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実咲
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ちいんと風鈴が響き、重い扉が開く。澤木と深雪はほとんど同時に扉の方へ視線を送った。開いた扉の隙間から風音が顔を出す。
「ケンさん。準備中になってますよ」
風音はそう言いながら入ってきた。そのあとに続いて入ってきた少女に、深雪は釘付けになった。
風音よりも少しだけ背の高いその少女は、顔のサイズに合わない大きなべっ甲模様の眼鏡をかけていた。ひざ下まで隠れる深い色のダウンコートを着て、その下にはさらに長い、足首まであるスカートを履いていた。なにより最も目を引くのは長いダウンコートのすそまである髪だ。風音が深雪に声をかけたけれど、その声は少女の髪に吸い込まれて深雪まで届かなかった。
「深雪ってば、聞いてる?」
いつの間にかすぐ近くまで来ていた風音が大声で言った。
「あ、おはよう」やっと風音の方を見て深雪が言うと、風音は「なんだよそれ」と言って笑った。
「はい。この子が実咲。戸倉崎実咲」
風音は実咲の両肩に手を置いて深雪の前へ押し出すようにして紹介した。
「あ、ああっと。なんだっけ? そうだ、わたし、椋沢深雪です」
深雪はもつれながら名乗った。
「はじめまして。実咲です」
実咲はそう言って頭を下げた。繻子のような肌触りの声だった。
「すごい。お人形さんみたい。きれいな髪だね」普段よりも息の量二割増しぐらいで深雪が言うと、実咲は微笑んで「ありがとう」と言った。
風音は実咲に深雪の隣の席を勧めた。実咲がコートを脱いで座るのを見届けて、自分もコートを脱いで実咲の隣に座った。
実咲は淡い桃色のブラウスに薄いベージュのカーディガンを着ていて、足首まで丈のあるペイズリー柄のスカートを履いていた。風音はオレンジ色のパーカーにジーパンというスタイルで、いつものようにサイドテールに髪を結っている。澤木は既にコーヒーの準備に入っていた。
二人が腰を落ち着けるのを待って深雪が口を開く。
「実咲ちゃん」
深雪が言いかけると風音がすぐさま遮って「ちゃんはいらない」と言った。深雪は笑って仕切り直す。
「実咲、わたしに会いに来てくれてありがとう」
実咲が微笑む。
「風音から深雪さんのことを聞いて」と実咲が話始めるとまた風音が遮る。
「ちょっとまって。なんでさん付け?」
「だって、年上だし」と実咲が言う。
「いや、年上ってわたしと同い年だし。わたしのことは呼び捨てじゃない。深雪のことだって深雪でいいでしょ」
「ええ? だって初対面だしさ」
実咲がそう言うと風音は「初対面でさん付けしちゃったらそのまま行っちゃうでしょ。最初から友達になるつもりで来てるんだからいきなり呼び捨てでいいの」と返した。
深雪は大笑いした。風音の言う友達というのはかなり親しい仲を指している。それなのに風音は徐々に関係を深めてそこへ至るのではなく、いきなり深いところへ切り込んでいくのだ。思えば深雪とも二度目に言葉を交わした日にいきなり暗室作業を見せてくれたのだった。しかも深雪との場合は一度目はほとんど拒絶状態だったのだ。風音の言うこの友達という感覚が深雪には新鮮だった。
深雪の笑いが実咲にも伝播した。
「じゃ、遠慮なく」と前置きして実咲は「風音から深雪っていう友達ができたって聞いてね」と言って照れくさそうな顔をして見せた。
「風音がわたしに友達の話をしたのは初めてだったんだ。だから深雪って子は特別なんだって思った」と続けた。
深雪は胸の奥に温かい何かが広がるのを感じた。
「で、会ってみる? って聞くから、もちろん会ってみるって言ったの」
そう言って実咲は深雪に微笑んで見せた。
澤木が風音と実咲の前にそれぞれコーヒーを出す。
「ね、深雪。わたしの病気のことって聞いた?」と実咲が言う。風音が無言で実咲の顔を見た。
「なんか病気だっていうことは聞いたよ」
「そのこと、どう思った?」
深雪は実咲の顔を覗いた。
「大変なんだろうな、って思った」
そう言って実咲の反応を窺う。でも波一つない水面みたいな実咲の表情からは何も読めなかった。
「ね。実咲と一緒にいるときわたしが何か気を付けたほうがいいことってある?」
なんとなく、あまり考えすぎないほうが良いだろうという気がして、深雪はまっすぐに聞いた。
「ない。普通でいい。風音に接してるのと同じように接してほしい」
実咲は微笑んでそう答えた。
「よかった。それならできそう」と深雪も微笑んだ。
「ね、実咲のその髪さ」深雪は実咲が入ってきたときから、その長い髪のことが気になっていた。「そんなに伸ばすのはすごく大変だったんじゃない?」
「これは伸ばしたというかね、伸びちゃったんだよね」実咲は右手の指を髪に絡め、くるくると弄びながら言った。「小学校のころから長めにしてはいたんだけどね。中学に入って引きこもりになっちゃって。美容院にも行かないからどんどん伸びちゃってね」
「へえ。それさ、洗うの大変?」深雪が聞くと風音が笑い出した。
「なんで笑うんだよ」深雪は風音の方を見て言う。
「いや、そこかよ、と思って」と風音は笑った。実咲も小さく笑った。
「洗うのは大変だよ。全体を濡らすだけでも時間がかかるし、ぜんぶ濡れるとすごく重いし。シャンプーの減りもすごいよ」
「だよね。お風呂上りに乾かすのも超大変そう」
「頭に近いところだけドライヤーで乾かして、あとはぜんぶバスタオルに包んでおく感じだよ」
「重そう」深雪が言うと、実咲は声を出して笑った。
「わたしさ、前に肩ぐらいまで伸ばしたことがあるんだけどさ。そのぐらいでももう面倒で。結局このぐらいに落ち着いちゃった」深雪はそう言って両手で襟元を示して見せた。
「でもわたしもさ。美容院に行くのが面倒だから伸びちゃっただけなんだよね」と実咲も返す。
「同じ面倒ってところから始まってるのに結果は正反対だね」と深雪が笑うと、実咲も笑った。
澤木がカウンター越しに「あっという間に仲良くなったね」と言い、三人にホットサンドを出してくれた。
「あれ? 頼んでないのに」深雪が言うと、澤木は「お昼にここへ集合してどこかよそへ食べに行くってことはないだろうと思ってさ」と言い、「風音ちゃんのことだし」と付け加えた。
風音は深雪の方を向き、「最初のうちはなんか食べる、とか聞かれてたんだけどね。いつもお腹空かせて来るもんだからそのうち何も聞かれなくなって。黙っててもサンドイッチ作ってくれちゃうの」と言った。
「今日はギブアンドテイクのギブがないけどいいの?」と深雪が聞くと、風音は人差し指を唇に当てて声を出さずにしーっ、という表情をして見せた。
澤木は笑いながら三人を見回し、「食べるだろう?」と聞いた。深雪は「もちろん、いただきます」と三人を代表するように言った。
深雪は澤木の作るホットサンドのトマトが大好きだった。他の具材よりもはるかに強く自己主張し、パンにまで味を浸透させる。それでいてどの具材とも衝突しない。深雪はホットサンドを食べながら、並んで同じものを食べている二人を眺める。風音がこのトマトのように三人を繋いだ。また大きな何かが動き出したような気がした。
「ね、深雪」食べる手を止めて実咲が言う。「深雪はわたしのフォレストアカウントをどうして知ったの?」
深雪は実咲の目を見つめた。その目は風音のように無垢で透明なものではなかった。実咲は訝しんでいるのだろう。その方が普通で、風音のようなほうが珍しい。深雪は一時、何と答えるべきか迷った。風音はぽかんとしている。きっと風音は一度も、深雪がどうやって実咲のアカウントを知ったのかということに疑問を持ちはしなかったろう。
実際には見つけてきたのは海人だ。本人が意識しないうちに写真の中に入ってしまった情報を掘り出して推測したのだ。深雪はなんとなくその行為を後ろめたいものと感じていた。実咲にそれを話したら傷つけはしまいか。いや、そうではない。実咲を傷つけることよりも、自分が嫌われることの方を恐れているのだ。
「うん。正直に話す」しばらく迷ったあと、深雪は言った。
「わたしの幼馴染でフォレストをけっこう積極的にやってる人がいてさ。その人がね。東川中学の生徒っぽいアカウント見つけたって言ってきたんだよね」深雪は実咲の顔色を伺いながら話す。実咲は黙っている。
「アップされてる写真が東川の景色ばっかりでさ。で、ときどき中学の制服を着た女の子が写ってるでしょ」深雪は風音の方へも視線を投げた。風音は淡々とホットサンドを頬張っている。
「でね。その幼馴染が、地面に落ちた影の写真を見てね、ほら女子だって言うわけ」深雪はそう言って実咲の表情を窺った。実咲は何も言わない。表情にも変化は見られなかった。
「それから自転車の写真の中にね。その写真を撮った人が写り込んでてさ。それを見ると確かに髪の長い女の子に見えた」そこまで言い終えて深雪は一息つき、「こんなに長いとはわからなかったけど」と笑ってみせた。
「写り込み」実咲は表情を変えずにつぶやいた。深雪は実咲の反応を気にしていたのに、実咲はほとんど反応を見せなかった。
「そっか。金属光沢のものは確かに写りこむよね。写り込みは質感の一部だからね。普通はそんなものあまり気にしないけど。確かに本気で写り込みを見ればその時周りにあるものも見える可能性はあるね」風音が感心したように言う。
「うちのお父さんが言ってたけどさ」と風音は続ける。実咲も風音の方を向く。
「金管楽器あるでしょ。トランペットとかそういうの。ああいうののカタログ写真って昔はすごく気を使ったんだって。きれいな楽器ほど周りのものを写しちゃうでしょ。スタジオの様子とかカメラマン本人とか。昔はもちろんそういうことに気を使って写真を撮ってたけど、今はほとんどCGなんだって。車とか家電のカタログとかもCGがほとんどだって言ってた。CGだと写り込みは意図的に作るから、写り込みの中身までぜんぶコントロールできるからだって」
「写り込み」
風音の話を聞きながらホットサンドを食べていた実咲はもう一度同じ言葉を繰り返した。実咲の声を通して深雪の中にも言葉が広がる。
「その幼馴染はさ。ファインダーを覗いてるから顔まではわからないけど、スマホで撮ってたら顔もバッチリ写ってることもあるって言ってたよ」
深雪は一拍置いて実咲の顔を伺う。
「わたしその話を聞きながらさ。なんだか実咲のことを覗き見してるような気がしてきてさ。その時は実咲だってわかってたわけじゃないけど」
深雪はそう言いながら、言い訳をしているみたいだと思った。実際、それは言い訳だった。自分は平気でそういうことをするような人ではないと言っておきたかった。
「で」と風音が深雪の言葉を引き継ぐ。「その写真に写ってる子の手を見てわたしだって気づいたんでしょ」
「そゆこと」
「手?」
実咲はホットサンドを食べ終えて空いた皿を横によけ、コーヒーのソーサーを手前に寄せた。初めてわずかに眉が動いたように見えた。深雪の方を見て「手であれが風音ってわかったの?」と聞いた。
「うん。それを風音に言ったら実咲の名前が出てきて。それでこういう話になったの」
「すごいね。驚いちゃったわたし。フォレストに写真を上げてただけでこんなことになるんだ」
実咲が言う。深雪はその表情を追いかける。
「複雑だなあ」と実咲が続ける。「なんかそういう話を聞くと怖いなって思っちゃう。何の情報もプロフィールに書いてないのに中学生の女子ってことまでわかっちゃうんだね。手だけで風音だってわかっちゃうのも怖い」
「手だけでわかるのは深雪ぐらいだと思うよ」と風音が言った。
「でもおかげでこうして会えたんだって思うと悪いことばかりじゃない気もする」
実咲はそう言ってコーヒーを一口飲み、深雪の方を見た。
「わたし複雑でさ」そう言って実咲は視線を正面に戻す。声がそれまでとは違う響きを帯びていた。
「もともと小さいころから自分のことを誰かに伝えるのが苦手でさ。なかなか友達ができなかったんだよね。うまく交流できないっていうか。距離感がわからないんだ」
深雪は姿勢を少し直して体ごと実咲の方へ向けた。実咲は手にしたコーヒーカップより少し上の空間に向かって話している。それでも実咲が今から話す言葉は一つも聞き漏らしてはいけないような気がした。
「最初はね。周りの人にわかってもらえないっていう気がしてた。うまく伝えられないからわかってもらえないっていう感じ。それがいつの間にか、みんながわたしのことを知り尽くしてるみたいに感じるようになったの。わたしが隠しておきたいようなこともぜんぶばれちゃってて。あいつはこういう汚いやつだとか、あいつは陰でこんな風に思ってるとか、周りの人がみんなそう言ってるような気がしてきたんだよね」
実咲は言葉を区切り、ゆっくりと深雪の顔を見た。深雪は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。実咲はまた視線を正面に戻して話を続けた。
「不思議なんだよね。わたしは自分のことを知ってほしいと思ってたはずなのに、知られちゃってると思ったら怖いんだ。中学に入ってからそれが強くなっちゃって。それなりに成績は良かったから先生には気に入られて、そうするとみんなには嫌われて。周りの子に褒められると嫌味を言われてるような気がする。心から褒めてくれてるのかもしれないけどぜんぶ嫌味みたいに聞こえちゃうんだよね。そうやって中一の終わりぐらいには学校に行くのが本当に辛くなっちゃった」
実咲は息継ぎをするようにコーヒーに口をつける。澤木が会話の合間を縫うように空いた皿を下げる。
「毎朝学校に行くのが本当に嫌で。でもそんなことを言ったらお父さんもお母さんも怒るだろうと思って、言い出せなかった。だから頑張って行ってさ。休み時間はなるべく人のいないところに行って。一人でいると寂しいのに周りの子はみんな怖い。誰かといたいのに誰といればいいのかわからない」
深雪は実咲の横顔を見つめていた。実咲はもう深雪の方は見ずに、自分自身に向けて言葉を紡ぎ出しているようだった。
「中二に上がってすぐぐらいのころにね。学校行きたくないなと思いながらも制服着て朝ごはん食べてたらさ、おまえは学校にも行けないのかって声が聞こえた。中学に行けなきゃ高校なんてなおさら行けないぞって。聞こえるんだよ、心の声とかじゃなくて誰かの声がさ。直接脳に話しかけてくるみたいなんだ。わたしそれをテレパシーだと思った」
深雪は身震いした。実咲の話は深雪にはなじみのない感覚だった。それでも、そんなことが身に降りかかったら大変な恐怖だろうということは想像できた。
「今日学校へ行かなきゃおまえはもう役立たずだってテレパシーに言われてさ。でも行けそうになくてさ。同じ食卓についてるお父さんを見たら申し訳なくなっちゃって。大好きなお父さん、あなたの娘は役立たずです、って思ったら涙が溢れてきて。ボロボロ泣いちゃった。お父さんにどうしたって聞かれて、わたしごめんなさいって連呼することしかできなくて」
深雪は目が熱くなった。
「そしたらお父さんがね、まずは着替えなさい、って言ったんだ。わたし意味がわからなかった。今日はとにかく学校へ行くのはやめて、その制服を着替えなさいって。で、お父さんは会社に電話して、今日は休みますって言ったんだ。そしてすぐ部屋着に着替えて、さあ実咲の話を聞かせて、って言ってくれた」
深雪は自分が息をしていることを確認した。意識していないと息が止まりそうだった。
「大泣きしながらぜんぶお父さんに話したんだ。役立たずだって言うテレパシーのことも。お父さんは笑いも呆れもしないで聞いてくれて、その日の午後病院に連れて行ってくれた。精神科に連れていかれて自分が終わってしまうような気がしたけど、餅は餅屋、それだけのことだぞ、ってお父さんが。それでだいぶ楽になった」
実咲は視線を動かさないまま手探りでコーヒーを口へ運んだ。
「それからわたし薬を飲みながら治療を続けてるんだけどさ。最初何日か休んで学校に行ったらね、わたしが精神病だっていう話が広まってて、誰も近寄ってこないんだよね。先生も大丈夫か、大丈夫かってそればっかり。授業で当てられることもなくなっちゃったし、クラスの係を決めたりするときにもわたしだけ免除。病気だから何もさせちゃいけない、みたいになってた。わたし、自分が世界から切り離されちゃったって思った」
深雪ははっとした。自分だってきっとクラスにそういう人がいたら、決して悪意からではなく、いたわりの気持ちから負担を軽くしてあげたいと思うのではないか。それがまさかその人を世界から切り離すことになるとは思ってもみなかった。
「お母さんもね」と実咲は正面を向いたまま続ける。「急に遠くへ行っちゃったんだ。今までと変わらずに一緒に暮らしてるのに。お母さんはわたしとどう接していいかわからなくなっちゃったのね。厳しいことを言わなくなっただけじゃなくてほとんど何も言わない。わたしのことが怖いんだろうと思う。わたしは暴れたりしないしさ、逆らったりもしないよ。だけど距離感がわからないって怖いんだよね。わたしが周りの人を怖いと思うのと同じ。お母さんもわたしとの距離感がわからなくて怖いの」
実咲が深雪の方を向く。深雪はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「お母さんですらどうやって近づけばいいかわからないの、わたしに。友達なんてできるはずないよね」
深雪は涙がにじみ出るのを感じた。溢れさせないようにまばたきを我慢した。
「中二の間は本当にひどかったんだ」実咲はそう言って深雪に微笑んだ。
「テレパシーもどんどんすごくなって。一人になると聞こえてくるの。このまま生きてても苦しむだけだから死のう、とか聞こえる。わたしなんか生きてても何かの役に立つわけじゃないし死のうって。いつのまにかテレパシーがさ、おまえじゃなくてわたしって言うんだよ。おまえがだめだから死ねじゃなくて、わたしがだめだから死のうって言ってくる。頭が狂いそうになるんだ。もう狂ってるからテレパシーが聞こえるんだけど、そのテレパシーでさらに狂いそうになる。誰かにそばにいてもらわないと耐えられないの。でも一緒にいられる人はお父さんしかいないし、そのお父さんは日中は仕事に出てる。お父さんだけは平気だったんだよね。病気になる前とぜんぜん変わらずに接してくれるから。朝ちゃんと起きろとか、夜は早く寝ろとか、ご飯食べたかとか、わたしにちゃんと指示もするし、叱ってもくれる。叱ってもらうことがうれしいって初めてわかったよ」
深雪はいつからかボロボロと涙をこぼしていた。いつ溢れたのかはわからなかった。
「ごめんね、いきなりこんな重い話して」実咲は深雪の方を向いて慌てて謝った。深雪の涙が実咲を呼び戻したようだった。
「ううん。お父さんが実咲の救いでほんとによかったと思ったら涙出ちゃった。ありがとう、話してくれて」
幻聴というのは自分の脳が聞かせてくる言葉だろう。自分の意思に関係なく聞こえるけれどその出どころは自分自身の脳だ。自分自身の脳が、意識の制御を超えてメッセージを送ってくる。それが「死ね」というような命令ではなく、「死のう」という意思表示だったとしたら、それに抗うのはきっと命令されるよりも難しいだろう。自分の脳に役立たずだと言われることの恐怖。それは想像を絶する。なにしろ相手は自分のことをすべて知り尽くしているのだ。加えて世界から切り離されるという極限の孤独。
「ほんとはこんな重い話をしようと思ったんじゃなくてさ。わたしが写真を始めたきっかけを話そうと思っただけだったんだよね。話し始めたら止まらなくなっちゃった」実咲は深雪に笑いかける。深雪も笑い返そうとしてみた。うまくいかなかった。
「初対面でいきなりけっこうなところまで切り込んでいくんだなとは思った」と風音が言う。深雪はそれを風音が言うのかと思ったけれど何も言わずにおいた。
「なんか風音の友達って言われたからついわたしももうすっかり友達みたいなつもりになっちゃったかも」実咲は風音にそう言ってから深雪に笑いかけた。
「それは、とてもうれしい。これからよろしくね」
深雪はやっと素直に笑顔を浮かべられた気がした。
「ケンさん。準備中になってますよ」
風音はそう言いながら入ってきた。そのあとに続いて入ってきた少女に、深雪は釘付けになった。
風音よりも少しだけ背の高いその少女は、顔のサイズに合わない大きなべっ甲模様の眼鏡をかけていた。ひざ下まで隠れる深い色のダウンコートを着て、その下にはさらに長い、足首まであるスカートを履いていた。なにより最も目を引くのは長いダウンコートのすそまである髪だ。風音が深雪に声をかけたけれど、その声は少女の髪に吸い込まれて深雪まで届かなかった。
「深雪ってば、聞いてる?」
いつの間にかすぐ近くまで来ていた風音が大声で言った。
「あ、おはよう」やっと風音の方を見て深雪が言うと、風音は「なんだよそれ」と言って笑った。
「はい。この子が実咲。戸倉崎実咲」
風音は実咲の両肩に手を置いて深雪の前へ押し出すようにして紹介した。
「あ、ああっと。なんだっけ? そうだ、わたし、椋沢深雪です」
深雪はもつれながら名乗った。
「はじめまして。実咲です」
実咲はそう言って頭を下げた。繻子のような肌触りの声だった。
「すごい。お人形さんみたい。きれいな髪だね」普段よりも息の量二割増しぐらいで深雪が言うと、実咲は微笑んで「ありがとう」と言った。
風音は実咲に深雪の隣の席を勧めた。実咲がコートを脱いで座るのを見届けて、自分もコートを脱いで実咲の隣に座った。
実咲は淡い桃色のブラウスに薄いベージュのカーディガンを着ていて、足首まで丈のあるペイズリー柄のスカートを履いていた。風音はオレンジ色のパーカーにジーパンというスタイルで、いつものようにサイドテールに髪を結っている。澤木は既にコーヒーの準備に入っていた。
二人が腰を落ち着けるのを待って深雪が口を開く。
「実咲ちゃん」
深雪が言いかけると風音がすぐさま遮って「ちゃんはいらない」と言った。深雪は笑って仕切り直す。
「実咲、わたしに会いに来てくれてありがとう」
実咲が微笑む。
「風音から深雪さんのことを聞いて」と実咲が話始めるとまた風音が遮る。
「ちょっとまって。なんでさん付け?」
「だって、年上だし」と実咲が言う。
「いや、年上ってわたしと同い年だし。わたしのことは呼び捨てじゃない。深雪のことだって深雪でいいでしょ」
「ええ? だって初対面だしさ」
実咲がそう言うと風音は「初対面でさん付けしちゃったらそのまま行っちゃうでしょ。最初から友達になるつもりで来てるんだからいきなり呼び捨てでいいの」と返した。
深雪は大笑いした。風音の言う友達というのはかなり親しい仲を指している。それなのに風音は徐々に関係を深めてそこへ至るのではなく、いきなり深いところへ切り込んでいくのだ。思えば深雪とも二度目に言葉を交わした日にいきなり暗室作業を見せてくれたのだった。しかも深雪との場合は一度目はほとんど拒絶状態だったのだ。風音の言うこの友達という感覚が深雪には新鮮だった。
深雪の笑いが実咲にも伝播した。
「じゃ、遠慮なく」と前置きして実咲は「風音から深雪っていう友達ができたって聞いてね」と言って照れくさそうな顔をして見せた。
「風音がわたしに友達の話をしたのは初めてだったんだ。だから深雪って子は特別なんだって思った」と続けた。
深雪は胸の奥に温かい何かが広がるのを感じた。
「で、会ってみる? って聞くから、もちろん会ってみるって言ったの」
そう言って実咲は深雪に微笑んで見せた。
澤木が風音と実咲の前にそれぞれコーヒーを出す。
「ね、深雪。わたしの病気のことって聞いた?」と実咲が言う。風音が無言で実咲の顔を見た。
「なんか病気だっていうことは聞いたよ」
「そのこと、どう思った?」
深雪は実咲の顔を覗いた。
「大変なんだろうな、って思った」
そう言って実咲の反応を窺う。でも波一つない水面みたいな実咲の表情からは何も読めなかった。
「ね。実咲と一緒にいるときわたしが何か気を付けたほうがいいことってある?」
なんとなく、あまり考えすぎないほうが良いだろうという気がして、深雪はまっすぐに聞いた。
「ない。普通でいい。風音に接してるのと同じように接してほしい」
実咲は微笑んでそう答えた。
「よかった。それならできそう」と深雪も微笑んだ。
「ね、実咲のその髪さ」深雪は実咲が入ってきたときから、その長い髪のことが気になっていた。「そんなに伸ばすのはすごく大変だったんじゃない?」
「これは伸ばしたというかね、伸びちゃったんだよね」実咲は右手の指を髪に絡め、くるくると弄びながら言った。「小学校のころから長めにしてはいたんだけどね。中学に入って引きこもりになっちゃって。美容院にも行かないからどんどん伸びちゃってね」
「へえ。それさ、洗うの大変?」深雪が聞くと風音が笑い出した。
「なんで笑うんだよ」深雪は風音の方を見て言う。
「いや、そこかよ、と思って」と風音は笑った。実咲も小さく笑った。
「洗うのは大変だよ。全体を濡らすだけでも時間がかかるし、ぜんぶ濡れるとすごく重いし。シャンプーの減りもすごいよ」
「だよね。お風呂上りに乾かすのも超大変そう」
「頭に近いところだけドライヤーで乾かして、あとはぜんぶバスタオルに包んでおく感じだよ」
「重そう」深雪が言うと、実咲は声を出して笑った。
「わたしさ、前に肩ぐらいまで伸ばしたことがあるんだけどさ。そのぐらいでももう面倒で。結局このぐらいに落ち着いちゃった」深雪はそう言って両手で襟元を示して見せた。
「でもわたしもさ。美容院に行くのが面倒だから伸びちゃっただけなんだよね」と実咲も返す。
「同じ面倒ってところから始まってるのに結果は正反対だね」と深雪が笑うと、実咲も笑った。
澤木がカウンター越しに「あっという間に仲良くなったね」と言い、三人にホットサンドを出してくれた。
「あれ? 頼んでないのに」深雪が言うと、澤木は「お昼にここへ集合してどこかよそへ食べに行くってことはないだろうと思ってさ」と言い、「風音ちゃんのことだし」と付け加えた。
風音は深雪の方を向き、「最初のうちはなんか食べる、とか聞かれてたんだけどね。いつもお腹空かせて来るもんだからそのうち何も聞かれなくなって。黙っててもサンドイッチ作ってくれちゃうの」と言った。
「今日はギブアンドテイクのギブがないけどいいの?」と深雪が聞くと、風音は人差し指を唇に当てて声を出さずにしーっ、という表情をして見せた。
澤木は笑いながら三人を見回し、「食べるだろう?」と聞いた。深雪は「もちろん、いただきます」と三人を代表するように言った。
深雪は澤木の作るホットサンドのトマトが大好きだった。他の具材よりもはるかに強く自己主張し、パンにまで味を浸透させる。それでいてどの具材とも衝突しない。深雪はホットサンドを食べながら、並んで同じものを食べている二人を眺める。風音がこのトマトのように三人を繋いだ。また大きな何かが動き出したような気がした。
「ね、深雪」食べる手を止めて実咲が言う。「深雪はわたしのフォレストアカウントをどうして知ったの?」
深雪は実咲の目を見つめた。その目は風音のように無垢で透明なものではなかった。実咲は訝しんでいるのだろう。その方が普通で、風音のようなほうが珍しい。深雪は一時、何と答えるべきか迷った。風音はぽかんとしている。きっと風音は一度も、深雪がどうやって実咲のアカウントを知ったのかということに疑問を持ちはしなかったろう。
実際には見つけてきたのは海人だ。本人が意識しないうちに写真の中に入ってしまった情報を掘り出して推測したのだ。深雪はなんとなくその行為を後ろめたいものと感じていた。実咲にそれを話したら傷つけはしまいか。いや、そうではない。実咲を傷つけることよりも、自分が嫌われることの方を恐れているのだ。
「うん。正直に話す」しばらく迷ったあと、深雪は言った。
「わたしの幼馴染でフォレストをけっこう積極的にやってる人がいてさ。その人がね。東川中学の生徒っぽいアカウント見つけたって言ってきたんだよね」深雪は実咲の顔色を伺いながら話す。実咲は黙っている。
「アップされてる写真が東川の景色ばっかりでさ。で、ときどき中学の制服を着た女の子が写ってるでしょ」深雪は風音の方へも視線を投げた。風音は淡々とホットサンドを頬張っている。
「でね。その幼馴染が、地面に落ちた影の写真を見てね、ほら女子だって言うわけ」深雪はそう言って実咲の表情を窺った。実咲は何も言わない。表情にも変化は見られなかった。
「それから自転車の写真の中にね。その写真を撮った人が写り込んでてさ。それを見ると確かに髪の長い女の子に見えた」そこまで言い終えて深雪は一息つき、「こんなに長いとはわからなかったけど」と笑ってみせた。
「写り込み」実咲は表情を変えずにつぶやいた。深雪は実咲の反応を気にしていたのに、実咲はほとんど反応を見せなかった。
「そっか。金属光沢のものは確かに写りこむよね。写り込みは質感の一部だからね。普通はそんなものあまり気にしないけど。確かに本気で写り込みを見ればその時周りにあるものも見える可能性はあるね」風音が感心したように言う。
「うちのお父さんが言ってたけどさ」と風音は続ける。実咲も風音の方を向く。
「金管楽器あるでしょ。トランペットとかそういうの。ああいうののカタログ写真って昔はすごく気を使ったんだって。きれいな楽器ほど周りのものを写しちゃうでしょ。スタジオの様子とかカメラマン本人とか。昔はもちろんそういうことに気を使って写真を撮ってたけど、今はほとんどCGなんだって。車とか家電のカタログとかもCGがほとんどだって言ってた。CGだと写り込みは意図的に作るから、写り込みの中身までぜんぶコントロールできるからだって」
「写り込み」
風音の話を聞きながらホットサンドを食べていた実咲はもう一度同じ言葉を繰り返した。実咲の声を通して深雪の中にも言葉が広がる。
「その幼馴染はさ。ファインダーを覗いてるから顔まではわからないけど、スマホで撮ってたら顔もバッチリ写ってることもあるって言ってたよ」
深雪は一拍置いて実咲の顔を伺う。
「わたしその話を聞きながらさ。なんだか実咲のことを覗き見してるような気がしてきてさ。その時は実咲だってわかってたわけじゃないけど」
深雪はそう言いながら、言い訳をしているみたいだと思った。実際、それは言い訳だった。自分は平気でそういうことをするような人ではないと言っておきたかった。
「で」と風音が深雪の言葉を引き継ぐ。「その写真に写ってる子の手を見てわたしだって気づいたんでしょ」
「そゆこと」
「手?」
実咲はホットサンドを食べ終えて空いた皿を横によけ、コーヒーのソーサーを手前に寄せた。初めてわずかに眉が動いたように見えた。深雪の方を見て「手であれが風音ってわかったの?」と聞いた。
「うん。それを風音に言ったら実咲の名前が出てきて。それでこういう話になったの」
「すごいね。驚いちゃったわたし。フォレストに写真を上げてただけでこんなことになるんだ」
実咲が言う。深雪はその表情を追いかける。
「複雑だなあ」と実咲が続ける。「なんかそういう話を聞くと怖いなって思っちゃう。何の情報もプロフィールに書いてないのに中学生の女子ってことまでわかっちゃうんだね。手だけで風音だってわかっちゃうのも怖い」
「手だけでわかるのは深雪ぐらいだと思うよ」と風音が言った。
「でもおかげでこうして会えたんだって思うと悪いことばかりじゃない気もする」
実咲はそう言ってコーヒーを一口飲み、深雪の方を見た。
「わたし複雑でさ」そう言って実咲は視線を正面に戻す。声がそれまでとは違う響きを帯びていた。
「もともと小さいころから自分のことを誰かに伝えるのが苦手でさ。なかなか友達ができなかったんだよね。うまく交流できないっていうか。距離感がわからないんだ」
深雪は姿勢を少し直して体ごと実咲の方へ向けた。実咲は手にしたコーヒーカップより少し上の空間に向かって話している。それでも実咲が今から話す言葉は一つも聞き漏らしてはいけないような気がした。
「最初はね。周りの人にわかってもらえないっていう気がしてた。うまく伝えられないからわかってもらえないっていう感じ。それがいつの間にか、みんながわたしのことを知り尽くしてるみたいに感じるようになったの。わたしが隠しておきたいようなこともぜんぶばれちゃってて。あいつはこういう汚いやつだとか、あいつは陰でこんな風に思ってるとか、周りの人がみんなそう言ってるような気がしてきたんだよね」
実咲は言葉を区切り、ゆっくりと深雪の顔を見た。深雪は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。実咲はまた視線を正面に戻して話を続けた。
「不思議なんだよね。わたしは自分のことを知ってほしいと思ってたはずなのに、知られちゃってると思ったら怖いんだ。中学に入ってからそれが強くなっちゃって。それなりに成績は良かったから先生には気に入られて、そうするとみんなには嫌われて。周りの子に褒められると嫌味を言われてるような気がする。心から褒めてくれてるのかもしれないけどぜんぶ嫌味みたいに聞こえちゃうんだよね。そうやって中一の終わりぐらいには学校に行くのが本当に辛くなっちゃった」
実咲は息継ぎをするようにコーヒーに口をつける。澤木が会話の合間を縫うように空いた皿を下げる。
「毎朝学校に行くのが本当に嫌で。でもそんなことを言ったらお父さんもお母さんも怒るだろうと思って、言い出せなかった。だから頑張って行ってさ。休み時間はなるべく人のいないところに行って。一人でいると寂しいのに周りの子はみんな怖い。誰かといたいのに誰といればいいのかわからない」
深雪は実咲の横顔を見つめていた。実咲はもう深雪の方は見ずに、自分自身に向けて言葉を紡ぎ出しているようだった。
「中二に上がってすぐぐらいのころにね。学校行きたくないなと思いながらも制服着て朝ごはん食べてたらさ、おまえは学校にも行けないのかって声が聞こえた。中学に行けなきゃ高校なんてなおさら行けないぞって。聞こえるんだよ、心の声とかじゃなくて誰かの声がさ。直接脳に話しかけてくるみたいなんだ。わたしそれをテレパシーだと思った」
深雪は身震いした。実咲の話は深雪にはなじみのない感覚だった。それでも、そんなことが身に降りかかったら大変な恐怖だろうということは想像できた。
「今日学校へ行かなきゃおまえはもう役立たずだってテレパシーに言われてさ。でも行けそうになくてさ。同じ食卓についてるお父さんを見たら申し訳なくなっちゃって。大好きなお父さん、あなたの娘は役立たずです、って思ったら涙が溢れてきて。ボロボロ泣いちゃった。お父さんにどうしたって聞かれて、わたしごめんなさいって連呼することしかできなくて」
深雪は目が熱くなった。
「そしたらお父さんがね、まずは着替えなさい、って言ったんだ。わたし意味がわからなかった。今日はとにかく学校へ行くのはやめて、その制服を着替えなさいって。で、お父さんは会社に電話して、今日は休みますって言ったんだ。そしてすぐ部屋着に着替えて、さあ実咲の話を聞かせて、って言ってくれた」
深雪は自分が息をしていることを確認した。意識していないと息が止まりそうだった。
「大泣きしながらぜんぶお父さんに話したんだ。役立たずだって言うテレパシーのことも。お父さんは笑いも呆れもしないで聞いてくれて、その日の午後病院に連れて行ってくれた。精神科に連れていかれて自分が終わってしまうような気がしたけど、餅は餅屋、それだけのことだぞ、ってお父さんが。それでだいぶ楽になった」
実咲は視線を動かさないまま手探りでコーヒーを口へ運んだ。
「それからわたし薬を飲みながら治療を続けてるんだけどさ。最初何日か休んで学校に行ったらね、わたしが精神病だっていう話が広まってて、誰も近寄ってこないんだよね。先生も大丈夫か、大丈夫かってそればっかり。授業で当てられることもなくなっちゃったし、クラスの係を決めたりするときにもわたしだけ免除。病気だから何もさせちゃいけない、みたいになってた。わたし、自分が世界から切り離されちゃったって思った」
深雪ははっとした。自分だってきっとクラスにそういう人がいたら、決して悪意からではなく、いたわりの気持ちから負担を軽くしてあげたいと思うのではないか。それがまさかその人を世界から切り離すことになるとは思ってもみなかった。
「お母さんもね」と実咲は正面を向いたまま続ける。「急に遠くへ行っちゃったんだ。今までと変わらずに一緒に暮らしてるのに。お母さんはわたしとどう接していいかわからなくなっちゃったのね。厳しいことを言わなくなっただけじゃなくてほとんど何も言わない。わたしのことが怖いんだろうと思う。わたしは暴れたりしないしさ、逆らったりもしないよ。だけど距離感がわからないって怖いんだよね。わたしが周りの人を怖いと思うのと同じ。お母さんもわたしとの距離感がわからなくて怖いの」
実咲が深雪の方を向く。深雪はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「お母さんですらどうやって近づけばいいかわからないの、わたしに。友達なんてできるはずないよね」
深雪は涙がにじみ出るのを感じた。溢れさせないようにまばたきを我慢した。
「中二の間は本当にひどかったんだ」実咲はそう言って深雪に微笑んだ。
「テレパシーもどんどんすごくなって。一人になると聞こえてくるの。このまま生きてても苦しむだけだから死のう、とか聞こえる。わたしなんか生きてても何かの役に立つわけじゃないし死のうって。いつのまにかテレパシーがさ、おまえじゃなくてわたしって言うんだよ。おまえがだめだから死ねじゃなくて、わたしがだめだから死のうって言ってくる。頭が狂いそうになるんだ。もう狂ってるからテレパシーが聞こえるんだけど、そのテレパシーでさらに狂いそうになる。誰かにそばにいてもらわないと耐えられないの。でも一緒にいられる人はお父さんしかいないし、そのお父さんは日中は仕事に出てる。お父さんだけは平気だったんだよね。病気になる前とぜんぜん変わらずに接してくれるから。朝ちゃんと起きろとか、夜は早く寝ろとか、ご飯食べたかとか、わたしにちゃんと指示もするし、叱ってもくれる。叱ってもらうことがうれしいって初めてわかったよ」
深雪はいつからかボロボロと涙をこぼしていた。いつ溢れたのかはわからなかった。
「ごめんね、いきなりこんな重い話して」実咲は深雪の方を向いて慌てて謝った。深雪の涙が実咲を呼び戻したようだった。
「ううん。お父さんが実咲の救いでほんとによかったと思ったら涙出ちゃった。ありがとう、話してくれて」
幻聴というのは自分の脳が聞かせてくる言葉だろう。自分の意思に関係なく聞こえるけれどその出どころは自分自身の脳だ。自分自身の脳が、意識の制御を超えてメッセージを送ってくる。それが「死ね」というような命令ではなく、「死のう」という意思表示だったとしたら、それに抗うのはきっと命令されるよりも難しいだろう。自分の脳に役立たずだと言われることの恐怖。それは想像を絶する。なにしろ相手は自分のことをすべて知り尽くしているのだ。加えて世界から切り離されるという極限の孤独。
「ほんとはこんな重い話をしようと思ったんじゃなくてさ。わたしが写真を始めたきっかけを話そうと思っただけだったんだよね。話し始めたら止まらなくなっちゃった」実咲は深雪に笑いかける。深雪も笑い返そうとしてみた。うまくいかなかった。
「初対面でいきなりけっこうなところまで切り込んでいくんだなとは思った」と風音が言う。深雪はそれを風音が言うのかと思ったけれど何も言わずにおいた。
「なんか風音の友達って言われたからついわたしももうすっかり友達みたいなつもりになっちゃったかも」実咲は風音にそう言ってから深雪に笑いかけた。
「それは、とてもうれしい。これからよろしくね」
深雪はやっと素直に笑顔を浮かべられた気がした。
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