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冬休みを目前に控えた頃、休み時間に深雪が机に突っ伏して前の授業の疲れを癒していると、一つ前の席に誰かががたんと勢いよく腰かけた。机に額を付けて休んでいた深雪ははずみで顔を机に打ち付けた。
「いたたた。なんだよ」
深雪が顔を上げると、すぐ前の椅子に座って深雪の机に肘を乗せて乗り出しているのは風音だった。深雪は驚いて周りを見回した。教室の端々で級友たちがこちらを見てひそひそ話しているようだった。あるいは深雪がそう感じただけかもしれない。
隣のクラスの風音がこうして休み時間に入ってくるのは初めてだった。そもそも風音が休み時間に本も読まずに誰かのところへ行くことなど想像しがたい。
風音は深雪の視線も追わず、まっすぐに深雪を見ていた。
「ね、深雪。クリスマス何か予定ある?」
「え? 別に何もないけど」
「じゃあさ、わたしとケーキ作らない?」
「けえき?」
意外な誘いに思わず深雪は聞き返した。
「わたしさ、去年は一人でケーキ作ってさ。涼月に持って行ったんだ。今年は深雪と作って持っていきたいなと思って」
「けえきってあの食べるケーキのこと?」
風音とケーキが結びつかず、深雪は聞かずにいられなかった。
「そうじゃないケーキってどんなのよ」
風音はころころと笑った。
「いや、なんか風音がケーキって想像できなくてさ。もっとドライバーとか半田ごてとかを使うようなさ。計器の方なら想像できるんだけど」
「あんたわたしをなんだと思ってるのよ」
風音はさらにけらけらと笑った。深雪は周りを見回した。きっとこんな風音を誰も見たことがない。なんだか得意な気分になった。
「わたしケーキ作ったことないよ」
深雪は少し小声で言った。
「大丈夫、半田ごては使わないから」
風音も小声でそう言うとくすくすと声を抑えて笑った。
「じゃ、クリスマスにね。うちの場所覚えてる? 一人で来られる?」
「覚えてる。行けると思う」
「じゃ、待ってるね」
そう言って風音は立ち上がる。
「あ、待って。何時に行けばいいの?」慌てて引き留めて聞くと、「午前ぐらいかな。適当でいいよ」と言って風音は深雪の教室を後にした。
そんなにアバウトなのかよ、と風音の背中を見送りながら深雪は思った。ともあれ今年は暦の関係でクリスマスには既に冬休みが始まっている。風音が誘ってくれたことで、休み中にも会えることになった。それが嬉しかった。
クリスマス前日の夜になって、深雪はケーキ作りについて何も打ち合わせをしていないことに気づいた。何か持って行かなくて良いのだろうか。それを風音に確認しようと思って、そういえば風音の連絡先というものを全く知らないことを思い出した。
携帯の番号も知らなければ、フォレストやカンバスのアカウントもわからない。そもそも風音がそういうサービスにアカウントを持っているのかどうかも疑わしいし聞いてみたことがなかった。メールアドレスすらも交換していないことにはさすがに深雪自身も驚いた。
新しく友達ができればとりあえず何らかのアカウントを交換するのが常だった。逆に、そうしたものを交換すると友達になるとさえ言えるかもしれない。そんなに重要な友達でなくても連絡先の一つぐらいは交換する。それなのにこんなにも大切な風音とは連絡先を交換していない。深雪が聞いていないだけでなく、深雪も教えていない。風音からこちらへ連絡してくることもできないのだ。
深雪は愕然とした。なぜ今の今まで気にならなかったのだろう。風音の連絡先を知らないことに何の不安もなかった。明日の約束は、午前中ぐらいに風音の家へ行くというシンプルすぎるものだ。午前中というのがどの程度の範囲を指しているのかも、何を持っていけばいいのかもわからない。
深雪はこれまで、こんなにも不確定要素の多い待ち合わせをしたことが無かった。まして相手の連絡先もわからない。急に、本当に明日でいいのだろうか、といった不安までが沸き上がってきた。不安というのは一つ見つかると雪だるま式に膨れ上がっていく。深雪はまさに今その雪だるまを転がしているようだった。
翌朝、とてもじっとしていられず、深雪は早朝から起きて早々と身支度を整え、いつ出かけようかと家の中をうろうろしていた。あまり早く行くと迷惑かもしれない。でも少しでも早く会いたい。こんなとき気軽に、今から行ってもいいかと確認することもできないなんて。携帯が無かったころの人たちはいったいどうやってこういうもやもやを解消していたのだろう。
結局深雪は、まだ早すぎると思いながらも、八時ごろ自宅を出た。深雪の家から風音の家までは歩くとかなりある。今日は道路の状態が良いのでスムーズに行けるだろうけれど、それでも一時間近くはかかる。一時間かかっても九時には着きそうだ。やはり早すぎるけれどこれ以上じっとしているのは深雪には不可能だった。
きんと冷えた天気の良い朝。道路の雪はきらきらと光を反射してガラス片を散りばめたようだ。もう少し気温が低くなれば空気中にもこのきらきらが舞う。寒い日ほど美しい。それがこの町のいいところだ。深雪はスマートフォンのカメラで写真を撮りながら、一眼レフがあったらよかったのに、と思った。冬休みは学校のカメラが借りられず、自分のカメラを持っていない深雪にはスマートフォンのカメラしかないのだ。
深雪は顔に巻いたマフラーに息を吐きかけ、顔を温めながら歩いた。真っ白な景色を楽しみながらまっすぐな道路を北東へ進んで行く。吹雪いてでもいようものなら絶対にたどり着けない距離だ。この町は天候によってまるで違う姿を見せる。深雪は吹雪いているこの町も好きだったけれど、今日だけは晴れてくれたことに感謝した。
風音の家にたどり着くまで、実にただの一台の車ともすれ違わなかった。いくら交通量が少ないとはいえ一台にも会わないのは珍しい。
風音の家にたどり着いたとき、ちょうど一階のガレージから大きな四輪駆動車が出てくるところだった。運転している男性は風音のお父さんだろう。助手席に乗っているのはお母さんだろうか。運転席でハンドルを握る風音のお父さんらしい人が、道路のわきに立っている深雪に気づいて手を振った。車はそのまま道路へ滑り出て走り去った。黄色い大きな四輪駆動車は白い雪の画布に置かれた絵具のように存在を主張していた。
黄色い車が走り去ったガレージに入って行き、真っ赤な扉の前に立つ。ここは色彩があふれている。インターフォンのボタンを押すと白いLEDライトが点灯し、深雪が名乗る前に「今行く」という声が聞こえた。
扉の向こうで階段を駆け下りる音がして扉が開いた。風音は涼月で澤木が身に着けていたのと同じような、模型メーカーのロゴの入ったエプロンをしていた。エプロンの下にグレーのパーカーを着ているのも澤木風だった。
「おはよう。早すぎたかな?」と深雪は遠慮がちに聞きながらコートを脱ぐ。
「大丈夫。早すぎないよ。ちょうど今始めたところ」
風音は深雪に構わずすぐに階段を上り始めた。深雪は自分でハンガーを取り、コートとマフラーをかけて風音を追った。
深雪は風音の後について二階へ上りながら「そんなエプロンだとほんとに半田ごてが出てきそうだね」と言った。
「ラジコンやる人の家にはどうやらこのエプロンがあるみたいよ。うちのお父さんと涼月のケンさんはラジコン仲間でさ。涼月の裏の倉庫はラジコンのコースになってるのよ。たまにおじさんたちが集まって遊んでるみたい」
「へえ。ラジコンってあの玄関に置いてあるようなでっかいやつ?」
「そうそう。あんなのを持ち寄って遊ぶわけ。いい大人が」と風音は笑うけれどその言葉には蔑みの色は無かった。
「てことはそのエプロンはラジコンいじるときに着るやつなんじゃない?」
「そうかもね。ま、ものづくりって意味ではラジコンでも写真でもスイーツでも同じようなものよ」
深雪は笑った。風音の視点は繊細なのか雑なのかよくわからない。誰も気づかないようなわずかなものを拾うこともあれば、誰もが区別するようなものをひとくくりにしてしまったりする。独特の価値観の中で生きているのが伝わってくる。風音は自分の尺度を持って生きていて、その中にあって迷いがない。深雪は風音のそういうところに強く惹かれるのだと思った。
二階へ上ると、そこは厨房というよりも工房といった様子だった。まな板を並べて作業台のような状態を作ってあり、分量を量ってあると思しき材料たちが、それぞれガラスのビーカーに入って並んでいた。ビーカー。理科室みたいだ、と深雪は思った。ステンレスのボウルはキッチン用のものだろうけれど、そこに並んでいると実験器具みたいに見えた。風音はそのステンレスのボウルで卵を泡立てているところだったようだ。ハンドミキサーのビーターが二本、泡立った卵白の中に突き立って置いてあった。
「はいこれ」
風音は自分が着ているのとは色の違うエプロンを深雪に差し出す。身につけてみると、それは風音のとは色が違うだけで、同じ模型メーカーのロゴが入っていた。風音の着ているものは黒で深雪が受け取ったものはベージュだった。
キッチンに戻ると風音はハンドミキサーの本体にビーターを挿しなおした。「はい」と言って深雪に手渡し、「これで卵を泡立てる」と言った。
深雪は言われるままに受け取ってスイッチを入れる。ステンレスのボウルの中で泡立った卵白が渦を描く。二本のビーターは互いに向き合うように回転し、周りの卵白を吸い込む。吸い込まれたものが反対側から送り出され、波を描くように広がっていく。広がったものはいつしかまた吸い込まれる側に回る。深雪はビーターの描く枯山水のような模様を見つめながらボウルの中でハンドミキサーをゆっくりと動かした。
風音が横からビーカーを傾け、ビーターの間へグラニュー糖を入れる。流し込むというよりも一気にひっくり返すような無造作な入れ方だった。グラニュー糖は一瞬にして卵白の渦に巻き込まれ、跡形もなくなった。風音はボウルの中を覗き込み、今度は別のビーカーを手に取る。そのビーカーには卵黄がいくつか入っていた。風音はそれを一つ、ボウルの中へするりと落とす。卵黄は一瞬にしてビーターの間に巻き込まれ、全体にふわっと色がつく。
「ね、卵黄入れるときミキサー止めなくていいの? 飛び散るよ」深雪が聞くと、風音は「そのためにエプロンしてるから平気」と答えた。深雪は楽しくなった。
そのままハンドミキサーは回り続け、深雪はそれを支え続けた。風音は様子を見ながらビーカーを傾け、タイミングを見計らって卵黄を落とした。そのたびにボウルの中身は少しずつ色を増していった。「こうやって生卵落としてるとロッキーを思い出すね」と風音が言う。深雪の中には生卵と結びつくロッキーという単語は見当たらなかった。
「よし。ミキサーを一番ゆっくりにして」と風音が言い、深雪は手元のダイヤルを操作して応じた。風音はビーカーに用意されていた粉を取り、篩にかけながらボウルの中へ落とし始め、「適当に混ぜてて」と言った。「ここはさすがにね。回転が速いと大変なことになるのよ」
その口ぶりからすると風音はそういう大変なことを体験したことがあるのだろう。
深雪の背後でピーという電子音が断続的に鳴った。風音は顔を上げ、「オーブンが温まった」と言った。
「よし。ミキサー止めていいよ」風音が言い、深雪はその通りにした。
ケーキを焼くための円形の型は、すでにクッキングシートが貼られた状態で用意されていた。オーブンの予熱といい、材料を入れたビーカーといい、風音はこうした準備をきちんと整えてから作業に入るのだろう。それは暗室作業と似ているのかもしれない。その緻密な段取りと豪快な作業のギャップが面白いと深雪は思った。
型にボウルの中身を移し、熱したオーブンに入れる。
「三十分」と言って風音はオーブンを操作した。
深雪はふう。と息を吐いた。一段落と思ったからだ。しかし風音はすでに、空になったボウルを流しに下げ、新たなボウルを二つ取り出していた。
「オーブンやってる間にホイップ作るわよ」
風音は二つのボウルの一つに氷水を入れ、その上にもう一つを重ねた。そこに生クリームと練乳を入れる。ハンドミキサーのビーターを交換して深雪に手渡し、「はい」と言った。
「それ交換するやつあるんだ」と深雪は外された方のビーターを指さした。
「うん。途中で洗うのが面倒だからってこの部分だけ買い足したの、お父さんが。交換用があると超便利よ」
深雪は感心した。風音のお父さん。さっき黄色い車で出て行った人。車の中から深雪に手を振ってくれた人。
ミキサーのスイッチを入れて生クリームを混ぜる。最初は完全な液体の中でビーターが回転しているだけだ。水面に渦は見えるものの、ミキサーを止めればすぐに落ち着く。洗濯機を回しているような感じだ。それがしばらくすると次第に粘度を増してくる。波立った水面が戻らなくなってくる。深雪はハンドミキサーを支えながら、ホイップされる生クリームの水面を無心で眺めていた。
やがてクリームがその時の形を維持できる程度の固さにになり、風音が覗き込んで「よし」と言った。深雪はハンドミキサーからビーターを抜き、風音と使い終えた道具を洗った。
背後で鳴っていて意識にのぼってこないほどに溶け込んでいたオーブンの作動音が変化し、ほどなく電子音がピーピーと鳴り響いた。オーブンはファンを強く回して冷却モードになる。
「できたね」と言いながら風音はオーブンから型を取り出す。香ばしい香りを伴って、ふっくらと膨らんだスポンジが出てくる。
「すごいね。うまくいくもんだね」と深雪が感心すると、「こういうのは分量と時間を正しくやればだいたいうまくいくよ。うまくいかないときはどこかで間違ってるの」と風音は言った。
その言葉を聞いて深雪は、ラジコンも写真もスイーツも似たようなものだという風音の言葉の意味が分かったような気がした。風音は取り出したスポンジに布巾をかぶせ、「しばらく冷ます。その間休憩しよ」と言った。
二人はダイニングで向き合って座り、コーヒーはあとで涼月で飲むから、ということでカルピスを飲んだ。
「ね、風音。連絡先、交換しようよ」
深雪は思い切って言ってみた。なぜ思い切らないと言えないのかはよくわからなかった。
「連絡先?」
風音は意外そうに聞き返す。
「ほら、カンバスとかさ、携帯番号とか、メアドでもいいけど」
「わたし携帯とか持ってないからさ。カンバスもやってないし」
深雪は驚いた。周りの子たちはだいたい中学校の頃からスマートフォンを持っている。なかなか持たせてもらえないという子も、高校へ入って解禁になったという子が多かった。
「携帯持ってないの? 持たせてもらえないの?」と聞きながら、風音の家で携帯を持たせてもらえないということはないだろうと思った。むしろかなり自由にやっている印象だ。風音が何かを禁止されているというのは想像しにくかった。
「いや。必要なら持たせてくれるって言われてるけどさ。必要を感じないのよね」
「必要を感じない」
深雪は理解できず、風音の言葉をそのまま繰り返した。
深雪にとってスマートフォンはもはやなくてはならないものだった。スマートフォンのない生活など考えられない。友達とのやり取りはもちろん、両親とのやり取りにおいても必需品と言えた。ニュースを知ったり、天気予報を確認したりするのにも使っていた。
「なんで? なんで必要ないの?」
「必要ないっていうかさ、優先度が低い感じかな。わたしはさ、やりたいことがいっぱいあるから今でもぜんぜん時間足りないんだよね。この上携帯まで持ってもさ、触る時間ないよ。学校から帰ってきたら写真撮りに行くか現像するでしょ。だいたい写真撮りに行った次の日にそれを現像する感じかな。すぐ夕飯になっちゃうよ。夜お風呂に入ったあとは絵を描いたり本読んだり。まったく暇な時間がないのよね」
聞きながら深雪は自分の一日を振り返ってみた。
「すごいなあ、風音は」
「別にすごくないよ。単にやりたいことに優先順位をつけて上から順番にやってるだけ。わたしの場合携帯とかスマホみたいなものは優先順位のかなり後ろの方にあるから持ってないだけ」
深雪は風音が携帯を持たない理由は理解できたものの、まだいろいろと疑問があった。
「でもさ。じゃ、どうやって連絡とるの?」
「誰と?」
「わたし、とか」
「会って話す。今日も来てくれたし」
「そうだけどさ。冬休みで学校無かったら会えないじゃない。約束してなかったらいつ来ていいかもわからないしさ」
「そうね。電話番号教えとくよ。あとメールも」
風音はそう言うとダイニングテーブルの上にあったメモ用紙とボールペンを手に取った。
「携帯持ってないんじゃないの?」と深雪が聞くと、「携帯は持ってないけどうちには電話あるよ、さすがに」と風音は笑う。
「それにパソコンも持ってる」と風音はメモ用紙にアドレスを書きながら付け加えた。
「はい」と書き終えたメモと新しい紙を一枚、深雪に渡す。
「深雪の連絡先も書いて」
深雪は数ある連絡先のうち、携帯電話の番号とメールアドレスを書いて風音に渡した。連絡先の交換といって紙に書いてやり取りしたのは初めてだ。新鮮だった。
「メールはだいたい夜しか見ないからさ。急ぐときは電話して」
「でも家にいないこともあるでしょ。写真撮ってたりとか、涼月にいたりとか」
「うん。でもそんなにすぐ連絡とらないといけないことなんてほとんどないでしょ」
「それは、そうかもしれないけどさ」
言われてみればそうかもしれないと深雪は思った。
「もし電話してきて家にいなかったら涼月に来てみたらいいんじゃない? 家にいなくて涼月にもいなければどっかを歩いてるわね」
深雪は笑った。受け取ったメモを見てすぐにスマートフォンに連絡先を登録し、風音だけを登録した特別なグループを作った。用の済んだメモ用紙も大切に財布の奥にしまった。風音は深雪から受け取ったメモを自分の部屋へ持って行った。
「さ、そろそろいいんじゃないかな」戻ってきた風音が言う。
「何が?」深雪が聞きかえすと、「ケーキに決まってるでしょ」と風音は呆れ気味に答えた。
風音はキッチンへ戻り、スポンジを型から取り出す。刃渡りの長い柳刃包丁でその真ん中あたりを水平方向に切る。ふわふわのスポンジをほとんど潰すことなく、すっ、と入っていく。見ているだけで惚れ惚れするような切れ味だった。
「ほんとはケーキスライサーがあるといいんだけどね」と言いながら風音は切り取った上半分を下半分から少し離して置いた。
「さ、クリームを塗る」と言ってへらを手に取り、スポンジの下半分に塗り始める。現像タンクを撹拌したときのように巧みに手首を返しながら側面を塗る。深雪が見とれていると「はい」と言って風音がへらを差し出す。深雪はそれを受け取って風音の続きをやってみる。どうも風音のようにはいかない。風音がすっと一塗りした距離の三分の一ぐらいの長さをぺたぺたと塗り直しながら進める。それを見ながら風音は一言「上出来」と言った。
スポンジの上面は側面よりも幾分塗りやすいような気がしたけれど、ぺたぺたやっているとへらに引っ張られて表面がぽつぽつととがってしまう。どうも見た目が良くない。風音はそれを見て「壁に漆喰を塗るのと同じ要領よ」と言う。漆喰よりもケーキのほうがまだ身近だと思うのは深雪だけではなかろう。
「見てて」と言って深雪からへらを受け取り、例のしなやかな手首で全体を撫でるように塗る。へらの通った後がこいのぼりの鱗のような模様になる。「ほら。壁みたいでしょ」
へらを置いて風音は冷蔵庫から苺を取り出す。作業台のようなまな板の上に小ぶりの苺を置き、包丁で巧みに切る。薄くスライスしたもの、半分に切ったもの、全く切らないものなどを小さなトレイに分けて乗せる。深雪は風音の繊細な指が器用にこなす動作のひとつひとつに惚れ惚れした。
風音はもっとも薄いいちごの乗ったトレイを深雪に差し出し、「これをその壁みたいな上に並べる」と言った。深雪は言われるまま、スライスされた苺を並べていく。「重なってもいいよ。たっぷり乗せよう」と風音が言う。
スライスした苺を敷き詰めた上にまたホイップクリームを敷き、その上にスポンジの上半分を乗せる。へらにたっぷりとクリームを取り、側面全体を覆うように塗る。これも半分ほどを風音がすーっと長いストロークで塗り、「はい」と渡されて受け継いだ深雪がぺたぺたと小刻みに残り半分を塗る。側面を塗り終えて風音にへらを返すと、風音は上面にクリームの山をぽてっと置き、「はい。壁塗り」と言って深雪にバトンタッチする。
深雪はさっきの風音の手つきを思い出しながら手首を柔らかく使い、引っかかったり途切れたりしながらも比較的滑らかに仕上げた。最後に一番上に大きめの苺を飾る。半分に切ったものと切らずにヘタを取っただけのものを並べる。
「完成」と残ったホイップクリームを舐めながら風音が言う。
それなりに良い出来栄えだった。大きな達成感があった。時計を見ると午後になっていた。
風音はキッチンの背面にある吊戸棚からケーキ用の箱を取り出し、ダイニングテーブルの上に広げた。
「そんな箱まで用意してあるの?」
「常に二個ぐらいはストックしてあるよ。そんなにしょっちゅう使うわけじゃないけど」
風音は箱を組み立てるとケーキをその箱のトレイに乗せた。ケーキ屋さんのような箱に乗せると粗削りな二人のケーキも立派に見えた。
「雰囲気出るでしょ」
箱にケーキを収めた風音は使った道具を流しに入れ、エプロンを外しながら「さ、お昼を食べがてらケーキを持って出かけよ」と言った。
「お昼はどこで食べるの? 涼月ってコーヒーしかないんでしょ?」
「うん、表向きは。でも頼めばホットサンドぐらい作ってくれるよ」
風音は友達の家にでも行くような口ぶりでそう言い、「ケーキ持参だしね」といたずらっぽく付け加えた。
玄関へ下りてコートを着ると、「あ、そうか。冬休みだからカメラないのか」と風音が言った。「ちょっと待って」と言って“幻像工房”ではない方の扉へ入っていく。深雪が追うと、その扉には“導具函”書かれていた。
「どうぐばこ」
深雪は声に出して読んだ。部屋の中から風音が「そう。道具のどうはほんとは道路の道だけどね。道具っていうのは導いてくれるものなんだって、お父さんが」と言った。
深雪は扉のところで立ち止まって部屋を覗き込んだ。その部屋は壁という壁がすべて作りつけの棚になっていて、風音は奥の棚からカメラを取り出しているところだった。手前の棚にはいろいろなタイプのラジコンカーやドローンなどが置かれ、近くには工具箱や部品箱のようなものがたくさんあった。深雪には正体のわからないものだらけだった。
棚の前にも大きめのプラスチックケースがあり、何かの基盤やケーブルなどが詰まっていた。部屋の奥の角では棚の前にギターやベースなどの楽器が並んでいる。写真部の部室よりもさらに濃密な空間に深雪は圧倒された。風音が立っているあたりの棚にはカメラが置かれているようだった。風音はその棚からカメラを二台取り出して戻ってきた。
「はい」
風音は二台持ってきたうちの大きい方を深雪に手渡す。学校で使っているものとは違うメーカーのカメラだった。
「メーカーが違うからちょっと操作が違うけど、APSサイズの一眼レフ。50ミリのマクロもあったよ。それ、冬休みの間貸してあげる」
「ほんとにいいの? これお父さんのでしょ」深雪は驚いて聞いた。
「お父さんのだけど深雪に貸すのは大丈夫だよ」
「ありがとう」
深雪がお礼を言うと、風音はもう一つ持っていた小さなカメラを見せながら「わたしは休み中これにする」と言った。
「それはなに?」
「これはミラーレス。これも同じAPSサイズのCCDだからだいたいそれと同じ感じ」
「それもお父さんのカメラ?」
「そう。ぜんぶお父さんのカメラだけどどれ使ってもいいことになってるの。ハッセルもお父さんのだったんだけど、わたしがあまりにも気に入って愛用してたからあれだけはわたしにくれたの」
二人はそれぞれカメラを首からかけ、ケーキは深雪が持って家を出た。
涼月は風音の家からは歩いて十分ぐらいだった。風音が重い扉を開くと風鈴が響く。深雪もすぐあとから続く。出てきた澤木に風音が「メリークリスマス」と挨拶した。澤木は風音と深雪の顔を見比べて「メリークリスマス。いらっしゃい」と言った。
風音はコートを脱いで壁のハンガーにかけ、カウンターの一番奥の席に座る。深雪はその隣の席にケーキの箱を置いてからコートを脱いだ。澤木はコーヒーを作り始めながら「ほらね、すっかり仲良くなった」と言った。
「ケンさん、何か食べるものありますか?」と風音は澤木の言葉をあえて素通りした。澤木は振り返って時計を見て「お昼か」とつぶやき、「何か作るよ」と続けた。「お昼を食べる間ケーキは冷蔵庫に入れておこうか」と澤木が言い、深雪はケーキの箱を渡した。
「メニューにないものも作ってくれるんですか?」と深雪が聞くと「うちはそもそもメニューすらないんだけどね」と言って澤木は冷蔵庫からレタスを取り出した。
「前にコーヒーしかないって言ってたから」
「うん。基本はそう。コーヒーしかない。でも今日はクリスマスで二人はケーキを持ってきてくれたからね。ぼくはサンドイッチでも作ろうかな」
澤木の言葉を受けて風音は人差し指を立て、「ギブアンドテイク」と言った。深雪はふきだした。
「で」と澤木は大きな中華鍋を取り出してベーコンを焼き始めながら言った。「Xを持ってきたのはどういう風の吹き回しかな」と風音に聞く。
風音は深雪の方を見て「Xってのはこのカメラのことね。フジのXシリーズ」と手にしたカメラを深雪に見せながら補足した。
「いつもはハッセルブラッドっていうおじさんしか持ってないようなカメラを持ち歩いてるんだよ」と澤木が深雪に説明する。
「はい。ハッセルは見せてもらいました」
「6×6じゃないのを撮るのは相当珍しいよね」澤木が言うと、風音はまた深雪の方を見て「ロクロクってのは六センチかける六センチのことね。ハッセルで撮る一コマのサイズ」と補足する。
「写甲に挑戦するのにハッセルってわけにいかないんですよ。規定があるから」と風音が言う。
「お、写甲やることにしたの? ほんとに?」
澤木は大げさに驚いて見せると深雪の方へかがみこんでわざとらしく小声になり、「どうやって説得したの? このカタブツを」と風音にも聞こえるように言った。
「いえ、友達になったら風音の方からやってくれるって言いだしたんです」
「おお。風音ちゃんを名前で呼ぶ友達ができたんだね」
澤木はベーコンを焼き終えた同じ中華鍋で今度は卵を炒めながら言った。風音は薄笑いを浮かべていた。
「ぼくはね、初めて深雪ちゃんに会ったときから、きっと深雪ちゃんなら風音ちゃんの親友になれるんじゃないかと思ってたよ。結局何が二人をつないだの?」
澤木は深雪に聞いた。
「たぶん…」深雪は言葉を探した。「単焦点です」
三人がそれぞれの顔を見回す間沈黙が降りたあと、三人とも笑い出した。
「そりゃあいい。単焦点がつないだ友情。いいね、映画になるよ」と澤木が言うと「なりませんよ」とすかさず風音が返した。また三人で笑った。
澤木は三人分のホットサンドを作り、それを三人で食べた。そのあと風音と深雪で作ったケーキを切り分け、澤木の淹れたコーヒーをおともにして三人で食べた。深雪にとってこれまでで一番すてきなクリスマスになった。
「いたたた。なんだよ」
深雪が顔を上げると、すぐ前の椅子に座って深雪の机に肘を乗せて乗り出しているのは風音だった。深雪は驚いて周りを見回した。教室の端々で級友たちがこちらを見てひそひそ話しているようだった。あるいは深雪がそう感じただけかもしれない。
隣のクラスの風音がこうして休み時間に入ってくるのは初めてだった。そもそも風音が休み時間に本も読まずに誰かのところへ行くことなど想像しがたい。
風音は深雪の視線も追わず、まっすぐに深雪を見ていた。
「ね、深雪。クリスマス何か予定ある?」
「え? 別に何もないけど」
「じゃあさ、わたしとケーキ作らない?」
「けえき?」
意外な誘いに思わず深雪は聞き返した。
「わたしさ、去年は一人でケーキ作ってさ。涼月に持って行ったんだ。今年は深雪と作って持っていきたいなと思って」
「けえきってあの食べるケーキのこと?」
風音とケーキが結びつかず、深雪は聞かずにいられなかった。
「そうじゃないケーキってどんなのよ」
風音はころころと笑った。
「いや、なんか風音がケーキって想像できなくてさ。もっとドライバーとか半田ごてとかを使うようなさ。計器の方なら想像できるんだけど」
「あんたわたしをなんだと思ってるのよ」
風音はさらにけらけらと笑った。深雪は周りを見回した。きっとこんな風音を誰も見たことがない。なんだか得意な気分になった。
「わたしケーキ作ったことないよ」
深雪は少し小声で言った。
「大丈夫、半田ごては使わないから」
風音も小声でそう言うとくすくすと声を抑えて笑った。
「じゃ、クリスマスにね。うちの場所覚えてる? 一人で来られる?」
「覚えてる。行けると思う」
「じゃ、待ってるね」
そう言って風音は立ち上がる。
「あ、待って。何時に行けばいいの?」慌てて引き留めて聞くと、「午前ぐらいかな。適当でいいよ」と言って風音は深雪の教室を後にした。
そんなにアバウトなのかよ、と風音の背中を見送りながら深雪は思った。ともあれ今年は暦の関係でクリスマスには既に冬休みが始まっている。風音が誘ってくれたことで、休み中にも会えることになった。それが嬉しかった。
クリスマス前日の夜になって、深雪はケーキ作りについて何も打ち合わせをしていないことに気づいた。何か持って行かなくて良いのだろうか。それを風音に確認しようと思って、そういえば風音の連絡先というものを全く知らないことを思い出した。
携帯の番号も知らなければ、フォレストやカンバスのアカウントもわからない。そもそも風音がそういうサービスにアカウントを持っているのかどうかも疑わしいし聞いてみたことがなかった。メールアドレスすらも交換していないことにはさすがに深雪自身も驚いた。
新しく友達ができればとりあえず何らかのアカウントを交換するのが常だった。逆に、そうしたものを交換すると友達になるとさえ言えるかもしれない。そんなに重要な友達でなくても連絡先の一つぐらいは交換する。それなのにこんなにも大切な風音とは連絡先を交換していない。深雪が聞いていないだけでなく、深雪も教えていない。風音からこちらへ連絡してくることもできないのだ。
深雪は愕然とした。なぜ今の今まで気にならなかったのだろう。風音の連絡先を知らないことに何の不安もなかった。明日の約束は、午前中ぐらいに風音の家へ行くというシンプルすぎるものだ。午前中というのがどの程度の範囲を指しているのかも、何を持っていけばいいのかもわからない。
深雪はこれまで、こんなにも不確定要素の多い待ち合わせをしたことが無かった。まして相手の連絡先もわからない。急に、本当に明日でいいのだろうか、といった不安までが沸き上がってきた。不安というのは一つ見つかると雪だるま式に膨れ上がっていく。深雪はまさに今その雪だるまを転がしているようだった。
翌朝、とてもじっとしていられず、深雪は早朝から起きて早々と身支度を整え、いつ出かけようかと家の中をうろうろしていた。あまり早く行くと迷惑かもしれない。でも少しでも早く会いたい。こんなとき気軽に、今から行ってもいいかと確認することもできないなんて。携帯が無かったころの人たちはいったいどうやってこういうもやもやを解消していたのだろう。
結局深雪は、まだ早すぎると思いながらも、八時ごろ自宅を出た。深雪の家から風音の家までは歩くとかなりある。今日は道路の状態が良いのでスムーズに行けるだろうけれど、それでも一時間近くはかかる。一時間かかっても九時には着きそうだ。やはり早すぎるけれどこれ以上じっとしているのは深雪には不可能だった。
きんと冷えた天気の良い朝。道路の雪はきらきらと光を反射してガラス片を散りばめたようだ。もう少し気温が低くなれば空気中にもこのきらきらが舞う。寒い日ほど美しい。それがこの町のいいところだ。深雪はスマートフォンのカメラで写真を撮りながら、一眼レフがあったらよかったのに、と思った。冬休みは学校のカメラが借りられず、自分のカメラを持っていない深雪にはスマートフォンのカメラしかないのだ。
深雪は顔に巻いたマフラーに息を吐きかけ、顔を温めながら歩いた。真っ白な景色を楽しみながらまっすぐな道路を北東へ進んで行く。吹雪いてでもいようものなら絶対にたどり着けない距離だ。この町は天候によってまるで違う姿を見せる。深雪は吹雪いているこの町も好きだったけれど、今日だけは晴れてくれたことに感謝した。
風音の家にたどり着くまで、実にただの一台の車ともすれ違わなかった。いくら交通量が少ないとはいえ一台にも会わないのは珍しい。
風音の家にたどり着いたとき、ちょうど一階のガレージから大きな四輪駆動車が出てくるところだった。運転している男性は風音のお父さんだろう。助手席に乗っているのはお母さんだろうか。運転席でハンドルを握る風音のお父さんらしい人が、道路のわきに立っている深雪に気づいて手を振った。車はそのまま道路へ滑り出て走り去った。黄色い大きな四輪駆動車は白い雪の画布に置かれた絵具のように存在を主張していた。
黄色い車が走り去ったガレージに入って行き、真っ赤な扉の前に立つ。ここは色彩があふれている。インターフォンのボタンを押すと白いLEDライトが点灯し、深雪が名乗る前に「今行く」という声が聞こえた。
扉の向こうで階段を駆け下りる音がして扉が開いた。風音は涼月で澤木が身に着けていたのと同じような、模型メーカーのロゴの入ったエプロンをしていた。エプロンの下にグレーのパーカーを着ているのも澤木風だった。
「おはよう。早すぎたかな?」と深雪は遠慮がちに聞きながらコートを脱ぐ。
「大丈夫。早すぎないよ。ちょうど今始めたところ」
風音は深雪に構わずすぐに階段を上り始めた。深雪は自分でハンガーを取り、コートとマフラーをかけて風音を追った。
深雪は風音の後について二階へ上りながら「そんなエプロンだとほんとに半田ごてが出てきそうだね」と言った。
「ラジコンやる人の家にはどうやらこのエプロンがあるみたいよ。うちのお父さんと涼月のケンさんはラジコン仲間でさ。涼月の裏の倉庫はラジコンのコースになってるのよ。たまにおじさんたちが集まって遊んでるみたい」
「へえ。ラジコンってあの玄関に置いてあるようなでっかいやつ?」
「そうそう。あんなのを持ち寄って遊ぶわけ。いい大人が」と風音は笑うけれどその言葉には蔑みの色は無かった。
「てことはそのエプロンはラジコンいじるときに着るやつなんじゃない?」
「そうかもね。ま、ものづくりって意味ではラジコンでも写真でもスイーツでも同じようなものよ」
深雪は笑った。風音の視点は繊細なのか雑なのかよくわからない。誰も気づかないようなわずかなものを拾うこともあれば、誰もが区別するようなものをひとくくりにしてしまったりする。独特の価値観の中で生きているのが伝わってくる。風音は自分の尺度を持って生きていて、その中にあって迷いがない。深雪は風音のそういうところに強く惹かれるのだと思った。
二階へ上ると、そこは厨房というよりも工房といった様子だった。まな板を並べて作業台のような状態を作ってあり、分量を量ってあると思しき材料たちが、それぞれガラスのビーカーに入って並んでいた。ビーカー。理科室みたいだ、と深雪は思った。ステンレスのボウルはキッチン用のものだろうけれど、そこに並んでいると実験器具みたいに見えた。風音はそのステンレスのボウルで卵を泡立てているところだったようだ。ハンドミキサーのビーターが二本、泡立った卵白の中に突き立って置いてあった。
「はいこれ」
風音は自分が着ているのとは色の違うエプロンを深雪に差し出す。身につけてみると、それは風音のとは色が違うだけで、同じ模型メーカーのロゴが入っていた。風音の着ているものは黒で深雪が受け取ったものはベージュだった。
キッチンに戻ると風音はハンドミキサーの本体にビーターを挿しなおした。「はい」と言って深雪に手渡し、「これで卵を泡立てる」と言った。
深雪は言われるままに受け取ってスイッチを入れる。ステンレスのボウルの中で泡立った卵白が渦を描く。二本のビーターは互いに向き合うように回転し、周りの卵白を吸い込む。吸い込まれたものが反対側から送り出され、波を描くように広がっていく。広がったものはいつしかまた吸い込まれる側に回る。深雪はビーターの描く枯山水のような模様を見つめながらボウルの中でハンドミキサーをゆっくりと動かした。
風音が横からビーカーを傾け、ビーターの間へグラニュー糖を入れる。流し込むというよりも一気にひっくり返すような無造作な入れ方だった。グラニュー糖は一瞬にして卵白の渦に巻き込まれ、跡形もなくなった。風音はボウルの中を覗き込み、今度は別のビーカーを手に取る。そのビーカーには卵黄がいくつか入っていた。風音はそれを一つ、ボウルの中へするりと落とす。卵黄は一瞬にしてビーターの間に巻き込まれ、全体にふわっと色がつく。
「ね、卵黄入れるときミキサー止めなくていいの? 飛び散るよ」深雪が聞くと、風音は「そのためにエプロンしてるから平気」と答えた。深雪は楽しくなった。
そのままハンドミキサーは回り続け、深雪はそれを支え続けた。風音は様子を見ながらビーカーを傾け、タイミングを見計らって卵黄を落とした。そのたびにボウルの中身は少しずつ色を増していった。「こうやって生卵落としてるとロッキーを思い出すね」と風音が言う。深雪の中には生卵と結びつくロッキーという単語は見当たらなかった。
「よし。ミキサーを一番ゆっくりにして」と風音が言い、深雪は手元のダイヤルを操作して応じた。風音はビーカーに用意されていた粉を取り、篩にかけながらボウルの中へ落とし始め、「適当に混ぜてて」と言った。「ここはさすがにね。回転が速いと大変なことになるのよ」
その口ぶりからすると風音はそういう大変なことを体験したことがあるのだろう。
深雪の背後でピーという電子音が断続的に鳴った。風音は顔を上げ、「オーブンが温まった」と言った。
「よし。ミキサー止めていいよ」風音が言い、深雪はその通りにした。
ケーキを焼くための円形の型は、すでにクッキングシートが貼られた状態で用意されていた。オーブンの予熱といい、材料を入れたビーカーといい、風音はこうした準備をきちんと整えてから作業に入るのだろう。それは暗室作業と似ているのかもしれない。その緻密な段取りと豪快な作業のギャップが面白いと深雪は思った。
型にボウルの中身を移し、熱したオーブンに入れる。
「三十分」と言って風音はオーブンを操作した。
深雪はふう。と息を吐いた。一段落と思ったからだ。しかし風音はすでに、空になったボウルを流しに下げ、新たなボウルを二つ取り出していた。
「オーブンやってる間にホイップ作るわよ」
風音は二つのボウルの一つに氷水を入れ、その上にもう一つを重ねた。そこに生クリームと練乳を入れる。ハンドミキサーのビーターを交換して深雪に手渡し、「はい」と言った。
「それ交換するやつあるんだ」と深雪は外された方のビーターを指さした。
「うん。途中で洗うのが面倒だからってこの部分だけ買い足したの、お父さんが。交換用があると超便利よ」
深雪は感心した。風音のお父さん。さっき黄色い車で出て行った人。車の中から深雪に手を振ってくれた人。
ミキサーのスイッチを入れて生クリームを混ぜる。最初は完全な液体の中でビーターが回転しているだけだ。水面に渦は見えるものの、ミキサーを止めればすぐに落ち着く。洗濯機を回しているような感じだ。それがしばらくすると次第に粘度を増してくる。波立った水面が戻らなくなってくる。深雪はハンドミキサーを支えながら、ホイップされる生クリームの水面を無心で眺めていた。
やがてクリームがその時の形を維持できる程度の固さにになり、風音が覗き込んで「よし」と言った。深雪はハンドミキサーからビーターを抜き、風音と使い終えた道具を洗った。
背後で鳴っていて意識にのぼってこないほどに溶け込んでいたオーブンの作動音が変化し、ほどなく電子音がピーピーと鳴り響いた。オーブンはファンを強く回して冷却モードになる。
「できたね」と言いながら風音はオーブンから型を取り出す。香ばしい香りを伴って、ふっくらと膨らんだスポンジが出てくる。
「すごいね。うまくいくもんだね」と深雪が感心すると、「こういうのは分量と時間を正しくやればだいたいうまくいくよ。うまくいかないときはどこかで間違ってるの」と風音は言った。
その言葉を聞いて深雪は、ラジコンも写真もスイーツも似たようなものだという風音の言葉の意味が分かったような気がした。風音は取り出したスポンジに布巾をかぶせ、「しばらく冷ます。その間休憩しよ」と言った。
二人はダイニングで向き合って座り、コーヒーはあとで涼月で飲むから、ということでカルピスを飲んだ。
「ね、風音。連絡先、交換しようよ」
深雪は思い切って言ってみた。なぜ思い切らないと言えないのかはよくわからなかった。
「連絡先?」
風音は意外そうに聞き返す。
「ほら、カンバスとかさ、携帯番号とか、メアドでもいいけど」
「わたし携帯とか持ってないからさ。カンバスもやってないし」
深雪は驚いた。周りの子たちはだいたい中学校の頃からスマートフォンを持っている。なかなか持たせてもらえないという子も、高校へ入って解禁になったという子が多かった。
「携帯持ってないの? 持たせてもらえないの?」と聞きながら、風音の家で携帯を持たせてもらえないということはないだろうと思った。むしろかなり自由にやっている印象だ。風音が何かを禁止されているというのは想像しにくかった。
「いや。必要なら持たせてくれるって言われてるけどさ。必要を感じないのよね」
「必要を感じない」
深雪は理解できず、風音の言葉をそのまま繰り返した。
深雪にとってスマートフォンはもはやなくてはならないものだった。スマートフォンのない生活など考えられない。友達とのやり取りはもちろん、両親とのやり取りにおいても必需品と言えた。ニュースを知ったり、天気予報を確認したりするのにも使っていた。
「なんで? なんで必要ないの?」
「必要ないっていうかさ、優先度が低い感じかな。わたしはさ、やりたいことがいっぱいあるから今でもぜんぜん時間足りないんだよね。この上携帯まで持ってもさ、触る時間ないよ。学校から帰ってきたら写真撮りに行くか現像するでしょ。だいたい写真撮りに行った次の日にそれを現像する感じかな。すぐ夕飯になっちゃうよ。夜お風呂に入ったあとは絵を描いたり本読んだり。まったく暇な時間がないのよね」
聞きながら深雪は自分の一日を振り返ってみた。
「すごいなあ、風音は」
「別にすごくないよ。単にやりたいことに優先順位をつけて上から順番にやってるだけ。わたしの場合携帯とかスマホみたいなものは優先順位のかなり後ろの方にあるから持ってないだけ」
深雪は風音が携帯を持たない理由は理解できたものの、まだいろいろと疑問があった。
「でもさ。じゃ、どうやって連絡とるの?」
「誰と?」
「わたし、とか」
「会って話す。今日も来てくれたし」
「そうだけどさ。冬休みで学校無かったら会えないじゃない。約束してなかったらいつ来ていいかもわからないしさ」
「そうね。電話番号教えとくよ。あとメールも」
風音はそう言うとダイニングテーブルの上にあったメモ用紙とボールペンを手に取った。
「携帯持ってないんじゃないの?」と深雪が聞くと、「携帯は持ってないけどうちには電話あるよ、さすがに」と風音は笑う。
「それにパソコンも持ってる」と風音はメモ用紙にアドレスを書きながら付け加えた。
「はい」と書き終えたメモと新しい紙を一枚、深雪に渡す。
「深雪の連絡先も書いて」
深雪は数ある連絡先のうち、携帯電話の番号とメールアドレスを書いて風音に渡した。連絡先の交換といって紙に書いてやり取りしたのは初めてだ。新鮮だった。
「メールはだいたい夜しか見ないからさ。急ぐときは電話して」
「でも家にいないこともあるでしょ。写真撮ってたりとか、涼月にいたりとか」
「うん。でもそんなにすぐ連絡とらないといけないことなんてほとんどないでしょ」
「それは、そうかもしれないけどさ」
言われてみればそうかもしれないと深雪は思った。
「もし電話してきて家にいなかったら涼月に来てみたらいいんじゃない? 家にいなくて涼月にもいなければどっかを歩いてるわね」
深雪は笑った。受け取ったメモを見てすぐにスマートフォンに連絡先を登録し、風音だけを登録した特別なグループを作った。用の済んだメモ用紙も大切に財布の奥にしまった。風音は深雪から受け取ったメモを自分の部屋へ持って行った。
「さ、そろそろいいんじゃないかな」戻ってきた風音が言う。
「何が?」深雪が聞きかえすと、「ケーキに決まってるでしょ」と風音は呆れ気味に答えた。
風音はキッチンへ戻り、スポンジを型から取り出す。刃渡りの長い柳刃包丁でその真ん中あたりを水平方向に切る。ふわふわのスポンジをほとんど潰すことなく、すっ、と入っていく。見ているだけで惚れ惚れするような切れ味だった。
「ほんとはケーキスライサーがあるといいんだけどね」と言いながら風音は切り取った上半分を下半分から少し離して置いた。
「さ、クリームを塗る」と言ってへらを手に取り、スポンジの下半分に塗り始める。現像タンクを撹拌したときのように巧みに手首を返しながら側面を塗る。深雪が見とれていると「はい」と言って風音がへらを差し出す。深雪はそれを受け取って風音の続きをやってみる。どうも風音のようにはいかない。風音がすっと一塗りした距離の三分の一ぐらいの長さをぺたぺたと塗り直しながら進める。それを見ながら風音は一言「上出来」と言った。
スポンジの上面は側面よりも幾分塗りやすいような気がしたけれど、ぺたぺたやっているとへらに引っ張られて表面がぽつぽつととがってしまう。どうも見た目が良くない。風音はそれを見て「壁に漆喰を塗るのと同じ要領よ」と言う。漆喰よりもケーキのほうがまだ身近だと思うのは深雪だけではなかろう。
「見てて」と言って深雪からへらを受け取り、例のしなやかな手首で全体を撫でるように塗る。へらの通った後がこいのぼりの鱗のような模様になる。「ほら。壁みたいでしょ」
へらを置いて風音は冷蔵庫から苺を取り出す。作業台のようなまな板の上に小ぶりの苺を置き、包丁で巧みに切る。薄くスライスしたもの、半分に切ったもの、全く切らないものなどを小さなトレイに分けて乗せる。深雪は風音の繊細な指が器用にこなす動作のひとつひとつに惚れ惚れした。
風音はもっとも薄いいちごの乗ったトレイを深雪に差し出し、「これをその壁みたいな上に並べる」と言った。深雪は言われるまま、スライスされた苺を並べていく。「重なってもいいよ。たっぷり乗せよう」と風音が言う。
スライスした苺を敷き詰めた上にまたホイップクリームを敷き、その上にスポンジの上半分を乗せる。へらにたっぷりとクリームを取り、側面全体を覆うように塗る。これも半分ほどを風音がすーっと長いストロークで塗り、「はい」と渡されて受け継いだ深雪がぺたぺたと小刻みに残り半分を塗る。側面を塗り終えて風音にへらを返すと、風音は上面にクリームの山をぽてっと置き、「はい。壁塗り」と言って深雪にバトンタッチする。
深雪はさっきの風音の手つきを思い出しながら手首を柔らかく使い、引っかかったり途切れたりしながらも比較的滑らかに仕上げた。最後に一番上に大きめの苺を飾る。半分に切ったものと切らずにヘタを取っただけのものを並べる。
「完成」と残ったホイップクリームを舐めながら風音が言う。
それなりに良い出来栄えだった。大きな達成感があった。時計を見ると午後になっていた。
風音はキッチンの背面にある吊戸棚からケーキ用の箱を取り出し、ダイニングテーブルの上に広げた。
「そんな箱まで用意してあるの?」
「常に二個ぐらいはストックしてあるよ。そんなにしょっちゅう使うわけじゃないけど」
風音は箱を組み立てるとケーキをその箱のトレイに乗せた。ケーキ屋さんのような箱に乗せると粗削りな二人のケーキも立派に見えた。
「雰囲気出るでしょ」
箱にケーキを収めた風音は使った道具を流しに入れ、エプロンを外しながら「さ、お昼を食べがてらケーキを持って出かけよ」と言った。
「お昼はどこで食べるの? 涼月ってコーヒーしかないんでしょ?」
「うん、表向きは。でも頼めばホットサンドぐらい作ってくれるよ」
風音は友達の家にでも行くような口ぶりでそう言い、「ケーキ持参だしね」といたずらっぽく付け加えた。
玄関へ下りてコートを着ると、「あ、そうか。冬休みだからカメラないのか」と風音が言った。「ちょっと待って」と言って“幻像工房”ではない方の扉へ入っていく。深雪が追うと、その扉には“導具函”書かれていた。
「どうぐばこ」
深雪は声に出して読んだ。部屋の中から風音が「そう。道具のどうはほんとは道路の道だけどね。道具っていうのは導いてくれるものなんだって、お父さんが」と言った。
深雪は扉のところで立ち止まって部屋を覗き込んだ。その部屋は壁という壁がすべて作りつけの棚になっていて、風音は奥の棚からカメラを取り出しているところだった。手前の棚にはいろいろなタイプのラジコンカーやドローンなどが置かれ、近くには工具箱や部品箱のようなものがたくさんあった。深雪には正体のわからないものだらけだった。
棚の前にも大きめのプラスチックケースがあり、何かの基盤やケーブルなどが詰まっていた。部屋の奥の角では棚の前にギターやベースなどの楽器が並んでいる。写真部の部室よりもさらに濃密な空間に深雪は圧倒された。風音が立っているあたりの棚にはカメラが置かれているようだった。風音はその棚からカメラを二台取り出して戻ってきた。
「はい」
風音は二台持ってきたうちの大きい方を深雪に手渡す。学校で使っているものとは違うメーカーのカメラだった。
「メーカーが違うからちょっと操作が違うけど、APSサイズの一眼レフ。50ミリのマクロもあったよ。それ、冬休みの間貸してあげる」
「ほんとにいいの? これお父さんのでしょ」深雪は驚いて聞いた。
「お父さんのだけど深雪に貸すのは大丈夫だよ」
「ありがとう」
深雪がお礼を言うと、風音はもう一つ持っていた小さなカメラを見せながら「わたしは休み中これにする」と言った。
「それはなに?」
「これはミラーレス。これも同じAPSサイズのCCDだからだいたいそれと同じ感じ」
「それもお父さんのカメラ?」
「そう。ぜんぶお父さんのカメラだけどどれ使ってもいいことになってるの。ハッセルもお父さんのだったんだけど、わたしがあまりにも気に入って愛用してたからあれだけはわたしにくれたの」
二人はそれぞれカメラを首からかけ、ケーキは深雪が持って家を出た。
涼月は風音の家からは歩いて十分ぐらいだった。風音が重い扉を開くと風鈴が響く。深雪もすぐあとから続く。出てきた澤木に風音が「メリークリスマス」と挨拶した。澤木は風音と深雪の顔を見比べて「メリークリスマス。いらっしゃい」と言った。
風音はコートを脱いで壁のハンガーにかけ、カウンターの一番奥の席に座る。深雪はその隣の席にケーキの箱を置いてからコートを脱いだ。澤木はコーヒーを作り始めながら「ほらね、すっかり仲良くなった」と言った。
「ケンさん、何か食べるものありますか?」と風音は澤木の言葉をあえて素通りした。澤木は振り返って時計を見て「お昼か」とつぶやき、「何か作るよ」と続けた。「お昼を食べる間ケーキは冷蔵庫に入れておこうか」と澤木が言い、深雪はケーキの箱を渡した。
「メニューにないものも作ってくれるんですか?」と深雪が聞くと「うちはそもそもメニューすらないんだけどね」と言って澤木は冷蔵庫からレタスを取り出した。
「前にコーヒーしかないって言ってたから」
「うん。基本はそう。コーヒーしかない。でも今日はクリスマスで二人はケーキを持ってきてくれたからね。ぼくはサンドイッチでも作ろうかな」
澤木の言葉を受けて風音は人差し指を立て、「ギブアンドテイク」と言った。深雪はふきだした。
「で」と澤木は大きな中華鍋を取り出してベーコンを焼き始めながら言った。「Xを持ってきたのはどういう風の吹き回しかな」と風音に聞く。
風音は深雪の方を見て「Xってのはこのカメラのことね。フジのXシリーズ」と手にしたカメラを深雪に見せながら補足した。
「いつもはハッセルブラッドっていうおじさんしか持ってないようなカメラを持ち歩いてるんだよ」と澤木が深雪に説明する。
「はい。ハッセルは見せてもらいました」
「6×6じゃないのを撮るのは相当珍しいよね」澤木が言うと、風音はまた深雪の方を見て「ロクロクってのは六センチかける六センチのことね。ハッセルで撮る一コマのサイズ」と補足する。
「写甲に挑戦するのにハッセルってわけにいかないんですよ。規定があるから」と風音が言う。
「お、写甲やることにしたの? ほんとに?」
澤木は大げさに驚いて見せると深雪の方へかがみこんでわざとらしく小声になり、「どうやって説得したの? このカタブツを」と風音にも聞こえるように言った。
「いえ、友達になったら風音の方からやってくれるって言いだしたんです」
「おお。風音ちゃんを名前で呼ぶ友達ができたんだね」
澤木はベーコンを焼き終えた同じ中華鍋で今度は卵を炒めながら言った。風音は薄笑いを浮かべていた。
「ぼくはね、初めて深雪ちゃんに会ったときから、きっと深雪ちゃんなら風音ちゃんの親友になれるんじゃないかと思ってたよ。結局何が二人をつないだの?」
澤木は深雪に聞いた。
「たぶん…」深雪は言葉を探した。「単焦点です」
三人がそれぞれの顔を見回す間沈黙が降りたあと、三人とも笑い出した。
「そりゃあいい。単焦点がつないだ友情。いいね、映画になるよ」と澤木が言うと「なりませんよ」とすかさず風音が返した。また三人で笑った。
澤木は三人分のホットサンドを作り、それを三人で食べた。そのあと風音と深雪で作ったケーキを切り分け、澤木の淹れたコーヒーをおともにして三人で食べた。深雪にとってこれまでで一番すてきなクリスマスになった。
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