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深雪が少し遅れて部室へ入って行くと、壁際のパソコンの前に風音が座り、その後ろに小松沢が立っていた。
「おつかれさまです」
深雪は挨拶もそこそこに荷物を置き、小松沢の半歩後ろに立って一緒にモニタを覗き込む。風音は画像ビューワに四枚の写真を並べて表示させていた。
「今ちょうどテーマの説明をして、わたしが撮ったものを見てもらってたところ」
風音は深雪の方を振り返って説明した。深雪は黙って頷き、画面を見つめている小松沢の横顔を見上げた。小松沢は授業の時のような厳しい表情で画面を睨みつけていた。最近になって深雪は、小松沢のこの表情は睨んでいるのではなく、単に真剣なまなざしというだけであることがわかってきた。それでも一見すると怒っているみたいに見える。小松沢はこの表情のせいで誤解されているように思えてならない。
「なあ、氷月、氷月はその“みち”っていうテーマから何を連想する?」
しばらく画面を睨んだ後で小松沢が口を開いた。風音はその言葉を受け取って解きほぐす。
「みち、道路、どこかとどこかを繋ぐもの、何かと何かを繋ぐもの、わたしが作るもの、わたしを導くもの、時間、過去から現在を経て未来につながるもの、生きていることそのもの、わたしのみち、他の人のみち、並ぶ、交わる、別れる、交差点、分岐点、結節点」
風音は頭の中から言葉を拾うように並べた。
小松沢は風音の紡ぎ出す言葉に頷いている。
「うん、それが氷月の考える“みち”だな?」
小松沢のその言葉を風音は小松沢の顔を見上げて聞いていた。
小松沢は風音の真剣な表情を見て頷き、人差し指を立ててからゆっくりと画面の方へ向ける。
「今氷月が並べた言葉たち、それを表現できている写真がそこにあるかい? そういう基準で篩にかけてみるといい。今ざっと見せてもらった感じだと、氷月は自分で理解しているそのテーマを写真の上に落とし込めていない」
「はい」
風音ははっきりと返事をした。
風音が深雪を振り返ると小松沢がその視線を追った。
「椋沢も持ってきたのか、写真」
「あ、はい。持ってきてます」
「見せてごらん」
深雪は風音と交代で椅子に座り、持参したメモリーカードを入れてデータをコピーする。学校のパソコンはウィンドウズなので深雪にも操作できる。コピーはあっという間に完了した。自宅でテーマに合いそうなデータだけを抜粋したら、ほとんど残らなかったのだ。数百枚あったはずのデータのうち、“みち”というテーマに合いそうなものは六十枚ほどしかなかった。
深雪は風音に倣い、ビューワソフトに四枚ずつ表示して見てもらうことにした。最初の四枚を表示して小松沢を振り返る。小松沢はしばし画面を見つめて小さく「次」と言った。深雪はそれを受けてパソコンを操作し、次の四枚を表示する。またしばらく見て「次」という言葉が届き、次の四枚を表示する。何度かそんなことを繰り返したところで小松沢は「うん」と言った。深雪は振り返って小松沢の顔を見上げる。
「椋沢はいい写真を撮りたいんだな」
深雪は意味を汲みそこなって足場を失った。小松沢の言ったことは当たり前のことなんじゃないかと思った。その様子を見て小松沢が続ける。
「いい写真を撮りたい。そりゃあそうだ。撮るからにはいいほうがいい。当たり前だな。ではいい写真とはいったいなんだ。いいとされてるものかな。雑誌に載ってるような写真、風景写真集に載っているような写真、写真家っぽい写真、なんだかかっこいい写真、そういう写真を撮る自分ってかっこいいな」
深雪は背骨に沿って汗がにじみ出るのを感じた。
「椋沢の写真は悪くない。むしろどんどん良くなってる。ただね、この中には椋沢がいない。カメラを学んだ、技術を学んだ、目もだんだん肥えてきた、良し悪しがわかるようになってきた、良いものを見て真似できるようになってきた、それは進歩だ。そこはしっかり誇っていい。だけどここに椋沢はいない。頭が先に行っちゃってる」
小松沢は、わかるかい、と言っているような表情を深雪に投げた。
「わたしが、いない」深雪はじっくりとその言葉を噛みしめて画面に視線を戻した。
自分は何を思ってシャッターを切ったろう。深雪は一つ一つの写真についてそれを思い出そうとした。この日差しを捕まえてコントラストを高めにしたらかっこいいかな。ここはあえて逆光でシルエットを見せたらかっこよくなりそうだな。地平線を低めにレイアウトして空の広がりを見せたらどうかな。普段は気にしない細部に寄ることで着眼点をアピールできないかな。
ふと、風音が暗室で言っていた、フィルムを現像するとおかえりっていう気がするという言葉を思い出す。シャッターを切った時の自分と再会する。おかえり。君はいったい何を思ってこのときシャッターを切ったの?
深雪の中にはいつも衒いばかりが渦巻いていた。風音のようになりたい、うまいねと言われたい、いい写真だと言われたい。風音にはこういう衒いのようなものはないのだろうか。そう思って風音の方を見る。風音は何もない空中を見つめたまま立っている。きっとさっきの小松沢の言葉を受け取って何かを考えているのだろう。虚空を見つめているのにぼんやりしているわけではなく、目に確かな光を湛えていた。
そういえば海人はフォレストで多くのいいねを獲得するために写真を撮ると話していた。もとより彼は最初から評価を得る目的で写真を撮っている。深雪にはそういう割り切りもない。いいね欲しさに作為的な写真を撮ることを軽蔑すらしていた。それなのに深雪はそれとほとんど変わらないことをやってきたのではないか。
あんたはどういう写真を撮りたいの? 風音に初めて会った日に言われた言葉が深雪の内側に響く。
「わたし、わたしはどんな写真を撮りたいんだろう」
深雪は声に出してつぶやいた。深雪が振り返ると小松沢は満足そうにうなずいていた。風音が先生に見せようと言ったことの意味も良く分かった。自分では気づかないようなことを気づかせてくれる。教えを乞うのではなくヒントをもらうのだ。
帰りに学校を出たところで深雪は風音を呼び止める。いつもは門を出るとすぐに別々の方向へ進む。涼月へ行く日は並んで歩く。今日は別れて家へ帰る日だったけれど、門を出たところで深雪から声をかけた。
「ね、風音さっきの小松沢先生の話さ、あれ聞いてどう感じたの?」
深雪より半歩先を行っていた風音が振り返る。
「どうって? なるほど、って思ったよ」
「何がなるほどだった?」と深雪は聞く。
「なにもかも。先生はまずわたしにテーマから連想する言葉を言わせたでしょ。あれがいきなりなるほど」
「え? どういう風に?」深雪は身を乗り出して聞き返した。
深雪は相手が当然のように理解していることを自分が理解できないとそれが恥ずかしいことのように思えて聞き返せないことがよくあった。でもなぜだか、相手が風音だと平気だった。どんなことでも聞き返せる。それはなぜ? どういう意味? 風音には自然に聞けた。
「テーマってよくわからないでしょ。たとえば作品のテーマは“命”です、っていう場合に、単に生きてるものの写真を撮ってもそれはテーマに沿って作品を撮ったことにならないでしょ。テーマを自分で理解するにはそこから連想した言葉を列挙してみればいい。きっと先生はそれを教えようとしてくれたんだと思うよ。テーマを分解して言葉にしてみる。それがテーマを理解するための第一歩になるっていうこと」
深雪は驚いて言葉が出なかった。
「わたしはテーマをちゃんと捕まえた上で、それを写真に落とし込めてない。その指摘もその通りだと思った」
「落とし込めてないの? あの写真でも」深雪は納得できなくて聞いた。
「落とし込めてないね。自分でテーマから連想する言葉を列挙してみて、初めて自分がテーマから何を拾ったのかわかった。それはここに入ってる写真を撮ったときにはまったく思いもしなかったもの」風音はそう言って首からかけていたカメラを深雪の方へ見せた。
「風音ってすごい自信家なのかと思ってたけど意外と謙虚なんだね」
深雪が感じたままを口にすると風音は笑い出した。
「自信はあるよ、それなりに。でも自信を持つことと自分を過大評価することは違うのよ。わたしは自分に見えてない自分に足りないものを先生に気づかせてもらったの。先生も、ケンさんも、深雪も、わたしにそういうことを教えてくれる」
「わたし? わたしも含まれてるの?」
深雪は驚いて尋ねた。
「あたりまえでしょ。謙虚って言うとなんか崇高な感じするけどね。ただ貪欲なだけだよ。わたしは今より前に進みたいだけ。そのためには人の話に耳を傾けるのが一番。先生の話も、ケンさんの話も、深雪の話も聞きたいよ」
「すごいなあ、風音は」
「深雪はさ、きっと誰かと話す時にさ、すぐ相手のことをわかった気になっちゃうんじゃないの? それで自分より上だとか下だとか、そういう上下をつけちゃう。クラスの子たちにもそういう子多いけどさ、入学した直後にもうさ、あの子は上、あの子は下っていう空気、あるじゃない? そうやって判別して、自分より上の人の話は聞きたがるけど下の人には興味がない、深雪もそうやって自分の基準で話す価値のある相手かどうかを決めちゃってるんじゃないの?」
深雪は言葉が出なかった。上とか下とかそういう区別をつけたがる子は深雪の周りにもいて、深雪はどこかでそういうのは間違っていると思っていた。自分はそういうことはすまいと思っているつもりだった。でもできていなかったのかもしれない。
「そういうのってもったいないってことをさ」と風音が続ける。「わたしは深雪から学んだんだよ」
深雪は風音の顔を見上げ、いつの間にか下を向いていたことに気づいた。
「わたしだって人を先入観で見てた。深雪のことも最初は先入観で見てたからさ。だから初めて会った時にひどい態度だった」
その日のことを深雪も思い出す。
「あのまま深雪がわたしに二度と話しかけてくれなかった可能性もあるでしょう? そしたらわたしは自分の人生を変えるほどの友達をみすみす逃していたかもしれないのよ」
胸の底で何かがじんわりと溶けて広がるのを深雪は感じた。
「あの時ね、先入観で人を見るのはやめようってほんとに反省したんだ」
そう言って風音はふわりと笑みを浮かべた。
「わたしも、気を付けよう」
深雪は独り言のようにそう言った。きんと冷えた風が二人を撫でて行った。
二回目の選定会議の日、久しぶりに実咲も揃い、三人で肩を並べて涼月に向かった。久しぶりに間近で見た実咲は、表情こそ明るかったけれど少しやつれたように見えた。長い髪の艶も心なしか失われたような気がして深雪は心配になった。それでもなんとなく病気のことにはなるべく触れないほうが良いような気がして聞くことができなかった。そんな深雪の気持ちを察してか、実咲は自分から話し始めた。
学校にはちゃんと来られていること、授業にもついて行けていること、写真を撮る元気もあること。実咲の話が順調なものばかりだったことで、深雪はかえって不安になった。見るからに元気そうであれば素直に喜べたのかもしれない。今の実咲は万全の状態には見えないのに、実咲はその悪い部分には一切触れない。もしかしたら風音には言えるけれど深雪がいると言いづらいのだろうか。深雪は自分の中にわだかまる思いを懸命に振り払った。
涼月でパソコンに移した写真を並べて三人で見る。
「実咲の写真は行動範囲が違うから撮ってる場所が違って面白いね」
深雪は実咲の方を向いて言う。
「わたし行動範囲狭いからね」
実咲は画面の方を向いたまま言った。深雪は胸の奥がどきりとした。全身で実咲の気持ちを感じようとしたけれど難しかった。
風音がパソコンを操作して四枚ずつビューワに表示させている。同じ“みち”というテーマで撮られた写真たち。三人それぞれの視点が面白い。
「あ、それ」
画面に表示された四枚の中に惹かれる一枚を見つけて深雪が言う。
「その神社の、面白いね」
それは目抜き通り沿いにある神社の参道にある狛犬の写真だった。カウンターにも同じ狛犬を撮った写真が置いてあるけれど、それとはだいぶ違う。横位置の左手前に阿形の狛犬を置き、その後頭部を舐めて右奥に吽形を配している。手前の阿形にピントを合わせ、被写界深度をかなり浅くして奥はぼかされている。それほど幅も広くない参道を挟んでいるはずの狛犬が、かなり離れているような、すぐ隣にいるような、不思議な距離感で写っていた。
「それは実咲でしょう? ね、どうしてそういう風に撮ったの?」
深雪が実咲の方を向いて聞いた。
「そういう風にって?」実咲が聞き返す。
「ええと」深雪はその写真から感じた面白さを言葉にしてみようと試みた。「奥の狛犬がぼけてる、それに狛犬を背中側から撮ってる」
「みち、だから」実咲が答える。
「阿吽の狛犬には始まりから終わりまでっていう意味もあるみたいなの。阿が始まりで吽が終わり。わたしはその対の狛犬の間を生きてるのかなって思ったの。その道を撮りたかった。狛犬の間の道、わたしが歩いている道。画面の中ではなんとなく左から右に向かって時間が進んでいるような気がするの。でも狛犬は阿形が右にいるでしょう。それを左に置いて右に吽形を置こうと思ったら背中側から撮るしかなかった。ぼけてるのはね、実はぼけてないのを一枚撮ったの、この直前に。液晶で確認して、やっぱりぼかして撮り直すことにしたの」
「どうして? どうしてぼかしたほうがいいと思ったの?」
「未来は見えない方がいいから」そう言って実咲は微笑んだ。
風音は狛犬の写真を候補作品フォルダにコピーして、次の四枚を画面に表示した。四枚ずつ表示しながら、誰かの目に留まったものについて会話する。そしてその写真を候補にするかしないかを判断する。
「あ、すごい」深雪が声を上げる。表示される写真を見て声を上げる回数は明らかに深雪が一番多かった。そのせいで選び出される候補作は深雪以外の二人のものが多くなる。
深雪の目に留まったのはまっすぐな長い直線道路を写した写真だった。それだけならどうということもないのだけれど、その写真は一見して普通ではなかった。深雪は少し眺めてそのからくりに気づいた。
「そっか、これファインダーなんだ、ハッセルの」
深雪はそう言って風音の方を見た。
「そう」と風音が答える。「最初はね、こういう長い道路撮るならもっと広角がいいな、って思ったのよ。いつものハッセルだったらなあって思ってハッセル出してきてさ、覗いてみるといい感じなんだよね。で、ハッセル覗いてたらひらめいたの。このファインダーをさらに別のカメラで撮ったらどうだろう、って。やってみたらすごく難しかった。距離とか絶妙すぎるし。ハッセルを三脚に乗せてさ。ハッセルの方で構図を決めて、あとはデジカメの方で位置を調整して撮ったの。この一カットでこの日の撮影数ぜんぶ消費する勢いだったよ。何回も撮り直した」
「すごく面白いよ、これ」
「わたしとしては苦し紛れにひねり出したアイデアみたいなものなんだけどね。撮れた写真はなかなか面白いよね」
こんなに捻りの利いたアイデアにさえ、風音は奇を衒ったわけではなく、求める絵に近づけるための苦肉の策としてたどり着くのだ。深雪は感心した。もっと素直に、そう思えば思うほど、素直から離れていくような気がする。それはちょうど、無意識を意識しようとするのに似ていた。
「レンズを通して見た世界をさらに別のレンズを通して見る」実咲が静かに言う。実咲の声は音量こそ小さいものの、艶やかなのにさらりとした肌触りでよく通った。耳を飛び越えて直接心の中に響いてくるような声だった。「見るのはわたし」実咲は深雪の視線に気づいて微笑んだ。
三人で話しながら出品候補作品を集めていく。ここに持ち寄るまでに各自が絞ってくる。この場でさらに絞り込まれる。それでもまだまだたくさんの候補作品が残る。最終的には監督である小松沢も一緒に、出品する八枚を決めることになる。
「来週からわたしも部室に行く」
実咲が画面を見つめたまま言った。深雪は返す言葉を探した。もちろん来てほしい。でもこのあいだのように実咲が苦しむのはいやだ。かといって今このタイミングで無理しなくていいと言うのも実咲の気持ちをくじいてしまう気がした。
「わたしも先生のアドバイス受けたいから」言葉に詰まった深雪の方を見て実咲が続けた。
「うん」
深雪はやっとそれだけ口にした。
「おつかれさまです」
深雪は挨拶もそこそこに荷物を置き、小松沢の半歩後ろに立って一緒にモニタを覗き込む。風音は画像ビューワに四枚の写真を並べて表示させていた。
「今ちょうどテーマの説明をして、わたしが撮ったものを見てもらってたところ」
風音は深雪の方を振り返って説明した。深雪は黙って頷き、画面を見つめている小松沢の横顔を見上げた。小松沢は授業の時のような厳しい表情で画面を睨みつけていた。最近になって深雪は、小松沢のこの表情は睨んでいるのではなく、単に真剣なまなざしというだけであることがわかってきた。それでも一見すると怒っているみたいに見える。小松沢はこの表情のせいで誤解されているように思えてならない。
「なあ、氷月、氷月はその“みち”っていうテーマから何を連想する?」
しばらく画面を睨んだ後で小松沢が口を開いた。風音はその言葉を受け取って解きほぐす。
「みち、道路、どこかとどこかを繋ぐもの、何かと何かを繋ぐもの、わたしが作るもの、わたしを導くもの、時間、過去から現在を経て未来につながるもの、生きていることそのもの、わたしのみち、他の人のみち、並ぶ、交わる、別れる、交差点、分岐点、結節点」
風音は頭の中から言葉を拾うように並べた。
小松沢は風音の紡ぎ出す言葉に頷いている。
「うん、それが氷月の考える“みち”だな?」
小松沢のその言葉を風音は小松沢の顔を見上げて聞いていた。
小松沢は風音の真剣な表情を見て頷き、人差し指を立ててからゆっくりと画面の方へ向ける。
「今氷月が並べた言葉たち、それを表現できている写真がそこにあるかい? そういう基準で篩にかけてみるといい。今ざっと見せてもらった感じだと、氷月は自分で理解しているそのテーマを写真の上に落とし込めていない」
「はい」
風音ははっきりと返事をした。
風音が深雪を振り返ると小松沢がその視線を追った。
「椋沢も持ってきたのか、写真」
「あ、はい。持ってきてます」
「見せてごらん」
深雪は風音と交代で椅子に座り、持参したメモリーカードを入れてデータをコピーする。学校のパソコンはウィンドウズなので深雪にも操作できる。コピーはあっという間に完了した。自宅でテーマに合いそうなデータだけを抜粋したら、ほとんど残らなかったのだ。数百枚あったはずのデータのうち、“みち”というテーマに合いそうなものは六十枚ほどしかなかった。
深雪は風音に倣い、ビューワソフトに四枚ずつ表示して見てもらうことにした。最初の四枚を表示して小松沢を振り返る。小松沢はしばし画面を見つめて小さく「次」と言った。深雪はそれを受けてパソコンを操作し、次の四枚を表示する。またしばらく見て「次」という言葉が届き、次の四枚を表示する。何度かそんなことを繰り返したところで小松沢は「うん」と言った。深雪は振り返って小松沢の顔を見上げる。
「椋沢はいい写真を撮りたいんだな」
深雪は意味を汲みそこなって足場を失った。小松沢の言ったことは当たり前のことなんじゃないかと思った。その様子を見て小松沢が続ける。
「いい写真を撮りたい。そりゃあそうだ。撮るからにはいいほうがいい。当たり前だな。ではいい写真とはいったいなんだ。いいとされてるものかな。雑誌に載ってるような写真、風景写真集に載っているような写真、写真家っぽい写真、なんだかかっこいい写真、そういう写真を撮る自分ってかっこいいな」
深雪は背骨に沿って汗がにじみ出るのを感じた。
「椋沢の写真は悪くない。むしろどんどん良くなってる。ただね、この中には椋沢がいない。カメラを学んだ、技術を学んだ、目もだんだん肥えてきた、良し悪しがわかるようになってきた、良いものを見て真似できるようになってきた、それは進歩だ。そこはしっかり誇っていい。だけどここに椋沢はいない。頭が先に行っちゃってる」
小松沢は、わかるかい、と言っているような表情を深雪に投げた。
「わたしが、いない」深雪はじっくりとその言葉を噛みしめて画面に視線を戻した。
自分は何を思ってシャッターを切ったろう。深雪は一つ一つの写真についてそれを思い出そうとした。この日差しを捕まえてコントラストを高めにしたらかっこいいかな。ここはあえて逆光でシルエットを見せたらかっこよくなりそうだな。地平線を低めにレイアウトして空の広がりを見せたらどうかな。普段は気にしない細部に寄ることで着眼点をアピールできないかな。
ふと、風音が暗室で言っていた、フィルムを現像するとおかえりっていう気がするという言葉を思い出す。シャッターを切った時の自分と再会する。おかえり。君はいったい何を思ってこのときシャッターを切ったの?
深雪の中にはいつも衒いばかりが渦巻いていた。風音のようになりたい、うまいねと言われたい、いい写真だと言われたい。風音にはこういう衒いのようなものはないのだろうか。そう思って風音の方を見る。風音は何もない空中を見つめたまま立っている。きっとさっきの小松沢の言葉を受け取って何かを考えているのだろう。虚空を見つめているのにぼんやりしているわけではなく、目に確かな光を湛えていた。
そういえば海人はフォレストで多くのいいねを獲得するために写真を撮ると話していた。もとより彼は最初から評価を得る目的で写真を撮っている。深雪にはそういう割り切りもない。いいね欲しさに作為的な写真を撮ることを軽蔑すらしていた。それなのに深雪はそれとほとんど変わらないことをやってきたのではないか。
あんたはどういう写真を撮りたいの? 風音に初めて会った日に言われた言葉が深雪の内側に響く。
「わたし、わたしはどんな写真を撮りたいんだろう」
深雪は声に出してつぶやいた。深雪が振り返ると小松沢は満足そうにうなずいていた。風音が先生に見せようと言ったことの意味も良く分かった。自分では気づかないようなことを気づかせてくれる。教えを乞うのではなくヒントをもらうのだ。
帰りに学校を出たところで深雪は風音を呼び止める。いつもは門を出るとすぐに別々の方向へ進む。涼月へ行く日は並んで歩く。今日は別れて家へ帰る日だったけれど、門を出たところで深雪から声をかけた。
「ね、風音さっきの小松沢先生の話さ、あれ聞いてどう感じたの?」
深雪より半歩先を行っていた風音が振り返る。
「どうって? なるほど、って思ったよ」
「何がなるほどだった?」と深雪は聞く。
「なにもかも。先生はまずわたしにテーマから連想する言葉を言わせたでしょ。あれがいきなりなるほど」
「え? どういう風に?」深雪は身を乗り出して聞き返した。
深雪は相手が当然のように理解していることを自分が理解できないとそれが恥ずかしいことのように思えて聞き返せないことがよくあった。でもなぜだか、相手が風音だと平気だった。どんなことでも聞き返せる。それはなぜ? どういう意味? 風音には自然に聞けた。
「テーマってよくわからないでしょ。たとえば作品のテーマは“命”です、っていう場合に、単に生きてるものの写真を撮ってもそれはテーマに沿って作品を撮ったことにならないでしょ。テーマを自分で理解するにはそこから連想した言葉を列挙してみればいい。きっと先生はそれを教えようとしてくれたんだと思うよ。テーマを分解して言葉にしてみる。それがテーマを理解するための第一歩になるっていうこと」
深雪は驚いて言葉が出なかった。
「わたしはテーマをちゃんと捕まえた上で、それを写真に落とし込めてない。その指摘もその通りだと思った」
「落とし込めてないの? あの写真でも」深雪は納得できなくて聞いた。
「落とし込めてないね。自分でテーマから連想する言葉を列挙してみて、初めて自分がテーマから何を拾ったのかわかった。それはここに入ってる写真を撮ったときにはまったく思いもしなかったもの」風音はそう言って首からかけていたカメラを深雪の方へ見せた。
「風音ってすごい自信家なのかと思ってたけど意外と謙虚なんだね」
深雪が感じたままを口にすると風音は笑い出した。
「自信はあるよ、それなりに。でも自信を持つことと自分を過大評価することは違うのよ。わたしは自分に見えてない自分に足りないものを先生に気づかせてもらったの。先生も、ケンさんも、深雪も、わたしにそういうことを教えてくれる」
「わたし? わたしも含まれてるの?」
深雪は驚いて尋ねた。
「あたりまえでしょ。謙虚って言うとなんか崇高な感じするけどね。ただ貪欲なだけだよ。わたしは今より前に進みたいだけ。そのためには人の話に耳を傾けるのが一番。先生の話も、ケンさんの話も、深雪の話も聞きたいよ」
「すごいなあ、風音は」
「深雪はさ、きっと誰かと話す時にさ、すぐ相手のことをわかった気になっちゃうんじゃないの? それで自分より上だとか下だとか、そういう上下をつけちゃう。クラスの子たちにもそういう子多いけどさ、入学した直後にもうさ、あの子は上、あの子は下っていう空気、あるじゃない? そうやって判別して、自分より上の人の話は聞きたがるけど下の人には興味がない、深雪もそうやって自分の基準で話す価値のある相手かどうかを決めちゃってるんじゃないの?」
深雪は言葉が出なかった。上とか下とかそういう区別をつけたがる子は深雪の周りにもいて、深雪はどこかでそういうのは間違っていると思っていた。自分はそういうことはすまいと思っているつもりだった。でもできていなかったのかもしれない。
「そういうのってもったいないってことをさ」と風音が続ける。「わたしは深雪から学んだんだよ」
深雪は風音の顔を見上げ、いつの間にか下を向いていたことに気づいた。
「わたしだって人を先入観で見てた。深雪のことも最初は先入観で見てたからさ。だから初めて会った時にひどい態度だった」
その日のことを深雪も思い出す。
「あのまま深雪がわたしに二度と話しかけてくれなかった可能性もあるでしょう? そしたらわたしは自分の人生を変えるほどの友達をみすみす逃していたかもしれないのよ」
胸の底で何かがじんわりと溶けて広がるのを深雪は感じた。
「あの時ね、先入観で人を見るのはやめようってほんとに反省したんだ」
そう言って風音はふわりと笑みを浮かべた。
「わたしも、気を付けよう」
深雪は独り言のようにそう言った。きんと冷えた風が二人を撫でて行った。
二回目の選定会議の日、久しぶりに実咲も揃い、三人で肩を並べて涼月に向かった。久しぶりに間近で見た実咲は、表情こそ明るかったけれど少しやつれたように見えた。長い髪の艶も心なしか失われたような気がして深雪は心配になった。それでもなんとなく病気のことにはなるべく触れないほうが良いような気がして聞くことができなかった。そんな深雪の気持ちを察してか、実咲は自分から話し始めた。
学校にはちゃんと来られていること、授業にもついて行けていること、写真を撮る元気もあること。実咲の話が順調なものばかりだったことで、深雪はかえって不安になった。見るからに元気そうであれば素直に喜べたのかもしれない。今の実咲は万全の状態には見えないのに、実咲はその悪い部分には一切触れない。もしかしたら風音には言えるけれど深雪がいると言いづらいのだろうか。深雪は自分の中にわだかまる思いを懸命に振り払った。
涼月でパソコンに移した写真を並べて三人で見る。
「実咲の写真は行動範囲が違うから撮ってる場所が違って面白いね」
深雪は実咲の方を向いて言う。
「わたし行動範囲狭いからね」
実咲は画面の方を向いたまま言った。深雪は胸の奥がどきりとした。全身で実咲の気持ちを感じようとしたけれど難しかった。
風音がパソコンを操作して四枚ずつビューワに表示させている。同じ“みち”というテーマで撮られた写真たち。三人それぞれの視点が面白い。
「あ、それ」
画面に表示された四枚の中に惹かれる一枚を見つけて深雪が言う。
「その神社の、面白いね」
それは目抜き通り沿いにある神社の参道にある狛犬の写真だった。カウンターにも同じ狛犬を撮った写真が置いてあるけれど、それとはだいぶ違う。横位置の左手前に阿形の狛犬を置き、その後頭部を舐めて右奥に吽形を配している。手前の阿形にピントを合わせ、被写界深度をかなり浅くして奥はぼかされている。それほど幅も広くない参道を挟んでいるはずの狛犬が、かなり離れているような、すぐ隣にいるような、不思議な距離感で写っていた。
「それは実咲でしょう? ね、どうしてそういう風に撮ったの?」
深雪が実咲の方を向いて聞いた。
「そういう風にって?」実咲が聞き返す。
「ええと」深雪はその写真から感じた面白さを言葉にしてみようと試みた。「奥の狛犬がぼけてる、それに狛犬を背中側から撮ってる」
「みち、だから」実咲が答える。
「阿吽の狛犬には始まりから終わりまでっていう意味もあるみたいなの。阿が始まりで吽が終わり。わたしはその対の狛犬の間を生きてるのかなって思ったの。その道を撮りたかった。狛犬の間の道、わたしが歩いている道。画面の中ではなんとなく左から右に向かって時間が進んでいるような気がするの。でも狛犬は阿形が右にいるでしょう。それを左に置いて右に吽形を置こうと思ったら背中側から撮るしかなかった。ぼけてるのはね、実はぼけてないのを一枚撮ったの、この直前に。液晶で確認して、やっぱりぼかして撮り直すことにしたの」
「どうして? どうしてぼかしたほうがいいと思ったの?」
「未来は見えない方がいいから」そう言って実咲は微笑んだ。
風音は狛犬の写真を候補作品フォルダにコピーして、次の四枚を画面に表示した。四枚ずつ表示しながら、誰かの目に留まったものについて会話する。そしてその写真を候補にするかしないかを判断する。
「あ、すごい」深雪が声を上げる。表示される写真を見て声を上げる回数は明らかに深雪が一番多かった。そのせいで選び出される候補作は深雪以外の二人のものが多くなる。
深雪の目に留まったのはまっすぐな長い直線道路を写した写真だった。それだけならどうということもないのだけれど、その写真は一見して普通ではなかった。深雪は少し眺めてそのからくりに気づいた。
「そっか、これファインダーなんだ、ハッセルの」
深雪はそう言って風音の方を見た。
「そう」と風音が答える。「最初はね、こういう長い道路撮るならもっと広角がいいな、って思ったのよ。いつものハッセルだったらなあって思ってハッセル出してきてさ、覗いてみるといい感じなんだよね。で、ハッセル覗いてたらひらめいたの。このファインダーをさらに別のカメラで撮ったらどうだろう、って。やってみたらすごく難しかった。距離とか絶妙すぎるし。ハッセルを三脚に乗せてさ。ハッセルの方で構図を決めて、あとはデジカメの方で位置を調整して撮ったの。この一カットでこの日の撮影数ぜんぶ消費する勢いだったよ。何回も撮り直した」
「すごく面白いよ、これ」
「わたしとしては苦し紛れにひねり出したアイデアみたいなものなんだけどね。撮れた写真はなかなか面白いよね」
こんなに捻りの利いたアイデアにさえ、風音は奇を衒ったわけではなく、求める絵に近づけるための苦肉の策としてたどり着くのだ。深雪は感心した。もっと素直に、そう思えば思うほど、素直から離れていくような気がする。それはちょうど、無意識を意識しようとするのに似ていた。
「レンズを通して見た世界をさらに別のレンズを通して見る」実咲が静かに言う。実咲の声は音量こそ小さいものの、艶やかなのにさらりとした肌触りでよく通った。耳を飛び越えて直接心の中に響いてくるような声だった。「見るのはわたし」実咲は深雪の視線に気づいて微笑んだ。
三人で話しながら出品候補作品を集めていく。ここに持ち寄るまでに各自が絞ってくる。この場でさらに絞り込まれる。それでもまだまだたくさんの候補作品が残る。最終的には監督である小松沢も一緒に、出品する八枚を決めることになる。
「来週からわたしも部室に行く」
実咲が画面を見つめたまま言った。深雪は返す言葉を探した。もちろん来てほしい。でもこのあいだのように実咲が苦しむのはいやだ。かといって今このタイミングで無理しなくていいと言うのも実咲の気持ちをくじいてしまう気がした。
「わたしも先生のアドバイス受けたいから」言葉に詰まった深雪の方を見て実咲が続けた。
「うん」
深雪はやっとそれだけ口にした。
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嶌田あき
青春
優柔不断の女子高生・キョウカは、親友・カサネとクラスメイト理系男子・ユキとともに夜の理科室を訪れる。待っていたのは、〈星の王子さま〉と呼ばれる憧れの先輩・スバルと、天文部の望遠鏡を売り払おうとする理科部長・アヤ。理科室を夜に使うために必要となる5人目の部員として、キョウカは入部の誘いを受ける。
そんなある日、知人の研究者・竹戸瀬レネから研究手伝いのバイトの誘いを受ける。月面ローバーを使って地下の量子コンピューターから、あるデータを地球に持ち帰ってきて欲しいという。ユキは二つ返事でOKするも、相変わらず優柔不断のキョウカ。先輩に贈る月面望遠鏡の観測時間を条件に、バイトへの協力を決める。
理科部「夜隊」として入部したキョウカは、夜な夜な理科室に来てはユキとともに課題に取り組んだ。他のメンバー3人はそれぞれに忙しく、ユキと2人きりになることも多くなる。親との喧嘩、スバルの誕生日会、1学期の打ち上げ、夏休みの合宿などなど、絆を深めてゆく夜隊5人。
競うように訓練したAIプログラムが研究所に正式採用され大喜びする頃には、キョウカは数ヶ月のあいだ苦楽をともにしてきたユキを、とても大切に思うようになっていた。打算で始めた関係もこれで終わり、と9月最後の日曜日にデートに出かける。泣きながら別れた2人は、月にあるデータを地球に持ち帰る方法をそれぞれ模索しはじめた。
5年前の事故と月に取り残された脳情報。迫りくるデータ削除のタイムリミット。望遠鏡、月面ローバー、量子コンピューター。必要なものはきっと全部ある――。レネの過去を知ったキョウカは迷いを捨て、走り出す。
皆既月食の夜に集まったメンバーを信じ、理科部5人は月からのデータ回収に挑んだ――。
間違いなくVtuber四天王は俺の高校にいる!
空松蓮司
ライト文芸
次代のVtuber四天王として期待される4人のVtuberが居た。
月の巫女“月鐘(つきがね)かるな”
海軍騎士“天空(あまぞら)ハクア”
宇宙店長“七絆(なずな)ヒセキ”
密林の歌姫“蛇遠(じゃおん)れつ”
それぞれがデビューから1年でチャンネル登録者数100万人を突破している売れっ子である。
主人公の兎神(うがみ)も彼女たちの大ファンであり、特に月鐘かるなは兎神の最推しだ。
彼女たちにはある噂があった。
それは『全員が同じ高校に在籍しているのでは?』という噂だ。
根も葉もない噂だと兎神は笑い飛ばすが、徐々にその噂が真実であると知ることになる。
宇宙に恋する夏休み
桜井 うどん
ライト文芸
大人の生活に疲れたみさきは、街の片隅でポストカードを売る奇妙な女の子、日向に出会う。
最初は日向の無邪気さに心のざわめき、居心地の悪さを覚えていたみさきだが、日向のストレートな好意に、いつしか心を開いていく。
二人を繋ぐのは夏の空。
ライト文芸賞に応募しています。
年上の恋人は優しい上司
木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。
仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。
基本は受け視点(一人称)です。
一日一花BL企画 参加作品も含まれています。
表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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