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四十四話 母
しおりを挟むミシェル・リンドバーグはどこにでもいる子爵家の娘だった。
一つ、彼女の特別な点を挙げるのなら、恋人が侯爵家の子息だったことだろう。
侯爵家を継ぐ予定の男子と恋仲であることを、ミシェルの周りにいる者は羨んだ。
だが仲睦まじい二人を引き裂こうと思う者はいなかった。ただ一人を除いて。
それは侯爵家当主――ミシェルの恋人の父親だった。
条件の良い娘はいくらでもいるのに、あえてミシェルである必要はないと、当主は語った。
ミシェルはなんとしても恋人との関係を認めてもらおうと、自らに箔をつけるため、王妃の侍女に志願した。
努力の甲斐があり侍女に就任することのできたミシェルだが――彼女の運はそこで尽きた。
侍女となったほんの数日後、王妃と喧嘩した王に襲われた。ただ、髪の色が王妃に近かった、というそれだけの理由で。
王の子を産んだミシェルを誰もが羨んだ。恋人も彼女に祝福の言葉を捧げた。
「またいつか、巡り合えることがあれば、その時は――」
最後にそう締めくくって。
誰もが羨む立場となったミシェルだが、彼女に与えられたのは森の中の小さな小屋だった。娘には名前も与えられず、王は自らの過ちを見たくないのか、ただの一度もミシェルのもとを訪ねようとはしなかった。
そのため、ミシェルは自らの産んだ娘をライラと名付けた。それは、いつか子供を持てたらどういう名前にしようかと、恋人と話していた時に挙がった名前だった。
人の来ない小屋の中で、娘と二人。恋人と考えた名前を与え、呼びかければ恋人との子供であると錯覚できるかもしれないと考えて。
だが、恋人との子供であると思うには、娘の目はあまりにも特徴的だった。
母を求めて伸ばされる手、触れられることを求める声。そのどれにも応えられず、ミシェルはただ怨嗟の声だけを娘に与えた。
「あなたなんて、産まれなければよかったのに」
灰色の髪は紛れもなく自分と同じで、だがこちらを慕って見つめる瞳は王のもの。
撫でることも抱きあげることも、ミシェルにはできなかった。
それでも、妖精の血をひく娘は成長した。世話をしなくても死なない娘に、ミシェルは否応なく王の子であることを感じてしまう。
「あなたさえいなければ――」
三歳になった娘に、怨嗟の声をぶつける。
これまで何度も繰り返してきた言葉。娘は煌めく瞳をミシェルに向け、満面の笑みを浮かべた。
「わかりました! がんばって死にますね!」
意気揚々と言う娘に、ミシェルはこの時ばかりは言葉を失った。
それからというもの、娘は屋根から飛び降りてみたり、高い木から飛び降りてみたり――どこで学んだのか、唯人ならば呆気なく死ねるであろう方法を試しはじめた。
「あなた、どうしてそんなことを知っているの」
ミシェルが与えたのは恨みのこもった言葉だけ。それなのに娘は教えていないことを知っていた。
そのことが恐ろしくて、震える声で問いかけた。
「本を、もらいました。読んでもらって、たくさん教えてもらったのです」
娘はこれまで何度か小屋を抜け出すことがあった。そのまま帰ってこなければいいのにと、後を追うこともしなければ、探すこともしなかった。
その中で、奇特な人と出会ったのだろう。
「誰がそんなことを……」
「もらった本、おかあさまもみますか?」
差し出された本の裏表紙に、見慣れた文字が書かれていた。それは忘れられるはずもない、かつての恋人のものだった。
『可愛い子に』
たった一行。それだけの文字に、ミシェルは本を抱きしめて、涙を零した。
まだ覚えていてくれたのだと。望まない――恋人との間にできた子供ではないのに、気にかけてくれたのだと。
喜びが胸に溢れるのを感じた。
「おかあさま、泣かないで。どうか、笑ってください」
慌てふためくように言い、ぐるぐると自分の周りを回る娘に、ミシェルはようやく彼女と向き合ってみようと決めた。
だが何年も恨みつらみだけを築いてきたミシェルには難しかった。娘の目を見れば王のことを思い出してしまう。
「ああ、駄目だわ。もう少し自然に、笑えないかしら」
小屋に置かれた鏡の前で頬をつねる。ぐにぐにと動かして、どうにか表情を変えられないかと試してみる。
笑ってほしい、と娘は言っていた。一度も向けたことのない笑顔をどうすれば作れるのだろうかと、ミシェルは悩んだ。
目を見なければ笑えるだろうか。ぎこちない笑顔で娘は満足できるだろうか。
笑って、もう死ななくてもいい、大切な娘なのだと――そう告げる日を考えて、鏡の前で口元を歪める。
「ライラ。お帰りなさい」
その手始めとして、ギイと開いた扉に向けて出迎えの言葉をかける。
だが振り返って目に入ったのは、小さな娘ではなく――これまで一度も小屋に来たことのない王だった。
「ずいぶんと、馬鹿にされたものだ」
冷たい声と共に、娘と同じ、特別な色をした瞳が机の上に向く。
そこにあるのは先ほどまで大切に抱きしめていた一冊の本。王は無遠慮な足取りで小屋の中に入ると、本を手に取った。
乱暴な手つきでめくられていくページ。そして最後のページまで目を通すと、王は小さくため息をついた。
「娘を使って文を送り合っていたとはな」
破り捨てられ、床に落ちる破片に必死に手を伸ばすが、王の足がそれを踏みにじった。靴についた泥にまみれ、見る影もなくなった裏表紙に、ミシェルは涙も流せずただ呆然と見つめることしかできなかった。
「自らの立場を自覚することだな」
慰めの言葉も優しい言葉もなく立ち去る王を見ることなく、ミシェルはその場に座り込んだ。
たった一度、ほんの数文字の言葉をもらっただけで、どうしてここまでされなければいけないのか。
望んでいない子供を与えられ、恋も愛も、自由すらも奪われ、ようやく手に入れることのできた心の拠り所まで奪われた。
王にとってミシェルは汚点の証だ。だがそれでも、他の誰かに目を向けるのは許せないのだろう。王としての自尊心故に。
ミシェルが作業机に目を向けたのは、意図してのものではなかった。泥でこすれ、読めなくなってしまった文字を見たくなかっただけだった。
だがその視線の先で、ライラの作った薬を見つけてしまった。
生きていてもどうしようもない。そう思ったのは一瞬だ。だがその一瞬だけでミシェルには十分だった。
瓶の蓋を開け、中を飲み干し、倒れ伏すには十分だった。
「おかあさま、ただいま」
後悔が押し寄せたのは、笑いかけてあげたいと思った娘が帰宅してからだった。
「おかあさま……? おかあさま……!?」
遠くに聞こえる声に、どうしようもない母親でごめんなさい、とミシェルは謝罪する。だがその言葉がライラに届くことはない。
自分に必死に縋りつく娘の頭を撫でることもできない。
喋ろうとすれば血を吐き、動こうと思ってもびくともしない。
身勝手な母親でごめんなさい。
どうかあなたは幸せに。
薄れゆく意識の中で、ミシェルは何度も何度も謝り、願った。
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