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35.挨拶
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「クラリス」
この家にノックもなく扉を開ける使用人はいない。たとえ主が不在だと思っていても、確認ぐらいはしてくれるはず。
そして扉の向こうから飛びこんできた素っ頓狂な声に、思わずため息が出そうになった。
「こんな時間に……それに、そちらは?」
困惑した顔のお父様が、視線を私と、椅子に座ったままのノエルの間を行き来させる。
「入り用なものを取りに来ただけよ」
「……なら正面から入ってくればいいだろう。物音がするから、泥棒でも入ったと思ったぞ」
まあたしかに、誰もいないはずの部屋から音がしたら、泥棒を疑うのも無理はないかもしれない。
それについては正面から帰ってこなかった私が悪い。だけどそもそも、誰とも会わず家を出るつもりだった。
物が減ったことに関しては書置きのひとつでも残しておけばいいだろう、と思って。
「まったく……アニエスの言う通りか」
はあ、と大きなため息を共に出てきた妹の名前に、頬が引きつる。
「アニエスが、何を言ったの?」
「自棄になっていると……お前はしっかりしているから、そんなことはないと思っていたが、こんな泥棒の真似事をするとは……」
正気とは思えない。とまでは言われていないが、お父様の目には落胆の色が見える。
たしかに、普通に帰ってこなかった私が悪い。そんなのはわかってる。
だけど、そんなに落胆されることだろうか。私が私の部屋で、私の物をどうしようと、私の勝手ではないだろうか。
持っていく用に選んだ服もアクセサリーも、ジルからのお小遣い――もとい、弟子の給料で買ったものだけ。
買い与えられたわけでも、買ってもらったものでもない、私の物なのに。
「お初にお目にかかります」
変わらない、淡々とした声が部屋に響く。
椅子に座っていたはずのノエルがいつの間にか私の横に立ち、お父様を見ていた。
「僕は魔術師フロランの弟子、ノエルと申します。先日より彼女とお付き合いさせてもらっていまして……娘さんを僕にいただけますか?」
小さくノエルの首が傾き、肩にかけられていた黒髪がさらりと落ちる。
唐突な要求に、お父様が目を丸くした。だけどそれは一瞬で、すぐに唇をわなわなと震わせはじめる。
「な、何を突然……そう言われて、はいどうぞと答えられるはずがないだろう」
「そうですか、それは残念です。……ですが、すでに結婚を前提としたお付き合いをさせてもらっていますので、娘さんは僕がいただきます」
はっきりとそう断言すると、まとめ終わった鞄と私を抱えて、何食わぬ顔で窓を出て、そのままバルコニーを飛び降りた。
落下の衝撃を想像し、ぎゅっと目をつむってノエルの首にしがみつく。だけど思ったような衝撃は訪れず、代わりにふわりと体が浮く感覚がした。
「荷物はこれで全部でよかったですか?」
落下が終わる感覚がして、目を開ける。手に持った鞄を少し持ち上げながら首を傾げているノエルが見えた。
「え、ええ、はい、だい、じょうぶよ」
ノエルの顔は、いつもとまったく同じ。水面が揺れることもなければ、血色がよくなったりもしていない。
ついさっき、拉致宣言をした人とはとうてい思えない顔がすぐそばにある。
「あの、先ほどの、は?」
「先ほどの? ……ああ、結婚の挨拶をする際の常套句のことですか?」
「常套句なの……? あまり、聞いたことはないけど」
「おや、そうですか。それなら最初から、結婚しますとだけ言えばよかったですね」
そもそも、貴族の結婚は両家の親同士が決めてくるのが大半で、当人同士が気に入っての場合も、親が相手の家に話を通したりする。
だから、わざわざもらいますと挨拶することはほとんどない。
「……自棄になっているとか言ってたのは、気にならなかったの?」
挨拶もそうだけど、何よりもノエルの宣言は話の流れにも状況にも、噛み合っているとは言えなかった。
だって普通、自棄になっていると聞けばそんなことはない、と説得するものじゃないのだろうか。
「気になりませんね。大切なのは、あなたがこうして僕の手の中にいることだけですよ」
そう言って、ノエルが私を抱きしめる力が少し強くなったような気がした。
この家にノックもなく扉を開ける使用人はいない。たとえ主が不在だと思っていても、確認ぐらいはしてくれるはず。
そして扉の向こうから飛びこんできた素っ頓狂な声に、思わずため息が出そうになった。
「こんな時間に……それに、そちらは?」
困惑した顔のお父様が、視線を私と、椅子に座ったままのノエルの間を行き来させる。
「入り用なものを取りに来ただけよ」
「……なら正面から入ってくればいいだろう。物音がするから、泥棒でも入ったと思ったぞ」
まあたしかに、誰もいないはずの部屋から音がしたら、泥棒を疑うのも無理はないかもしれない。
それについては正面から帰ってこなかった私が悪い。だけどそもそも、誰とも会わず家を出るつもりだった。
物が減ったことに関しては書置きのひとつでも残しておけばいいだろう、と思って。
「まったく……アニエスの言う通りか」
はあ、と大きなため息を共に出てきた妹の名前に、頬が引きつる。
「アニエスが、何を言ったの?」
「自棄になっていると……お前はしっかりしているから、そんなことはないと思っていたが、こんな泥棒の真似事をするとは……」
正気とは思えない。とまでは言われていないが、お父様の目には落胆の色が見える。
たしかに、普通に帰ってこなかった私が悪い。そんなのはわかってる。
だけど、そんなに落胆されることだろうか。私が私の部屋で、私の物をどうしようと、私の勝手ではないだろうか。
持っていく用に選んだ服もアクセサリーも、ジルからのお小遣い――もとい、弟子の給料で買ったものだけ。
買い与えられたわけでも、買ってもらったものでもない、私の物なのに。
「お初にお目にかかります」
変わらない、淡々とした声が部屋に響く。
椅子に座っていたはずのノエルがいつの間にか私の横に立ち、お父様を見ていた。
「僕は魔術師フロランの弟子、ノエルと申します。先日より彼女とお付き合いさせてもらっていまして……娘さんを僕にいただけますか?」
小さくノエルの首が傾き、肩にかけられていた黒髪がさらりと落ちる。
唐突な要求に、お父様が目を丸くした。だけどそれは一瞬で、すぐに唇をわなわなと震わせはじめる。
「な、何を突然……そう言われて、はいどうぞと答えられるはずがないだろう」
「そうですか、それは残念です。……ですが、すでに結婚を前提としたお付き合いをさせてもらっていますので、娘さんは僕がいただきます」
はっきりとそう断言すると、まとめ終わった鞄と私を抱えて、何食わぬ顔で窓を出て、そのままバルコニーを飛び降りた。
落下の衝撃を想像し、ぎゅっと目をつむってノエルの首にしがみつく。だけど思ったような衝撃は訪れず、代わりにふわりと体が浮く感覚がした。
「荷物はこれで全部でよかったですか?」
落下が終わる感覚がして、目を開ける。手に持った鞄を少し持ち上げながら首を傾げているノエルが見えた。
「え、ええ、はい、だい、じょうぶよ」
ノエルの顔は、いつもとまったく同じ。水面が揺れることもなければ、血色がよくなったりもしていない。
ついさっき、拉致宣言をした人とはとうてい思えない顔がすぐそばにある。
「あの、先ほどの、は?」
「先ほどの? ……ああ、結婚の挨拶をする際の常套句のことですか?」
「常套句なの……? あまり、聞いたことはないけど」
「おや、そうですか。それなら最初から、結婚しますとだけ言えばよかったですね」
そもそも、貴族の結婚は両家の親同士が決めてくるのが大半で、当人同士が気に入っての場合も、親が相手の家に話を通したりする。
だから、わざわざもらいますと挨拶することはほとんどない。
「……自棄になっているとか言ってたのは、気にならなかったの?」
挨拶もそうだけど、何よりもノエルの宣言は話の流れにも状況にも、噛み合っているとは言えなかった。
だって普通、自棄になっていると聞けばそんなことはない、と説得するものじゃないのだろうか。
「気になりませんね。大切なのは、あなたがこうして僕の手の中にいることだけですよ」
そう言って、ノエルが私を抱きしめる力が少し強くなったような気がした。
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