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46.もう一度

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 揺れる馬車の中、置き去りにした三人のことは少し気になるけど、帰る手段がないというわけではないからひとまず置いておいて、前に座るノエルの様子をうかがう。
 いつものように、彼の水色の瞳は窓の外に向けられている。変わらない表情の下で何を思っているのかは、あいかわらずよくわからない。

 だけど、わざわざアニエスの口を封じたということは、少なからず思うところがあったはず。

「さっきは……アニエスが無礼なことを言って、ごめんなさい」

 申し訳なさから視線を手元に落とす。彼の表情からは何もうかがえないとわかっているからこそ、胸が絞めつけられる。
 ほんの少しでいいから、彼の感情が、思っていることが読み取れればいいのにと思ってしまう。そうしたら、彼のためになる言葉を選べるのに。

「僕は気にしていないので、あなたも気にしないでください。それに、今回が初めてというわけでもありませんし……以前にも同じようなことを彼女に言われたことがあるので、大丈夫です」

 二度目なら、もっと駄目なのでは。
 思わずそんな感想を抱きかけたけど、それよりも聞き捨てならないことがあった。

 以前に、とはどういうことだろうか。言われた、ということはアニエスと直接話したことがある、というわけで。

 ジルに送られた推薦状のことが頭を掠める。もしも、ジルの時と同じように、ノエルもアニエスから私のことを聞いて、興味を抱いたのだとしたら。彼が私を好きになったのが、アニエスから話を聞いたからだとしたら。

「クラリス」

 足元が崩れ落ちそうな感覚の中、ノエルの声が聞こえた。

「隣に座ってもいいですか?」
「え、ええ、はい」

 緩慢に頷くと、衣擦れの音が前から隣に移動する。少しだけ視線を横に向けたら、水色の瞳とかち合った。

「そういえば、ミュラトール領であなた達と会った時のことを話していませんでしたね」
「あなた……たち?」
「はい。あなたと、あなたの妹です。ミュラトール領を訪れた時に丘で遊んでいるあなた達と会いました。その時にも同じようなことを言われて……今回と同じように、あなたが窘めていましたね」

 覚えて、いない。
 そんなことがあっただろうかと記憶をさらうけど、思い出せない。

「だから、あなたの妹があんな感じなのは最初からわかっていました。なので、あなたが気にするようなことではありません」
「それは、ありがたいのだけど……でも、ごめんなさい。私、何も覚えてないわ」

 ノエルは、ミュラトール領を訪れた時に私を好きになったのだと言っていた。それはつまり、彼にとって私と出会ったのは大切な思い出だということだ。それなのに、私の中にはない。
 私にとって、彼と出会ったのはほんの些細なことだったという事実が非常に申し訳なくて、自らの不甲斐なさに胸が苦しくなる。

「ほんの一瞬だけでしたから、覚えていないのも無理はありません。僕は同年代の子供と接する機会があまりなかったので、あなた達と話したのが新鮮だった、というのもありますし……それでもどうしても、覚えていないことを申し訳なく思ってしまうのなら、僕のお願いをひとつ聞いてくれますか?」
「ええ、それは、もちろん。なんでも聞くわ」

 結婚を明日にとか、ジルを毎日フロランのところに連れていくとか、どんな無茶振りでも聞き遂げるつもりで全力で頷くと、ノエルの頭が少しだけ傾いた。

「これから何があっても、僕から逃げないと約束してくれますか?」

 告げられたのは、思ってもいなかったお願いだった。

「それは、もちろん……逃げるつもりはないけれど……。いえ、そうね。何があっても、絶対に逃げることはないわ」

 これがリスクのある約束だということはわかっている。だけど、ノエルなら、私が逃げ出したいと思うようなことはしないはず。
 だから彼を信頼して断言すると、少しだけ、ほんのわずかに、ノエルの口角が上がったような、気がした。

「ジルは僕の兄です」

 だけどそんな衝撃は、より大きな衝撃によって潰された。

「兄って、それって、えっと、兄弟子、ということは、知っているけど?」
「いえ、血縁上の兄だということです。僕の身内のほうがあなたに多大な迷惑をかけているので、身内のことを申し訳なく思う必要はないと、お伝えしておこうと思いました」

 言われてみれば、ジルとノエルは親しげだった。
 家を建てる手助けをしたのも、偶然見かけたからとかだと思っていたけど、それなら他の魔術師も何かしら手を貸すはず。だけどジルの話の中にはフロラン様の名前すら出てこなかった。
 ということは、ノエルが直接ジルに話したということだ。でも普通、時期の被っていない、しかも業務上のやり取りが主な兄弟子に、お付き合いをはじめてすぐ、家を建てる話をするだろうか。
 一日で家を建てたのが衝撃的すぎて疑問にすら思わなかったけど、考えてみたら少しおかしな話だった。


「……僕との結婚が嫌になりましたか?」
「え? いえ、それはないわ。大丈夫よ。ただちょっと、すごく、驚いただけで……」
「それなら安心しました。あんなのが親族になるなんて、と言われてもあなたを手放せる気がしなかったので」

 だから約束という形で縛りました。そう言うノエルの顔はあいかわらずだ。
 声色も瞳も顔色も、何もかもがいつも通り。その変わることのない顔を、両手で挟み込む。

「あなたって、案外自信がないのね」

 瞬く瞳の中で、私が微笑んでいるのが見える。

「あなたは魅力的な人よ。だから私も、あなたを好ましいと思って、結婚を申し込んだんだもの」
 
 たとえ顔は変わらなくても、彼には感情がある。彼の言葉には熱がある。そして感情があるのなら当然、不安になることもある。
 愛ある恋人を演じてほしいと言うのも。逃げないと約束させるのも。ノエルの中にある不安の表れだ。
 
「順序を間違えたわね。契約という形で結婚を申し込むのではなく、お互いを知ってから申し込むべきだったわ」

 焦っていたからとはいえ、最初の一手を間違えたのは私だ。
 もっと親しくなってから付き合ってほしいとお願いしたのなら、ノエルが不安に思うこともなかったはずなのに。

「ノエルの人となりを知った後でも、私はきっと同じ選択をしたわ。だから改めて、お願いするわね」

 ノエルの表情が読めないことが寂しかったり、嫌気が差して撤回されるのではと不安に思ったり、彼を笑わせたいと思うのもすべて、私が私として、彼との結婚を望んでいるから。

「私はあなたのことが好きよ。だから、私と結婚を前提にしたお付き合いをしませんか?」

 ゆっくりと、水色の瞳が瞬く。水面が揺れることはないけど、触れている頬が、少しだけ熱くなっているような気がする。
 気のせいかと思ってしまうような、ほんのわずかな変化。そんなちょっとした変化すらも見落としたくないと思ってしまう。

 事務的な対応も、表情とちぐはぐな言動も、淡々とした物言いも、ふとした拍子に見せる好意も、そのすべてが好ましくて、ちょっとした変化でも嬉しくなる。
 だからきっと、私は彼のことが好きなのだと思って口にしてみたけど、想像していた以上に気恥ずかしい。
 ノエルが何も言わないのが、よりいっそう羞恥を駆り立てる。

「……返事を、聞いてもいいかしら」
「ああ、そうですね。少々、驚いていました……」

 頬を挟んでいた両手を掴まれて、引っ張られる。傾いだ体がノエルに支えられ、そのまま抱きしめられた。

「はい。喜んで」

 頭上から落ちてくる、いつもと変わらない声。顔も、きっといつもと変わらないのだろう。
 それでも、少しぐらいは笑ってくれていると思うことにする。だってきっと、心の中では笑っているはずだから。
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