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第9話 「はやと」
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空が次第に分厚い雲に覆われ、突き刺すような音を立てて突然雨が降ってきた。
東京都のオフィス街近くのマンション。三十平米の広々としたワンルームは、ベッドソファと木のローテーブルが置かれ、その下に紺のカーペットが敷かれている。
パッと見、お洒落で清潔感のある部屋の中で一つ、異様な物がぶら下がっていた。
天井に無理やり突き刺した鴨居フックから太いロープが垂れている。そのロープを両手で掴み、スーツを纏った颯人は無機質な目で空を見つめながら、昨日見た夢のことを思い出していた。
***
一番印象に残っているのは瀬奈の泣き叫ぶ声だ。
物凄い大きな声で怒鳴り散らす背の高い大人。瀬奈の父親と思わしきその人は、娘をひっぱたいて、泣きじゃくって過呼吸になっている彼女の腕を引っ張ると、まるで誘拐するかの如く車に連れ込み、瞬く間に走り去ってしまった。
日向も渉も青もその様子を見て泣きだしてしまって、それぞれの親たちが迎えに来たときは、何かに怯えながら子供たちが泣き叫んでいるという阿鼻叫喚の光景が広がっていた。
そんな中、颯人だけはなんとか身体をがたがたと震わせても、呼吸を乱しても、必死にこの状況をどうすればいいか考えていた。
颯人は幼少期から周囲の大人に期待をかけられて生きてきた。家でも学校でも自分の立場と親や先生の意図を理解するのが上手で、言われればなんでもその通りにやってのけてしまえるほどの子供だった。
だから今回の事件で颯人は、みんなをまとめる仕事をしていた自分自身を責めた。
「ごめんなさい……ひっぐ、許して……! もうしませんからほんとうにごめんなさい!」
泣きながら謝り続ける瀬奈の声は颯人の頭の中で何度もループし、皆の泣きじゃくる声と叱る大人たちの声が冷静な思考を奪っていく。
もう渉と日向が親に連れられて帰っていたことにも気づかず、颯人は繰り返し自分を追い込むように責め立てた。
どうすれば許されるのだろう。どうすれば責任を取れるのだろう。どうすれば大人達の期待を裏切られずにいられるだろう。どうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすれば。
「お前のせいだよ青」
気が付けば颯人は青の頬を叩いていた。
勢いよく地面に尻もちをついた青は叩かれて赤くなった頬に手を当てて、涙を流しながら放心する。
「お前がこんなところに行こうなんて言わなければこんなことにはならなかったんだ」
冷たい目で青を見下ろしながら颯人は淡々と言葉を紡いでいく。自分自身を責めすぎておかしくなってしまった彼は、もう止まれなかった。
「お前が転校してこなければこんなことにはならなかったんだ。お前のせいで、瀬奈も渉も日向も親に怒られて、泣いて辛い思いをする羽目になったんだ」
颯人は願い事の書かれた紙を青の目の前でびりびりに引き裂いた。そのまま紙片は目の前に落ちていく。
「こんな願い事なんかしても意味はなかったんだ!」
青は颯人がそう言い終わると同時にさらに涙を流して叫んだ。息を吸う間もなく次々と溢れてくる涙、止まらない嗚咽。段々その嗚咽は過呼吸特有の呼吸音へと変わり青は苦しそうに胸元を抑える。
「……っあぐ」
「お前のせいだ………………全部! お前のせいだ!!」
「げっほ……ごほごほ……ひゅー……ひゅー……」
青が激しく咳をして、その直後地面に倒れた。青の祖母は血相を変えて青の身体を起こそうとする。しかし、いくら揺さぶっても彼の目が開かれることはなかった。
それを酷い耳鳴りの中、颯人はただ見ていた。
「青が転校することになりました」
夏休みが終わり、先生は朝のホームルームでそう告げた。
渉達は何故かわからないといった感じで、ただただ残念そうに悲しそうに肩を落とすばかりだった。
その数日後、颯人は偶然、青の両親と担任の先生が話していたことを聞いてしまった。
「今日、病院で息を引き取りました」
青は幼い頃から重めの喘息を患っていて、最近はだいぶ治ってきていたらしいが夏休みのあの日、再度発症し病院に緊急搬送されたらしい。
その後、学校は本人の意思で転校という形で退学。暫く入院と退院を繰り返していたが、今朝方、突然息を引き取ったという。
ショック。そんな言葉では語れないほどの衝撃が颯人を襲った。
青が死んだのは自分のせいだと当たり前のように痛感して、その思考がこびりついて離れなかった。
颯人は優等生で今まで失敗なんかしてこなかった自分が、人を殺してしまったという事実に耐えられなくなった。だから、彼は出来るだけ青のことを忘れようと努力した。これはまだ幼い颯人がとった精一杯の現実逃避だった。
一切、彼の話題を出さずに暮らしていれば、最初は毎日、青の話をしていた周りも案外話さなくなっていった。こうして、青という存在はどんどん忘れ去られていったのだ。
***
カーテンで閉め切った窓の外から鋭いクラクション音が聞こえて颯人は我に返った。
今一度、過去の自分がしたことを思い返してみれば、確かに最低なものだ。
ブラック企業から任される激務の数々、仕事をこなしてもこなしても終わらない地獄のような日々。おまけに完全に忘れていたはずの彼のことを突然思い出した友人達、そしてトラウマを抱えた過去を追体験するような夢。
そんなすべてがここ最近で積み重なりあって抱えきれないものになっていた。
そうして颯人の精神は燃え盛る芯の細い蝋のように危ういものとなる。
封をしてもう二度と開けないと誓った記憶が、いつの間にか誰かに無理やりこじ開けられた。それは様々なことが度重なった颯人に自死を決断させるきっかけには十分だった。
「渉達に謝る機会、失っちゃったな……」
体重がかかって途中で切れたりしないか、ロープの強度を確かめながら虚な目で呟く。彼の後悔は色々あるが、恐らくそれが崎川颯人として最期の心残りだったのだろう。
もう後は首にロープをかけて、今立っている椅子を蹴り飛ばすだけで楽になる事が出来る。恐怖心をいつも通り何処かへ仕舞った颯人は、朧げな意識でロープを首にかけた。
「ね、ねぇ本当にここで合ってるのかな!?」
「颯人の会社まで行って調べたのよ!? 合ってないと困るわ!」
「でもどうやって入るんだ!? 都内だしセキュリティとか厳重だろ!?」
渉達は颯人からの連絡を受けた後、大急ぎで新幹線に乗り東京までやってきた。幸い、颯人が働いていた会社は知っていたので、そこで彼の住所を聞き出したのだった。
颯人は先日会社を辞めたらしく、既に会社にいない人にプライバシーの保護は効かないから大丈夫だろうと笑いながら受付のおばさんが教えてくれた。緊急事態なため、今の渉達にとっては有り難かったが、これがもし平常時で何らかの危害を加えるために第三者が聞き出していたらと考えると、だいぶ管理がずさんな会社だ。
颯人が住んでいると教えられたマンションは都内の割と大きなマンションだった。つまりは容易に第三者が入り込むことが出来ないセキュリティが施されていると考えるのが妥当だろう。
「友達の命の危険があるかもしれないのに、セキュリティなんか気にしていられる!? 通報されようが扉をぶち壊していくまでよ!」
「やめろ! いつものお前らしくないぞ!」
「落ち着いて瀬奈ちゃん!」
本当に今にもセキュリティロック式の自動ドアを壊しそうな勢いの瀬奈に、慌てて日向と渉は止めにかかる。
エントランスがあまりにも騒がしいので様子を見に来たマンションの管理人と思わしき若めの女性は、二十歳ぐらいの人たちが修羅場のような光景を繰り広げているように見えて、もっと言えば二股をかけた男を殴りかかろうとする遊びの彼女とそれをなだめる今の彼女に見えて唖然とした。
「こんな所でなにやってるんですか!? 修羅場なら外で――」
「か、管理人さんですか!? 一大事なんです!」
「い、いい今、友達が死にそうで!」
声をかけるや否や食い気味にかかってくる渉達に、一瞬女性は後ずさった。しかしその後、二股とは明らかに関係なさそうな話題が聞こえて確かめるように問いかける。
「友達が……死にそう?」
渉達はその言葉に真剣な眼差しで深く頷いた。
椅子を蹴り飛ばそうとした途端、ガチャンと玄関の方から乱暴に鍵を開けたような物凄い音がして颯人は驚きのあまり椅子から転げ落ちた。部屋には大きな音が響き、勢いよく尻もちをついてしまった颯人は天井で揺れるロープを見上げた。
「(咄嗟にロープを首から離したのか……? 覚悟はあったはずなのに……)」
そんなことをぼんやり思っていると玄関の方からばたばたと複数人の足音がして、颯人は我に返る。
「颯人! 死ぬな!」
「颯人くん!」
「颯人!!」
部屋の扉を開けて飛び込んできたのは渉だ。その後にすぐ日向と瀬奈が入ってくる。
「……みんな……なんでここに……?」
掠れた声で颯人は三人を見上げた。久しぶりに見る顔は小学生の頃の面影を残していて、酷く懐かしく感じる。
「あんなメッセージが送られてきたら誰だって来るに決まってんだろ!?」
「私達のこと、友人を見捨てる薄情者だとでも思ってたわけ!?」
「みんな心配してきたんだよ! 薄情者なんかじゃないよ!」
一斉に答え始める三人に、颯人は口を開いて目を瞬かせた。
「颯人……、話してくれとは言わないけどさ」
渉は未だ、床から立ち上がろうとしない颯人に目線を合わせようとしゃがんで話す。瀬奈と日向はそれを静かに見守っていた。
「もっと早くに言って欲しかったな。……死にたいとか、辛いとか、お前思ってても言ったことなかったろ?」
優しい声で、悲しそうな表情で渉はそう言った。
「渉…………」
「そんなに完璧じゃなくても良いんだよ。逃げても良いんだ。逃げた先が悪いことばかりなんて……決まってることでもないしな」
へへっと人差し指で鼻を擦りながら、少年の様に照れ臭そうに笑う渉。それを聞いていた颯人の目には少しずつ光が宿っていく。
「そうね。流石、夢を諦めて逃げてきた奴の言うことは違うわ」
瀬奈の言葉は嫌味ったらしかったが悪気があって放ったものではない。
「……夢? 漫画家になる夢をやめたの……?」
ただその告白で心底驚いた颯人は、目を丸くしながら瀬奈と渉の顔を交互に見る。
「あーうん……色々あって、逃げちゃってさ……でも」
渉は日向や瀬奈の方を見上げて、一呼吸した。そして、今までのことを思い返す。
思えば、ここ最近で本当に沢山の事が渉を中心に起こっていった。夢への挫折から始まって、ズルズルと引きずって断ち切れないままだった未練は、瀬奈の暴露で泡になり、日向との関係も消えていく……かのように思えた。
でも蓋を開けてみれば実際は、今まで思っていたことをお互いぶつける事が出来たし、関係も、人生も、全てが灰燼となるわけでもなく、渉は新しい心持ちで生まれ変われたのだ。
「でも、俺の人生は終わらなかったよ! こんな俺でも変わらず接してくれた日向や瀬奈がいてくれたし……颯人にもまた会うことができた」
心底そう思ってるかのように、大事そうに、大切な宝物をそっと誇らしげに自慢するように、渉は笑った。
「…………」
それでも颯人は自分には分からないという面持ちで、まるで眩しい太陽を仰ぎ見て決して手が届かぬものを見るような眼差しで渉を見た。
「渉は逃げる勇気があったようだけれども、僕にはそんなもの無かったよ。僕には、そんな大層な考え方も出来ないし、本当の僕を知ったらきっとみんな幻滅する」
本当の僕――、それは青を死に追い込むほど罵倒を浴びせていたあの日の颯人。未だ閉じ込めていた醜い自分。
「颯人、勇気は人それぞれで良いのよ。だって、人によって得手不得手あるものでしょう?」
瀬奈は呆れた物言いの裏に優しさを孕んで、そっと寄り添うような口調で話す。
「苦手なことを習得する努力も必要だけれど、それはいつだって良いの。颯人、あんたにとって好きなこと、得意なことで生きていきなさい」
目に浮かんだ涙を取り繕わず瀬奈は、黒髪をかきあげながらそう言った。
「……でも、僕にはそんな、そんな言葉をかけて、貰える……価値、なんか……」
震えた颯人の声は途切れ途切れになり、上手く言いたいことを言えない様子だ。
「自分を卑下しないで……颯人くん。私もよくしちゃっていたけど、でも、それで良いことなんて何も無かったよ。それに例え颯人くんが自分に自信がなくたって、ここにいる皆はきっと颯人くんを誇らしく思っているよ」
日向がそう言い終えると、瀬奈と渉は力強く頷いた。
「……なん……か、ずるいよ……みんなして」
ぼろぼろと颯人の目から透明な水滴が流れてきて、声を抑えるようにして彼は泣いた。
「颯人」
「な……に?」
「今まで、沢山よく頑張ってきたよな……。もう休んでも大丈夫だ……お前は十分に俺たちの班長だったよ」
颯人の髪をわしゃわしゃしながら、にっと笑う渉。それをきっかけに、耐えきれなくなったのか颯人は声を上げて、子供のように泣きじゃくった。
それはあの日、皆が泣いている中で必死に泣かないよう我慢した分の、彼の子供の頃の分だったのかもしれない。
颯人が泣き止むまで、三人は何も言わずただただ見守り続けた。四人は再び、あの頃のように一緒になることが出来たのだ。
東京都のオフィス街近くのマンション。三十平米の広々としたワンルームは、ベッドソファと木のローテーブルが置かれ、その下に紺のカーペットが敷かれている。
パッと見、お洒落で清潔感のある部屋の中で一つ、異様な物がぶら下がっていた。
天井に無理やり突き刺した鴨居フックから太いロープが垂れている。そのロープを両手で掴み、スーツを纏った颯人は無機質な目で空を見つめながら、昨日見た夢のことを思い出していた。
***
一番印象に残っているのは瀬奈の泣き叫ぶ声だ。
物凄い大きな声で怒鳴り散らす背の高い大人。瀬奈の父親と思わしきその人は、娘をひっぱたいて、泣きじゃくって過呼吸になっている彼女の腕を引っ張ると、まるで誘拐するかの如く車に連れ込み、瞬く間に走り去ってしまった。
日向も渉も青もその様子を見て泣きだしてしまって、それぞれの親たちが迎えに来たときは、何かに怯えながら子供たちが泣き叫んでいるという阿鼻叫喚の光景が広がっていた。
そんな中、颯人だけはなんとか身体をがたがたと震わせても、呼吸を乱しても、必死にこの状況をどうすればいいか考えていた。
颯人は幼少期から周囲の大人に期待をかけられて生きてきた。家でも学校でも自分の立場と親や先生の意図を理解するのが上手で、言われればなんでもその通りにやってのけてしまえるほどの子供だった。
だから今回の事件で颯人は、みんなをまとめる仕事をしていた自分自身を責めた。
「ごめんなさい……ひっぐ、許して……! もうしませんからほんとうにごめんなさい!」
泣きながら謝り続ける瀬奈の声は颯人の頭の中で何度もループし、皆の泣きじゃくる声と叱る大人たちの声が冷静な思考を奪っていく。
もう渉と日向が親に連れられて帰っていたことにも気づかず、颯人は繰り返し自分を追い込むように責め立てた。
どうすれば許されるのだろう。どうすれば責任を取れるのだろう。どうすれば大人達の期待を裏切られずにいられるだろう。どうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすれば。
「お前のせいだよ青」
気が付けば颯人は青の頬を叩いていた。
勢いよく地面に尻もちをついた青は叩かれて赤くなった頬に手を当てて、涙を流しながら放心する。
「お前がこんなところに行こうなんて言わなければこんなことにはならなかったんだ」
冷たい目で青を見下ろしながら颯人は淡々と言葉を紡いでいく。自分自身を責めすぎておかしくなってしまった彼は、もう止まれなかった。
「お前が転校してこなければこんなことにはならなかったんだ。お前のせいで、瀬奈も渉も日向も親に怒られて、泣いて辛い思いをする羽目になったんだ」
颯人は願い事の書かれた紙を青の目の前でびりびりに引き裂いた。そのまま紙片は目の前に落ちていく。
「こんな願い事なんかしても意味はなかったんだ!」
青は颯人がそう言い終わると同時にさらに涙を流して叫んだ。息を吸う間もなく次々と溢れてくる涙、止まらない嗚咽。段々その嗚咽は過呼吸特有の呼吸音へと変わり青は苦しそうに胸元を抑える。
「……っあぐ」
「お前のせいだ………………全部! お前のせいだ!!」
「げっほ……ごほごほ……ひゅー……ひゅー……」
青が激しく咳をして、その直後地面に倒れた。青の祖母は血相を変えて青の身体を起こそうとする。しかし、いくら揺さぶっても彼の目が開かれることはなかった。
それを酷い耳鳴りの中、颯人はただ見ていた。
「青が転校することになりました」
夏休みが終わり、先生は朝のホームルームでそう告げた。
渉達は何故かわからないといった感じで、ただただ残念そうに悲しそうに肩を落とすばかりだった。
その数日後、颯人は偶然、青の両親と担任の先生が話していたことを聞いてしまった。
「今日、病院で息を引き取りました」
青は幼い頃から重めの喘息を患っていて、最近はだいぶ治ってきていたらしいが夏休みのあの日、再度発症し病院に緊急搬送されたらしい。
その後、学校は本人の意思で転校という形で退学。暫く入院と退院を繰り返していたが、今朝方、突然息を引き取ったという。
ショック。そんな言葉では語れないほどの衝撃が颯人を襲った。
青が死んだのは自分のせいだと当たり前のように痛感して、その思考がこびりついて離れなかった。
颯人は優等生で今まで失敗なんかしてこなかった自分が、人を殺してしまったという事実に耐えられなくなった。だから、彼は出来るだけ青のことを忘れようと努力した。これはまだ幼い颯人がとった精一杯の現実逃避だった。
一切、彼の話題を出さずに暮らしていれば、最初は毎日、青の話をしていた周りも案外話さなくなっていった。こうして、青という存在はどんどん忘れ去られていったのだ。
***
カーテンで閉め切った窓の外から鋭いクラクション音が聞こえて颯人は我に返った。
今一度、過去の自分がしたことを思い返してみれば、確かに最低なものだ。
ブラック企業から任される激務の数々、仕事をこなしてもこなしても終わらない地獄のような日々。おまけに完全に忘れていたはずの彼のことを突然思い出した友人達、そしてトラウマを抱えた過去を追体験するような夢。
そんなすべてがここ最近で積み重なりあって抱えきれないものになっていた。
そうして颯人の精神は燃え盛る芯の細い蝋のように危ういものとなる。
封をしてもう二度と開けないと誓った記憶が、いつの間にか誰かに無理やりこじ開けられた。それは様々なことが度重なった颯人に自死を決断させるきっかけには十分だった。
「渉達に謝る機会、失っちゃったな……」
体重がかかって途中で切れたりしないか、ロープの強度を確かめながら虚な目で呟く。彼の後悔は色々あるが、恐らくそれが崎川颯人として最期の心残りだったのだろう。
もう後は首にロープをかけて、今立っている椅子を蹴り飛ばすだけで楽になる事が出来る。恐怖心をいつも通り何処かへ仕舞った颯人は、朧げな意識でロープを首にかけた。
「ね、ねぇ本当にここで合ってるのかな!?」
「颯人の会社まで行って調べたのよ!? 合ってないと困るわ!」
「でもどうやって入るんだ!? 都内だしセキュリティとか厳重だろ!?」
渉達は颯人からの連絡を受けた後、大急ぎで新幹線に乗り東京までやってきた。幸い、颯人が働いていた会社は知っていたので、そこで彼の住所を聞き出したのだった。
颯人は先日会社を辞めたらしく、既に会社にいない人にプライバシーの保護は効かないから大丈夫だろうと笑いながら受付のおばさんが教えてくれた。緊急事態なため、今の渉達にとっては有り難かったが、これがもし平常時で何らかの危害を加えるために第三者が聞き出していたらと考えると、だいぶ管理がずさんな会社だ。
颯人が住んでいると教えられたマンションは都内の割と大きなマンションだった。つまりは容易に第三者が入り込むことが出来ないセキュリティが施されていると考えるのが妥当だろう。
「友達の命の危険があるかもしれないのに、セキュリティなんか気にしていられる!? 通報されようが扉をぶち壊していくまでよ!」
「やめろ! いつものお前らしくないぞ!」
「落ち着いて瀬奈ちゃん!」
本当に今にもセキュリティロック式の自動ドアを壊しそうな勢いの瀬奈に、慌てて日向と渉は止めにかかる。
エントランスがあまりにも騒がしいので様子を見に来たマンションの管理人と思わしき若めの女性は、二十歳ぐらいの人たちが修羅場のような光景を繰り広げているように見えて、もっと言えば二股をかけた男を殴りかかろうとする遊びの彼女とそれをなだめる今の彼女に見えて唖然とした。
「こんな所でなにやってるんですか!? 修羅場なら外で――」
「か、管理人さんですか!? 一大事なんです!」
「い、いい今、友達が死にそうで!」
声をかけるや否や食い気味にかかってくる渉達に、一瞬女性は後ずさった。しかしその後、二股とは明らかに関係なさそうな話題が聞こえて確かめるように問いかける。
「友達が……死にそう?」
渉達はその言葉に真剣な眼差しで深く頷いた。
椅子を蹴り飛ばそうとした途端、ガチャンと玄関の方から乱暴に鍵を開けたような物凄い音がして颯人は驚きのあまり椅子から転げ落ちた。部屋には大きな音が響き、勢いよく尻もちをついてしまった颯人は天井で揺れるロープを見上げた。
「(咄嗟にロープを首から離したのか……? 覚悟はあったはずなのに……)」
そんなことをぼんやり思っていると玄関の方からばたばたと複数人の足音がして、颯人は我に返る。
「颯人! 死ぬな!」
「颯人くん!」
「颯人!!」
部屋の扉を開けて飛び込んできたのは渉だ。その後にすぐ日向と瀬奈が入ってくる。
「……みんな……なんでここに……?」
掠れた声で颯人は三人を見上げた。久しぶりに見る顔は小学生の頃の面影を残していて、酷く懐かしく感じる。
「あんなメッセージが送られてきたら誰だって来るに決まってんだろ!?」
「私達のこと、友人を見捨てる薄情者だとでも思ってたわけ!?」
「みんな心配してきたんだよ! 薄情者なんかじゃないよ!」
一斉に答え始める三人に、颯人は口を開いて目を瞬かせた。
「颯人……、話してくれとは言わないけどさ」
渉は未だ、床から立ち上がろうとしない颯人に目線を合わせようとしゃがんで話す。瀬奈と日向はそれを静かに見守っていた。
「もっと早くに言って欲しかったな。……死にたいとか、辛いとか、お前思ってても言ったことなかったろ?」
優しい声で、悲しそうな表情で渉はそう言った。
「渉…………」
「そんなに完璧じゃなくても良いんだよ。逃げても良いんだ。逃げた先が悪いことばかりなんて……決まってることでもないしな」
へへっと人差し指で鼻を擦りながら、少年の様に照れ臭そうに笑う渉。それを聞いていた颯人の目には少しずつ光が宿っていく。
「そうね。流石、夢を諦めて逃げてきた奴の言うことは違うわ」
瀬奈の言葉は嫌味ったらしかったが悪気があって放ったものではない。
「……夢? 漫画家になる夢をやめたの……?」
ただその告白で心底驚いた颯人は、目を丸くしながら瀬奈と渉の顔を交互に見る。
「あーうん……色々あって、逃げちゃってさ……でも」
渉は日向や瀬奈の方を見上げて、一呼吸した。そして、今までのことを思い返す。
思えば、ここ最近で本当に沢山の事が渉を中心に起こっていった。夢への挫折から始まって、ズルズルと引きずって断ち切れないままだった未練は、瀬奈の暴露で泡になり、日向との関係も消えていく……かのように思えた。
でも蓋を開けてみれば実際は、今まで思っていたことをお互いぶつける事が出来たし、関係も、人生も、全てが灰燼となるわけでもなく、渉は新しい心持ちで生まれ変われたのだ。
「でも、俺の人生は終わらなかったよ! こんな俺でも変わらず接してくれた日向や瀬奈がいてくれたし……颯人にもまた会うことができた」
心底そう思ってるかのように、大事そうに、大切な宝物をそっと誇らしげに自慢するように、渉は笑った。
「…………」
それでも颯人は自分には分からないという面持ちで、まるで眩しい太陽を仰ぎ見て決して手が届かぬものを見るような眼差しで渉を見た。
「渉は逃げる勇気があったようだけれども、僕にはそんなもの無かったよ。僕には、そんな大層な考え方も出来ないし、本当の僕を知ったらきっとみんな幻滅する」
本当の僕――、それは青を死に追い込むほど罵倒を浴びせていたあの日の颯人。未だ閉じ込めていた醜い自分。
「颯人、勇気は人それぞれで良いのよ。だって、人によって得手不得手あるものでしょう?」
瀬奈は呆れた物言いの裏に優しさを孕んで、そっと寄り添うような口調で話す。
「苦手なことを習得する努力も必要だけれど、それはいつだって良いの。颯人、あんたにとって好きなこと、得意なことで生きていきなさい」
目に浮かんだ涙を取り繕わず瀬奈は、黒髪をかきあげながらそう言った。
「……でも、僕にはそんな、そんな言葉をかけて、貰える……価値、なんか……」
震えた颯人の声は途切れ途切れになり、上手く言いたいことを言えない様子だ。
「自分を卑下しないで……颯人くん。私もよくしちゃっていたけど、でも、それで良いことなんて何も無かったよ。それに例え颯人くんが自分に自信がなくたって、ここにいる皆はきっと颯人くんを誇らしく思っているよ」
日向がそう言い終えると、瀬奈と渉は力強く頷いた。
「……なん……か、ずるいよ……みんなして」
ぼろぼろと颯人の目から透明な水滴が流れてきて、声を抑えるようにして彼は泣いた。
「颯人」
「な……に?」
「今まで、沢山よく頑張ってきたよな……。もう休んでも大丈夫だ……お前は十分に俺たちの班長だったよ」
颯人の髪をわしゃわしゃしながら、にっと笑う渉。それをきっかけに、耐えきれなくなったのか颯人は声を上げて、子供のように泣きじゃくった。
それはあの日、皆が泣いている中で必死に泣かないよう我慢した分の、彼の子供の頃の分だったのかもしれない。
颯人が泣き止むまで、三人は何も言わずただただ見守り続けた。四人は再び、あの頃のように一緒になることが出来たのだ。
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