上 下
45 / 62

四十四話 母

しおりを挟む

 ミシェル・リンドバーグはどこにでもいる子爵家の娘だった。
 一つ、彼女の特別な点を挙げるのなら、恋人が侯爵家の子息だったことだろう。

 侯爵家を継ぐ予定の男子と恋仲であることを、ミシェルの周りにいる者は羨んだ。
 だが仲睦まじい二人を引き裂こうと思う者はいなかった。ただ一人を除いて。

 それは侯爵家当主――ミシェルの恋人の父親だった。
 条件の良い娘はいくらでもいるのに、あえてミシェルである必要はないと、当主は語った。

 ミシェルはなんとしても恋人との関係を認めてもらおうと、自らに箔をつけるため、王妃の侍女に志願した。
 努力の甲斐があり侍女に就任することのできたミシェルだが――彼女の運はそこで尽きた。

 侍女となったほんの数日後、王妃と喧嘩した王に襲われた。ただ、髪の色が王妃に近かった、というそれだけの理由で。

 王の子を産んだミシェルを誰もが羨んだ。恋人も彼女に祝福の言葉を捧げた。

「またいつか、巡り合えることがあれば、その時は――」

 最後にそう締めくくって。

 誰もが羨む立場となったミシェルだが、彼女に与えられたのは森の中の小さな小屋だった。娘には名前も与えられず、王は自らの過ちを見たくないのか、ただの一度もミシェルのもとを訪ねようとはしなかった。
 そのため、ミシェルは自らの産んだ娘をライラと名付けた。それは、いつか子供を持てたらどういう名前にしようかと、恋人と話していた時に挙がった名前だった。

 人の来ない小屋の中で、娘と二人。恋人と考えた名前を与え、呼びかければ恋人との子供であると錯覚できるかもしれないと考えて。

 だが、恋人との子供であると思うには、娘の目はあまりにも特徴的だった。
 母を求めて伸ばされる手、触れられることを求める声。そのどれにも応えられず、ミシェルはただ怨嗟の声だけを娘に与えた。

「あなたなんて、産まれなければよかったのに」

 灰色の髪は紛れもなく自分と同じで、だがこちらを慕って見つめる瞳は王のもの。
 撫でることも抱きあげることも、ミシェルにはできなかった。
 
 それでも、妖精の血をひく娘は成長した。世話をしなくても死なない娘に、ミシェルは否応なく王の子であることを感じてしまう。

「あなたさえいなければ――」

 三歳になった娘に、怨嗟の声をぶつける。
 これまで何度も繰り返してきた言葉。娘は煌めく瞳をミシェルに向け、満面の笑みを浮かべた。

「わかりました! がんばって死にますね!」

 意気揚々と言う娘に、ミシェルはこの時ばかりは言葉を失った。

 それからというもの、娘は屋根から飛び降りてみたり、高い木から飛び降りてみたり――どこで学んだのか、唯人ならば呆気なく死ねるであろう方法を試しはじめた。

「あなた、どうしてそんなことを知っているの」

 ミシェルが与えたのは恨みのこもった言葉だけ。それなのに娘は教えていないことを知っていた。
 そのことが恐ろしくて、震える声で問いかけた。

「本を、もらいました。読んでもらって、たくさん教えてもらったのです」

 娘はこれまで何度か小屋を抜け出すことがあった。そのまま帰ってこなければいいのにと、後を追うこともしなければ、探すこともしなかった。
 その中で、奇特な人と出会ったのだろう。

「誰がそんなことを……」
「もらった本、おかあさまもみますか?」

 差し出された本の裏表紙に、見慣れた文字が書かれていた。それは忘れられるはずもない、かつての恋人のものだった。

『可愛い子に』

 たった一行。それだけの文字に、ミシェルは本を抱きしめて、涙を零した。
 まだ覚えていてくれたのだと。望まない――恋人との間にできた子供ではないのに、気にかけてくれたのだと。

 喜びが胸に溢れるのを感じた。

「おかあさま、泣かないで。どうか、笑ってください」

 慌てふためくように言い、ぐるぐると自分の周りを回る娘に、ミシェルはようやく彼女と向き合ってみようと決めた。

 だが何年も恨みつらみだけを築いてきたミシェルには難しかった。娘の目を見れば王のことを思い出してしまう。

「ああ、駄目だわ。もう少し自然に、笑えないかしら」

 小屋に置かれた鏡の前で頬をつねる。ぐにぐにと動かして、どうにか表情を変えられないかと試してみる。
 笑ってほしい、と娘は言っていた。一度も向けたことのない笑顔をどうすれば作れるのだろうかと、ミシェルは悩んだ。

 目を見なければ笑えるだろうか。ぎこちない笑顔で娘は満足できるだろうか。
 笑って、もう死ななくてもいい、大切な娘なのだと――そう告げる日を考えて、鏡の前で口元を歪める。

「ライラ。お帰りなさい」

 その手始めとして、ギイと開いた扉に向けて出迎えの言葉をかける。
 だが振り返って目に入ったのは、小さな娘ではなく――これまで一度も小屋に来たことのない王だった。

「ずいぶんと、馬鹿にされたものだ」

 冷たい声と共に、娘と同じ、特別な色をした瞳が机の上に向く。
 そこにあるのは先ほどまで大切に抱きしめていた一冊の本。王は無遠慮な足取りで小屋の中に入ると、本を手に取った。
 乱暴な手つきでめくられていくページ。そして最後のページまで目を通すと、王は小さくため息をついた。

「娘を使って文を送り合っていたとはな」

 破り捨てられ、床に落ちる破片に必死に手を伸ばすが、王の足がそれを踏みにじった。靴についた泥にまみれ、見る影もなくなった裏表紙に、ミシェルは涙も流せずただ呆然と見つめることしかできなかった。

「自らの立場を自覚することだな」

 慰めの言葉も優しい言葉もなく立ち去る王を見ることなく、ミシェルはその場に座り込んだ。

 たった一度、ほんの数文字の言葉をもらっただけで、どうしてここまでされなければいけないのか。
 望んでいない子供を与えられ、恋も愛も、自由すらも奪われ、ようやく手に入れることのできた心の拠り所まで奪われた。
 王にとってミシェルは汚点の証だ。だがそれでも、他の誰かに目を向けるのは許せないのだろう。王としての自尊心故に。

 ミシェルが作業机に目を向けたのは、意図してのものではなかった。泥でこすれ、読めなくなってしまった文字を見たくなかっただけだった。
 だがその視線の先で、ライラの作った薬を見つけてしまった。

 生きていてもどうしようもない。そう思ったのは一瞬だ。だがその一瞬だけでミシェルには十分だった。
 瓶の蓋を開け、中を飲み干し、倒れ伏すには十分だった。

「おかあさま、ただいま」

 後悔が押し寄せたのは、笑いかけてあげたいと思った娘が帰宅してからだった。

「おかあさま……? おかあさま……!?」

 遠くに聞こえる声に、どうしようもない母親でごめんなさい、とミシェルは謝罪する。だがその言葉がライラに届くことはない。
 自分に必死に縋りつく娘の頭を撫でることもできない。
 喋ろうとすれば血を吐き、動こうと思ってもびくともしない。

 身勝手な母親でごめんなさい。
 どうかあなたは幸せに。

 薄れゆく意識の中で、ミシェルは何度も何度も謝り、願った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢はお断りです

あみにあ
恋愛
あの日、初めて王子を見た瞬間、私は全てを思い出した。 この世界が前世で大好きだった小説と類似している事実を————。 その小説は王子と侍女との切ない恋物語。 そして私はというと……小説に登場する悪役令嬢だった。 侍女に執拗な虐めを繰り返し、最後は断罪されてしまう哀れな令嬢。 このまま進めば断罪コースは確定。 寒い牢屋で孤独に過ごすなんて、そんなの嫌だ。 何とかしないと。 でもせっかく大好きだった小説のストーリー……王子から離れ見られないのは悲しい。 そう思い飛び出した言葉が、王子の護衛騎士へ志願することだった。 剣も持ったことのない温室育ちの令嬢が 女の騎士がいないこの世界で、初の女騎士になるべく奮闘していきます。 そんな小説の世界に転生した令嬢の恋物語。 ●表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ●毎日21時更新(サクサク進みます) ●全四部構成:133話完結+おまけ(2021年4月2日 21時完結)  (第一章16話完結/第二章44話完結/第三章78話完結/第四章133話で完結)。

あなたに忘れられない人がいても――公爵家のご令息と契約結婚する運びとなりました!――

おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
※1/1アメリアとシャーロックの長女ルイーズの恋物語「【R18】犬猿の仲の幼馴染は嘘の婚約者」が完結しましたので、ルイーズ誕生のエピソードを追加しています。 ※R18版はムーンライトノベルス様にございます。本作品は、同名作品からR18箇所をR15表現に抑え、加筆修正したものになります。R15に※、ムーンライト様にはR18後日談2話あり。  元は令嬢だったが、現在はお針子として働くアメリア。彼女はある日突然、公爵家の三男シャーロックに求婚される。ナイトの称号を持つ元軍人の彼は、社交界で浮名を流す有名な人物だ。  破産寸前だった父は、彼の申し出を二つ返事で受け入れてしまい、アメリアはシャーロックと婚約することに。  だが、シャーロック本人からは、愛があって求婚したわけではないと言われてしまう。とは言え、なんだかんだで優しくて溺愛してくる彼に、だんだんと心惹かれていくアメリア。  初夜以外では手をつけられずに悩んでいたある時、自分とよく似た女性マーガレットとシャーロックが仲睦まじく映る写真を見つけてしまい――? 「私は彼女の代わりなの――? それとも――」  昔失くした恋人を忘れられない青年と、元気と健康が取り柄の元令嬢が、契約結婚を通して愛を育んでいく物語。 ※全13話(1話を2〜4分割して投稿)

姉に代わって立派に息子を育てます! 前日譚

mio
恋愛
ウェルカ・ティー・バーセリクは侯爵家の二女であるが、母亡き後に侯爵家に嫁いできた義母、転がり込んできた義妹に姉と共に邪魔者扱いされていた。 王家へと嫁ぐ姉について王都に移住したウェルカは侯爵家から離れて、実母の実家へと身を寄せることになった。姉が嫁ぐ中、学園に通いながらウェルカは自分の才能を伸ばしていく。 数年後、多少の問題を抱えつつ姉は懐妊。しかし、出産と同時にその命は尽きてしまう。そして残された息子をウェルカは姉に代わって育てる決意をした。そのためにはなんとしても王宮での地位を確立しなければ! 自分でも考えていたよりだいぶ話数が伸びてしまったため、こちらを姉が子を産むまでの前日譚として本編は別に作っていきたいと思います。申し訳ございません。

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

二年後、可愛かった彼の変貌に興ざめ(偽者でしょう?)

岬 空弥
恋愛
二歳年下のユーレットに人目惚れした侯爵家の一人娘エリシア。自分の気持ちを素直に伝えてくる彼女に戸惑いながらも、次第に彼女に好意を持つようになって行くユーレット。しかし大人になりきれない不器用な彼の言動は周りに誤解を与えるようなものばかりだった。ある日、そんなユーレットの態度を誤解した幼馴染のリーシャによって二人の関係は壊されてしまう。 エリシアの卒業式の日、意を決したユーレットは言った。「俺が卒業したら絶対迎えに行く。だから待っていてほしい」 二年の時は、彼らを成長させたはずなのだが・・・。

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

どうやら私(オタク)は乙女ゲームの主人公の親友令嬢に転生したらしい

海亜
恋愛
大交通事故が起きその犠牲者の1人となった私(オタク)。 その後、私は赤ちゃんー璃杏ーに転生する。 赤ちゃんライフを満喫する私だが生まれた場所は公爵家。 だから、礼儀作法・音楽レッスン・ダンスレッスン・勉強・魔法講座!?と様々な習い事がもっさりある。 私のHPは限界です!! なのになのに!!5歳の誕生日パーティの日あることがきっかけで、大人気乙女ゲーム『恋は泡のように』通称『恋泡』の主人公の親友令嬢に転生したことが判明する。 しかも、親友令嬢には小さい頃からいろんな悲劇にあっているなんとも言えないキャラなのだ! でも、そんな未来私(オタクでかなりの人見知りと口下手)が変えてみせる!! そして、あわよくば最後までできなかった乙女ゲームを鑑賞したい!!・・・・うへへ だけど・・・・・・主人公・悪役令嬢・攻略対象の性格が少し違うような? ♔♕♖♗♘♙♚♛♜♝♞♟ 皆さんに楽しんでいただけるように頑張りたいと思います! この作品をよろしくお願いします!m(_ _)m

処理中です...