の側仕えが目を丸くした。

「ナディア様。そのようなことをおっしゃるものでは……」
「ええ、わかっているわ。だけど、思うだけなら自由でしょう?」

 ナディアはもうじき、隣国の王のもとに嫁ぐ。隣国の王は今年で二十五。十四歳のナディアとは十以上年が離れている。
 先王が急逝し、本来王位を継ぐはずだった王太子も不幸な事故により落命し、第二王子のもとに王位が転がりこんだ。
 だが度重なる不幸に国は揺れ、第二王子の即位を認めない派閥も現れ――事態を落ち着かせると共に後ろ盾となるべく、ナディアが王のもとに嫁ぐことが決まった。

 その知らせをナディアが知ったのは、ひと月前。
 以来ずっと、ナディアは窓の外を眺めながら憂鬱そうに「恋がしたい」とため息を落としている。

「嫁がれた先で恋をすればよろしいのでは」
「旦那様が素晴らしい人かわからないもの。もしもひどい人だったらと思うと不安でしかたないの。だから一度でいいから、恋がどんなものか知りたくなかったのよ」

 恋がしてみたい。そう言ってため息を落とすナディアに、侍女が困ったように眉尻を下げた。


 それから数日後、ナディアは父王から別荘に赴くことを勧められた。
 嫁ぐ前に気分転換のひとつもしたいだろう、と。

 ナディアも父王の勧めならと頷き、城から馬車で三日の距離にある領地に移った。期間はひと月。輿入れの準備をはじめるまでという約束で。

「お待ちしておりました」

 たどり着いた別荘にいたのは、ナディアと同じ年頃の少年だった。肩にかかる長さの金色の髪をひとつに結び、緑色の目を伏せながら言う彼に、ナディアは小さく首を傾げる。

「他の人はいないの?」
「食事と着替え、湯あみを担当する者はいますが、それ以外のお世話は僕に一任されております」

 貴人の身の回りの世話は、たとえそれがどんなものであろうと同性が担当するものだ。ナディアもこれまで、女性の側仕えしかいなかった。
 王家が管理する別荘に人がいない、ということはないだろう。現に着替えや湯あみを担当する者はいる。
 ならばこれは――

(もう、お父様ったら)

 くす、とはにかむような笑みを浮かべる。きっと侍女の話を聞いて、嫁ぐ前に夢を叶えてやろうとでも思ってくれたのだろう。
 父の優しさにこそばゆさを覚えながら、ナディアは改めて少年を見る。

 淡い色合いをした金色の髪に、少女にも少年にも見える丸く大きな緑の眼。鼻筋の通った顔も少女にも少年にも見える中性的なもの。
 鍛えられた騎士やもうよい年の父に、精悍な兄しか知らないナディアの目には、その風貌は新鮮なものに映った。

「ねえ、私はナディアというの。あなたは?」
「……エル、とお呼びください」

 恭しく首を垂れるエルに、ナディアは手を指し出す。

「エスコートしてくれるかしら」
「かしこまりました」

 触れた手は思っていたよりもざらつきがあり、側仕えの滑らかな手しか知らないナディアは違和感を抱いた。
 だがその違和感も、これまで経験したことのないものだと思えば新鮮なもので、すぐに忘れてしまった。


 エルとの日々は穏やかなものだった。

「湖を散歩したいわ」
「それでは日傘をお持ちします」

 白くフリルのついた日傘を持ち、後ろを歩くエルにナディアは小さく笑みをこぼす。

「ねえ、隣を歩いてもいいのよ?」
「それでは、失礼いたします」

 エルはナディアの誘いを断らなかった。手を指し出せば取るし、隣を歩くように言えば歩き、一緒にお茶を楽しみたいと言えば同席した。
 畏れ多いとは一度も言われないことも、ナディアにはこれまで経験したことのないものだった。

 食事もお茶も、側仕えや侍女が同席することはない。側仕えは貴族の出ではあるが、彼女自身が招待を受けた場でない限り、一定の距離を保っていた。

「食べさせてくれる?」

 あ、と口を開けるとエルは小さく微笑みながら、フォークで刺した果物をナディアの口に運んだ。

「おいしいですか?」
「ええ、とっても甘いわ。エルもどうぞ」

 そう言って差し出せば、エルも同じように口を開いてナディアが運ぶのを待つ。

 本に出てくるようなひと時に、ナディアは自分の胸が高鳴るのを感じた。

(恋って、こういうものなのね。なんて穏やかで素敵なのかしら)

 ふふ、と柔らかな笑みを零せば、エルも慈しむような眼差しをナディアに向ける。

(でもこれも、あと数日でおしまい)

 与えられた期間はひと月。穏やかな時間はあっという間に過ぎ、もう二、三日もすれば終わりを迎える。
 暖かな風が吹く木漏れ日の中、ナディアがそっとエルを見上げると、どうかしたのかと問うような柔らかな笑みが返ってきた。

「ねえ、エル」
「どうかされましたか?」

 エルが小さく首を傾げるのに合わせて、金色の髪が揺れる。その髪とも、自分を見つめてくれる瞳とも、あと数日でお別れなのかと思い、ナディアは小さく息を吐いた。

「キスをしてくれる?」

 エルはこれまで一度も断ったことがない。だからこの誘いも受けてくれるはず、とナディアは顔を上に向けたまま、そっと目を閉じた。

 だけどいくら待っても思ったような感触が来ることはなく、痺れを切らしたナディアは閉じていた目を開ける。

「姫様、それはできません」

 ぎゅっと眉根を寄せ首を横に振るエルに、ナディアは小さく笑みをこぼす。

「いいの。困らせちゃってごめんなさい。エスコートしてくれる?」

 どこかほっとしたように手を差し出すエルに、キスは駄目でもこのぐらいなら、と指を絡めて握りこむ。
 エルが驚いたように目を見開くと、ナディアは悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべた。

「このぐらいならいいでしょう?」

 否定も肯定も返ってこなかった。代わりに、普段とは違う温かさが手に伝わってきた。互いに指を絡め、連れ立って歩くのもナディアにとっては新鮮で、少しざらつきながらも温かい手に名残惜しさを覚える。

 だがどんなに名残惜しくても、終わりはくる。
 迎えの馬車が到着し、迎えに来た騎士と共に馬車に向かう。

「姫様、お元気で」

 そう言って見送るエルに振り返り、ナディアは柔らかな笑みを浮かべた。

「エルも元気でね」

 好きだとはただの一度も言わなかった。父王が用意したひと時の夢なのだと、理解していたから。

(ねえ、エル。私はきっとあなたのことを忘れないわ)

 馬車が動きはじめる。輿入れの準備をするために、城に向けて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【コミカライズ】今夜中に婚約破棄してもらわナイト

待鳥園子
恋愛
気がつけば私、悪役令嬢に転生してしまったらしい。 不幸なことに記憶を取り戻したのが、なんと断罪不可避の婚約破棄される予定の、その日の朝だった! けど、後日談に書かれていた悪役令嬢の末路は珍しくぬるい。都会好きで派手好きな彼女はヒロインをいじめた罰として、都会を離れて静かな田舎で暮らすことになるだけ。 前世から筋金入りの陰キャな私は、華やかな社交界なんか興味ないし、のんびり田舎暮らしも悪くない。罰でもなく、単なるご褒美。文句など一言も言わずに、潔く婚約破棄されましょう。 ……えっ! ヒロインも探しているし、私の婚約者会場に不在なんだけど……私と婚約破棄する予定の王子様、どこに行ったのか、誰か知りませんか?! ♡コミカライズされることになりました。詳細は追って発表いたします。

ただの新米騎士なのに、竜王陛下から妃として所望されています

柳葉うら
恋愛
北の砦で新米騎士をしているウェンディの相棒は美しい雄の黒竜のオブシディアン。 領主のアデルバートから譲り受けたその竜はウェンディを主人として認めておらず、背中に乗せてくれない。 しかしある日、砦に現れた刺客からオブシディアンを守ったウェンディは、武器に使われていた毒で生死を彷徨う。 幸にも目覚めたウェンディの前に現れたのは――竜王を名乗る美丈夫だった。 「命をかけ、勇気を振り絞って助けてくれたあなたを妃として迎える」 「お、畏れ多いので結構です!」 「それではあなたの忠実なしもべとして仕えよう」 「もっと重い提案がきた?!」 果たしてウェンディは竜王の求婚を断れるだろうか(※断れません。溺愛されて押されます)。 さくっとお読みいただけますと嬉しいです。

神様の手違いで、おまけの転生?!お詫びにチートと無口な騎士団長もらっちゃいました?!

カヨワイさつき
恋愛
最初は、日本人で受験の日に何かにぶつかり死亡。次は、何かの討伐中に、死亡。次に目覚めたら、見知らぬ聖女のそばに、ポツンとおまけの召喚?あまりにも、不細工な為にその場から追い出されてしまった。 前世の記憶はあるものの、どれをとっても短命、不幸な出来事ばかりだった。 全てはドジで少し変なナルシストの神様の手違いだっ。おまけの転生?お詫びにチートと無口で不器用な騎士団長もらっちゃいました。今度こそ、幸せになるかもしれません?!

だいたい全部、聖女のせい。

荒瀬ヤヒロ
恋愛
「どうして、こんなことに……」 異世界よりやってきた聖女と出会い、王太子は変わってしまった。 いや、王太子の側近の令息達まで、変わってしまったのだ。 すでに彼らには、婚約者である令嬢達の声も届かない。 これはとある王国に降り立った聖女との出会いで見る影もなく変わってしまった男達に苦しめられる少女達の、嘆きの物語。

働かなくていいなんて最高!貴族夫人の自由気ままな生活

ゆる
恋愛
前世では、仕事に追われる日々を送り、恋愛とは無縁のまま亡くなった私。 「今度こそ、のんびり優雅に暮らしたい!」 そう願って転生した先は、なんと貴族令嬢! そして迎えた結婚式――そこで前世の記憶が蘇る。 「ちょっと待って、前世で恋人もできなかった私が結婚!?!??」 しかも相手は名門貴族の旦那様。 「君は何もしなくていい。すべて自由に過ごせばいい」と言われ、夢の“働かなくていい貴族夫人ライフ”を満喫するつもりだったのに――。 ◆メイドの待遇改善を提案したら、旦那様が即採用! ◆夫の仕事を手伝ったら、持ち前の簿記と珠算スキルで屋敷の経理が超効率化! ◆商人たちに簿記を教えていたら、商業界で話題になりギルドの顧問に!? 「あれ? なんで私、働いてるの!?!??」 そんな中、旦那様から突然の告白―― 「実は、君を妻にしたのは政略結婚のためではない。ずっと、君を想い続けていた」 えっ、旦那様、まさかの溺愛系でした!? 「自由を与えることでそばにいてもらう」つもりだった旦那様と、 「働かない貴族夫人」になりたかったはずの私。 お互いの本当の気持ちに気づいたとき、 気づけば 最強夫婦 になっていました――! のんびり暮らすつもりが、商業界のキーパーソンになってしまった貴族夫人の、成長と溺愛の物語!

愛しい口づけを

蒼あかり
恋愛
幼いながらも愛を育み、将来を誓い合ったフローラとサイモン。 いつのまにかフローラに対するあふれ出した想いを止めることができずに、暴走を始めるサイモンの兄ファウエル。 ファウエルや家族に阻まれ、いつしか家族の関係もバラバラに。 フローラとサイモンは二人の未来のために駆け落ちを決意する。 しかし幼い二人は連れ戻さえ、引き離されてしまうことに。 フローラの兄カミーユの計らいで、最後の別れをすることができた。 そこで互いを思いながら、それでも生き続けることを誓い合う。 そんな二人が年月を重ね、再び出会い最後を迎えるまでの人生の愛のものがたり。 ※ 他サイトでも掲載しています。

平民から貴族令嬢に。それはお断りできますか?

しゃーりん
恋愛
母親が亡くなり一人になった平民のナターシャは、魔力が多いため、母の遺言通りに領主に保護を求めた。 領主にはナターシャのような領民を保護してもらえることになっている。 メイドとして働き始めるが、魔力の多いナターシャは重宝され可愛がられる。 領主の息子ルーズベルトもナターシャに優しくしてくれたが、彼は学園に通うために王都で暮らすことになった。 領地に帰ってくるのは学園の長期休暇のときだけ。 王都に遊びにおいでと誘われたがナターシャは断った。 しかし、急遽、王都に来るようにと連絡が来てナターシャは王都へと向かう。 「君の亡くなった両親は本当の両親ではないかもしれない」 ルーズベルトの言葉の意味をナターシャは理解できなかった。 今更両親が誰とか知る必要ある?貴族令嬢かもしれない?それはお断りしたい。というお話です。

顔も知らない旦那さま

ゆうゆう
恋愛
領地で大災害が起きて没落寸前まで追い込まれた伯爵家は一人娘の私を大金持ちの商人に嫁がせる事で存続をはかった。 しかし、嫁いで2年旦那の顔さえ見たことがない 私の結婚相手は一体どんな人?

処理中です...