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1巻

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 ハロルドにとっては、大切な思い出ではなかったようだけど。

「体調が悪いので、これで失礼いたします」

 ドレスのすそをつまんで一礼し、ハロルドに背を向けて歩きはじめる。
 後ろからハロルドが私を呼ぶ声と、侍女の制止の声が混ざるけど、足を止める気はなかった。
 優しかった頃のハロルドがどれほど私の心を占めているのか実感させられたのと同時に、いつかは裏切られるのだという思いが胸の中で渦巻く。
 このままあの場にいれば、大きくなってからのハロルドに対する憤りを、今のハロルドにぶつけてしまいそうだった。

「……どうしようかな」

 いくらか歩いて、二人の声がようやく聞こえなくなったところで、足を止める。帰るにしても、侍女が一緒でなくては馬車を出してはくれないだろう。
 なのでハロルドが立ち去るまで時間を潰したいが、城内をうろつく許可は得ていない。どこに何があるのかは知っているけど、誰かに見咎みとがめられたら弁解のしようがない。
 だから、今の私は庭園にいるしかない。幸い王城の庭園は広いから、ハロルドとばったり出くわしたりはしないだろう。それに腕のよい庭師によって管理されている庭園には、色鮮やかな花々が陽の光を受けて輝いている。その様は見る人の目を奪い、時間を忘れてしまいそうなほど美しい。

「でも……」

 道を飾るように咲いている花に目を向ける。
 庭園はハロルドとの思い出があふれている場所だ。季節に合わせて入れ替わる花を二人で見て、それがどんな花なのかを優しかった頃のハロルドは教えてくれた。
 正直、あまり長居したい場所ではない。
 戻ればハロルドと出くわすかもしれない。留まれば、否応なく六回目の人生までのハロルドが教えてくれた花の名が頭に浮かぶ。
 闇雲に歩き回ったりしたら、それだけ思い出がよみがえるだろう。
 できるだけ花を視界に入れないようにしながら歩き、石畳みが敷かれた道を少し外れて端のほうでうずくまる。そして、立てたひざの上に顔を伏せた。

「三十分、くらいかな」

 ハロルドは幼い頃から多忙の身だった。だから、いつまでも庭園に留まることはない。三十分もすれば立ち去るだろう。
 侍女から報告を受けたお父様は激怒するだろうけど、そこはもうしかたない。そもそも、私がハロルドと婚約しない時点で、家族にとって私はいらない娘だ。
 家を出る十歳までは家に置いてもらうしかないが、その間でいくら怒られようと構わない。

「せめて楽しいことでも、考えよう」

 沈みかけていた気分を変えようと、逃げた先でどうするかを考える。
 十歳は自立できる年齢とは言えないけど、外を一人で歩いていてもおかしくない年齢でもある。
 職人の道に進む子供が、親や縁のある職人のもとで修業を始めるのも十歳になってからが多い。

「私の場合、職人にはなれないだろうけど」

 人生が十六歳で終わるかもしれないことを考えたら、無茶だ。一朝一夕で極められるほど、職人の道が甘くないことは知っている。
 それに私は市民の生活をこの目でしっかりと見たわけではないので、考えもつかない苦労も多いだろう。
 だけど思い描くのなら、幸せな夢がいい。辛いこともたくさんあると思うけど、こうして夢見る間くらいは、明るい未来を描きたい。
 たとえば友人を作るのもいいかもしれない。これまでの六回で、私は友人と呼べるような親しい間柄を築くことはできなかったから、今回は友人を作ってささいなことでも話せる関係を築きたい。
 たとえまた人生が十六歳で終わったとしても、八回目のかてになる、そんな思い出を作りたい。
 そんな胸が苦しくなるような夢を描いていたら、頭上から声が降ってきた。

「どうしたの?」

 ゆっくりと顔を上げると、うなじのあたりで髪を一つに結んだ少年が私を見下ろしていた。
 赤茶色の髪に緑色の瞳。王であるディナント陛下と同じ髪の色と瞳の色を持つこの少年を、私は知っている。
 先の王には、息子が二人いた。現在の王であるディナント陛下は弟で、本来なら兄であるマクシミリアン様が玉座に座るはずだった。
 だけどマクシミリアン様が視察で向かった先で落石事故に巻きこまれ、先王と共に命を落とした結果、ディナント陛下に玉座が回ってきた。
 運がいいのか悪いのか、その後ハロルドが三歳の時に、マクシミリアン様の息子が見つかった。
 マクシミリアン様と恋仲だと噂されていた令嬢が、こっそり産み育てていたそうだ。そして彼女が病に倒れたことにより、彼女に仕えていた従者が助けを求めてきたという。
 だけど駆けつけた時には彼女はすでに手遅れで、息子だけが城で世話になることになった。
 既にハロルドが生まれ、ディナント陛下が王として数年国を治めていたこともあり、その息子は公爵位を与えられた。

「クレイグ、殿下」

 それが、今私の目の前にいる少年だ。

「俺のこと、知ってるの?」
「お噂を耳にしました」

 これまでほとんど関わったことのない相手だけど、顔と名前、そして噂程度なら知っている。
 何をやらせても優秀だけど、やる気がなく、部屋にこもってばかりだと噂されていた。

「どうせろくでもない噂なんじゃないかな」
「とても聡明であると、そうお聞きしております」

 噂を聞いたのは今世ではないけど、内容に変わりはないだろう。

「ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません。私はクラリス・リンデルフィルと申します」

 立ち上がり一礼すると、クレイグ殿下は柔らかな笑みを浮かべた。

「俺から話しかけたんだから、あまり気にしなくていいよ。俺は――知っているだろうけど、クレイグ・バルフィット。一応公爵ってことになってるかな」

 マクシミリアン様が王になったあかつきにご自分がたまわるはずだった領地と爵位を、ディナント陛下はクレイグ殿下に与えた。

「領地経営にたずさわっているわけではないから、あまり公爵って感じはしないけどね」

 肩をすくめておどけるように言うクレイグ殿下に、私は苦笑を返す。
 彼は私の二つ上で、今は八歳のはずだ。バルフィット領を与えられた時にはもっと幼かったはずで、そんな幼い時分で領地を得ようと、できることなんてほとんどない。
 そのため、領地の管理はディナント陛下の家臣が請け負っていた。
 ディナント陛下は父と兄をとても尊敬していたらしく、兄の遺児であるクレイグ殿下のことも大切にしている。
 そして父と兄に恥じない王になろうと日々切磋琢磨せっさたくましている、らしい。
 らしい、と曖昧あいまいなのは、人伝ひとづてでしか聞いたことがないからだ。六回目までの私の知っているディナント陛下は少々――いや、かなり自暴自棄な方だった。
 これは、ディナント陛下が信頼してバルフィット領の管理を任せていた家臣が、悪事を働いたことに起因する。
 王女のためだけに『顔だけ公爵家』を生み出したこともあり、我が国の貴族たちは王家に厳しい。
 バルフィット領の話はすぐに貴族の間に広がり、クレイグ殿下に同情が集まった。そして同時に、ディナント陛下に非難の目が向いた。
 自分の地位をおびやかされるのを恐れて不徳な家臣を据えたのでは――そんな噂すら飛び交った。
 それからというもの、ディナント陛下のやることなすこと裏目に出るようになり、次第にばちになっていく。
 一回目の人生では一連の流れを直接目にしたわけではない。王太子妃になる立場として顛末てんまつを聞いただけだ。
 そして、二回目の人生で家臣の裏切りをどうにかできないかと考えた。
 だけどハロルドの正式な婚約者になってから動き出したところ時すでに遅く、すべて終わっていた。
 三回目では、自分が幸せになれないならせめてディナント陛下を幸せにしたいと思った。だから噂話として家臣の裏切りのことをハロルドの耳に入れ、なんとかディナント陛下に伝わるようにした。
 そのかいあってか、例の家臣は別の職に回されたらしく、他の人が管理するようになった。
 それでも駄目だった。新しく任された人が悪事に手を染めたのだ。しかもわざわざ交代させてのことだったので、ディナント陛下に対する非難の声はこれまでの比ではなかった。
 四回目もどうにかしようとしたけど、どうしてその家臣が悪事を働いてしまうのかを調べることすらできなかった。
 ハロルドに気に入られはしたけど、正式な婚約者でもない、名ばかり公爵の娘にできることなんて、たかが知れていた。
 時間も力もない私ではどうにもならないと、五回目からは諦めた。
 だけど今回は、クレイグ殿下と出会った。これまでの六回で出会うことのなかった相手と。

「いえ、クレイグ殿下は優秀な方ですから……ご自身で領地を管理できるのではないでしょうか」
「俺にはまだ早いんじゃないかな」
「そんなことはございません」

 私の知るディナント陛下は自暴自棄で、いつも疲れた顔をしていた。だけど、ハロルドの婚約者になった時は明るい笑顔で私を歓迎してくれた。
 そして、勉学にいそしむ私をめてくれた。

「興味がおありでしたら、陛下にお伝えしてみてはいかがでしょう」

 前より早い段階でクレイグ殿下が領地に目を向けるようになれば、ひいてはディナント陛下の注意が向かえば家臣も悪事を働けなくなるのではないだろうか。
 そして、どうしてもくつがえせなかった運命を変えることができれば、この先で訪れるかもしれない私の運命も――十六歳で途切れる人生も変えられるかもしれない。
 そう、思えるような気がした。


 それから数日後、私はまた城に招かれた。クレイグ殿下の、勉強友達として。
 領地運営ができる年齢ではないので、まずは必要な知識を学ぶことにし――何故か、クレイグ殿下は一緒に学ぶ相手として私を指名したらしい。
 しかもその旨をつづった手紙には、ディナント陛下の署名があった。
 お父様は突然舞いこんできたディナント陛下直々の打診に、踊り出さんばかりに歓喜していた。
 そして上機嫌なまま、私をクレイグ殿下のもとに送り出した。
 とはいっても、クレイグ殿下と親睦しんぼくを深めることを望んでいるわけではない。
 マクシミリアン様の子と付き合いがあればディナント陛下の覚えがよくなり、ハロルドの婚約者に選ばれやすくなる、というのがお父様の目論見もくろみだろう。
 何しろ、ハロルドに会う機会があればなんとしても好印象を与えてこい――つまり、たらしこんでこいと言われている。
 お父様の言葉に従いたくはなかったけど、クレイグ殿下の誘いを無下むげにすることはできない。それに、私はこれまでの人生で誰かと一緒に学んだことがなかった。
 誰かと学友になれるということに少しだけ心をおどらせながらクレイグ殿下のもとを訪ね、気づけば一ヶ月が経過していた。
 最初は一冊の本を一緒に読んで学んでいたはずなのに、気づけば何故か、私がクレイグ殿下の部屋で直接教えるようになっている。

「ええと、それで法を新しく作る場合は、国法を精査し矛盾がないようにしないといけません」
「でもある日突然法が増えたら、民の反感を買うんじゃないかな?」

 そして今日も、クレイグ殿下は私の隣で抱いた疑問を口にする。
 領主には自分の管轄かんかつにある領地に対して、ある程度の裁量が認められている。
 領民にかける税や私有兵の管理だけでなく、その領地だけの法を取り入れることもできる。国全体で定められている国法に反しない範囲で、といった制約はあるけど。

「その場合は領主に逆らったとして罰することもできますし、意見をんで一部を改変させることもできます。ですが、締め付けが厳しすぎれば反乱が起きるかもしれませんし、ゆるすぎては他の貴族に軽んじられるかもしれません。ですので、どう采配するかはよく考えなければいけませんね」

 領地で定めた法は、国に――王に報告され、吟味ぎんみされる。そのため、王太子妃になる予定だった私は、そのあたりについて王城で嫌というほど学んだ。人生六回分くらい。
 だから、教えることはできる。できるけど、クレイグ殿下は年下の、六歳の子供に教えてもらうことに、違和感を抱かないのだろうか。

「……あの、ちゃんとした教育係を頼まれたほうがよろしいのでは?」

 開いていた本を閉じて、隣に座るクレイグ殿下を見る。

「大人にしか習えないことなら大人に聞くけど、君に教わっても大丈夫だと思ったから、君にお願いしているだけだよ」
「でも、私は教師ほどの知識があるわけではありません」
「なら一緒に学べばいいんじゃないかな。得た知識は、いつどこで役に立つかわからないからね」

 私としては、領地運営よりも市井しせいでの生活について学びたい。
 今後の私に必要な知識は、市井しせいでどう暮らしていけばいいのかだ。だけど、さすがにそれを口にすることはできない。
 それにやる気を出してくれたクレイグ殿下の気をぎたくなかった。

「クレイグ殿下は……私に教わるのが嫌ではありませんか?」
「嫌だったら最初からお願いしてないよ。どうしてこんな知識を持っているのかは気になるけど」
「……お父様は、私をハロルド殿下の婚約者にしたいようで、それで色々と教わりました」

 嘘、というほどではない。実際、色々教わりはした。家で教わったのは美容によい食べ物とかおおよそ知識といえないものばかりだけど。
 それに我が家は名ばかり公爵ではあるけど、それでもどうにか名を上げようと頑張ったご先祖様もいたようで、文献だけなら大量にある。より詳しく聞かれたら、それを読んだことにしよう。

「ハロルド……ああ、ハロルド、ね。そういえば、婚約者がまだ決まらないらしいよ。高位貴族の令嬢を集めた茶会をまた開くそうだけど、君も参加するの?」
「招待状が届いたら、参加せざるを得ないかと」
「その様子だと、参加したくないみたいだね」

 クレイグの言葉に少しだけ視線を下げる。
 貴族令嬢の集まったお茶会は、何歳になっても好きにはなれなかった。
 ハロルドに見初みそめられたのは顔が理由だと陰で言われ、ハロルドの隣にセシリアが立つようになってからは、あからさまな嘲笑も増えた。
 それでも笑顔を張りつけて、笑い続けていなければならなかった。王太子妃になるのなら、他者との間に軋轢あつれきを生まず、よりよい関係を築くようにと言われていたから。

「大丈夫?」

 緑色の瞳に見据えられていたことに気がつき、目をまたたかせる。大丈夫かどうか聞かれるような顔をしていたのだろうか。
 慌てて笑みを作り、クレイグ殿下を見上げる。そしてそこで、妙案が浮かんだ。

「あの、クレイグ殿下、不躾ぶしつけなこと承知しておりますが……一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「ん? どうかしたの?」

 お茶会が開かれるとしても、我が家にその話はまだ来ていない。

「もしよろしければ……バルフィット領を一緒に見に行きませんか?」

 王都を出ていれば、お茶会には参加できない。
 招待状が届いてからだとお父様は絶対に許してはくれないけど、届く前なら、渋々ではあっても許可を出してくれるはずだ。
 私のお願いにクレイグ殿下が面白そうに口の端を上げる。

「……茶会に参加しないため?」
「それは、それもありますが……クレイグ殿下は一度も領地に行かれていないとお聞きしましたので、座学だけではなく、実際に領地を目にされるのもよろしいのでは、と思ったからでもあります」

 もともとクレイグ殿下に領地に足を運んでもらいたいとは思っていた。王家が領地に注意を払っていることを示せば、家臣も不用意なことはできなくなるだろう。
 もしかすると一度で二つの運命を変えられるかもしれない。祈るようにクレイグ殿下を見つめる。

「……いいよ、陛下に聞いてみる」

 するとクレイグ殿下はわずかに口元をほころばせて頷いてくれた。
 そしてそのまま、今日の講義は終了となった。
 勉強の邪魔になるからと廊下に待たせていた侍女と共に、馬車まで向かう。王城は広く、クレイグ殿下の部屋は城の奥にあるため、それなりの距離を歩かないといけない。
 侍女はいろいろ考えているようで、悩ましげな顔をしている。だけどわざわざ言うほどではないのか、口を開く気配はない。
 二人して黙々と歩いていると、廊下の先に見慣れた顔を見つけた。

「クラリス嬢」

 思わず反転しかけた体を止める。
 はっきりと名前を呼ばれてしまったので、気づきませんでしたとは言えない。
 改めてハロルドのほうに向き直り、淑女の礼をとった。

「ハロルド殿下。本日もご壮健そうで何よりです」
「君も……元気そうでよかったよ」

 ハロルドはどこか気まずそうな顔をしているけど、立ち去る気はないようだ。じっとこちらを見つめている。

「……最近は、クレイグとよく過ごしているらしいね」

 そして、苦笑を浮かべていた口がゆっくりと言葉を紡いだ。
 クレイグ殿下とハロルドの仲はどうだったか、とこれまでの人生を振り返る。
 私の記憶にある限り、二人が仲良く話している場面を見たことはない。だけどそれは、私がクレイグ殿下と会う機会がなかったから、でもある。
 クレイグ殿下は式典以外に顔を出すことはなく、私との交流はほとんどなかった。だから、ハロルドと二人でいる場面を見たことも、あまりない。
 だけど、ごくたまに目にした二人は、仲が悪いというほどでもなかった、と思う。

「はい。クレイグ殿下が領地に興味があるそうで、共に学んでおります」
「君も勉強しているの?」

 きょとんと首を傾げるハロルドに頷いて返す。
 女性が爵位を継ぐことはない。当主になることのない私が領地について学ぶ必要があるのか、と疑問に思っているのだろう。
 実際、私も学ぶ必要はないと思っているけど、勉強友達ということになっているので、そう説明するしかない。

「リンデルフィル家には息子がいたと思うけど」
「おっしゃる通り、私には弟がおりますが、知識というものは得ておいても損にはなりません。ですので、学ばせていただいております」

 素っ気なく返すと背中に視線を感じた。少しだけ首を動かすと、侍女が厳しい目をしてこちらを見ている。
 だけど、どれほどにらまれようとお父様の言いなりになってハロルドにこびを売る気はない。そうしたところで無意味だとわかっているのだから、なおさらだ。

「どうして……君はクレイグとは仲がよさそうなのに、僕には冷たいのかな」

 悲しげに伏せられたハロルドの目に、侍女の視線がよりいっそう厳しくなったのを感じる。

「……君の気分を悪くさせたのはわかっているけど……でも、本当に同情とか、そういうのじゃなかったんだよ」
「それは、わかっております」

 今のハロルドに同情で言ったつもりは確かになかったのだろう。
 だけど泣きそうな私を放っておけず、やがて婚約者にし、――最後には愛するセシリアのもとへ去っていくのだから、今のハロルドがなんと言おうと、婚約は同情の結果としか思えない。

『俺の婚約者だったことを誇りに生きるんだな』

 最後の瞬間にハロルドから向けられた言葉。どれだけ勉強を頑張っても、ハロルドとの交流にいそしんでも、ハロルドは私ではなく、セシリアを選んだ。
 十年近く一緒にいても、ハロルドが私に愛情を抱くことはなかった――その事実を六度も見せつけられたのだから、違うと言われても、信じられるはずがない。

「なら、どうして君は僕を嫌うの?」

 今のハロルドが悲しそうに眉を下げている。
 六回頑張ってもあなたの愛を得られなかったから、と言うことはできない。言ったところで、理解してはくれないだろう。いや、表面上は理解したように振る舞ってくれるかもしれない。
 この時のハロルドは優しかったから、私を傷つけないように言葉を選んでくれるだろう。
 だけど、心の底でどう思うかまではわからない。妄執もうしゅうりつかれた哀れな子だと思うかもしれない。それで私を避けてくれるなら望むところだけど、自分はそんなことをしないと、逆効果になる可能性もある。

「嫌ってなど、おりません」

 ハロルドは確かに優しかった。
 セシリアと出会ってからもしばらくは優しいままだった。彼女をどういう風に助けたとか、そんな話をたくさん聞かせてくれていた。
 だけど、日が経つにつれ、私よりも彼女といる時間のほうが多くなった。
 どうして私では駄目だったのか。優しくしてくれた裏で、私に対してどう思っていたのか。六回繰り返しても、わからないままだった。
 合計して六十年近く一緒にいても、ハロルドの内心を理解することはできなかった。

「ただ、私はハロルド殿下の婚約者にはなりたくないのです」

 ハロルドの心情を推し量ることのできなかった私では、王太子妃にはふさわしくない。

「私はあなたにふさわしい器ではございませんので」

 自意識過剰だと思われても構わない。いけ好かない相手だと思って、放っておいてほしい。

「それでは失礼いたします」

 最後に一礼して、目を丸くしているハロルドの横を通りすぎる。
 たとえどれほど今のハロルドが優しくても、私を愛してくれない人と、これからの十年を一緒に過ごす気にはなれなかった。


     ◇ ◇ ◇


 それから数日が経ち、私は王都から馬車で二日ほどの距離にあるバルフィット領に足を踏み入れた。正確には、馬車に乗っていたので車輪が踏み入ったのだけど。
 まさか本当に来られるとは思わなかったので、気分が上がるのを抑えられない。

「バルフィット領は緑豊かな土地ですね」

 馬車から見える青く茂る草花に頬をゆるめる。道中で見た畑も実り豊かで、暮らす民の顔も明るい。
 クレイグ殿下が視察に来るからと整えられた場所もあるとは思うけど、それでも十分すぎるほど豊かな領地だ。

「うん。そうだね」

 クレイグ殿下が穏やかな笑みを浮かべながら頷いたところで、馬車がバルフィット邸に到着した。
 馬車を降りると、城と表現しても差し支えないほど大きな建物が視界いっぱいに広がった。
 我が家の爵位は公爵ではあるけど生活水準は子爵程度だ。領地にある屋敷の大きさはこの城の半分もないだろう。
 王都にある屋敷は、王女様が降嫁された時に建設されたものなので大きくはあるけど、それでもこの屋敷に比べれば小さい。
 私の知る貴族の生活とは天と地ほど違っていて、ただただ呆然としてしまう。

「本日は足を運んでいただき光栄です。代理を任されている者が出迎えることができず、申し訳ございません。彼は陽の光があまり得意ではないため、中でお待ちしております」

 出迎えてくれた執事の言葉に、完全に呆けていた意識が引き戻される。
 考えてみれば、本来バルフィット領はディナント陛下が即位しなかったときにたまわる予定だったのだから、城のような屋敷があってもおかしくはない。
 私がうろたえていたら、クレイグ殿下だけでなく、バルフィット邸で働く人たちにも呆れられてしまう。
 気を取り直し、クレイグ殿下と共に屋敷の中に入る。
 家臣が待っていると執事が案内してくれたのは、書類が山のように積まれている執務室だった。
 部屋の中は蝋燭ろうそくの火だけがゆらめき、薄暗い。分厚いカーテンが窓から入る日差しをさえぎっている。
 その中で私たちを待っていたのは、なんとも怪しい風体の男性だった。

「こちらまで足を運んでいただき、申し訳ございません。お出迎えできなかった無礼をお許しください」

 そう口にした男性の顔の上半分は仮面で覆われ、肩からかけられている外套がいとうは右腕の部分だけ垂れ下がっていて、質量を感じられない。
 横に立つクレイグ殿下も、あまりの怪しさにか目を見開いている。


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