夏の青さに

詩葉

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第1話「わたる」

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 忙しなく聞こえる蝉の声。
 じりじりと照り付ける太陽。
 走り出す靴音。
 
 忘れていたあの日の記憶が、閉じ込めていた想いが、思い出される――。



     

 
 八月一日。
 夏真っただ中、昼間にも関わらずカーテンを閉め切った薄暗い室内には壊れかけのクーラー音が忙しなく音を立てている。
 ワンルームの部屋には衣服や書類が乱雑に置かれた足の踏み場もない床に、小さめな一人専用のテーブルと座椅子、やや大きめのベッドだけがあり、その木でできたベッドの上で寝転がっている人間が一人。
 寄れてしわくちゃになった灰色の半そでパーカーに同じ色のスウェット、だらしない寝間着姿で横になりながら夢中になってスマートフォンを操作している彼の名前は湯川ゆかわわたる。今年、地元の宮城を離れて東京の専門学校に晴れて入学を果たした十九歳の男である。
 彼は幼少期からの夢だった漫画家という職に就くため、その専門知識を身に着け、あわよくばプロへの道を歩めるかもしれないと思い、こんな日本の大都会まではるばる来たがその苦労はつい最近無駄になった。
 今日は水曜日。平日の真昼間に堂々と自室で寝転がりながら電子端末をいじっているのは、彼の専門学校が本日休校だからというわけではない。現に今日、他の学校なら夏休みに入っている時期にも関わらず朝早くから電車に乗り、渉のクラスメイト達は勉学にいそしんでいる。では何故、病に伏しているわけでもないのに彼は怠惰な態度をとっているのだろうか。
 事は一週間前に遡る。
「なんかもう無理な気がする」
 そんなふわっとした言葉を吐いて、彼は専門学校を自主的に退学した。決断から決行までわずか数分という速さである。その行動力をもっと他のことに活かせることが出来たら良かったのだが、彼が選んだのはこちらの未来だった。
 しかし後悔していないわけではないらしく、時々、無為に過ごす時間が苦しくなり情けなく泣いてしまう時も無いわけではない。が、一度寝て起きるとやってしまったのは仕方ないと開き直り結局、今日も新聞配達のアルバイトをしてスマートフォンを見て生きていく生活を送っている。
 部屋に散らかった学校の書類や授業で使う画材は今や死んだかのように何も言わず渉をじっと見つめていた。
 昔から絵を描くことが大好きで、周りの人にもそれなりに評価をされていた渉は小学校や中学校を経ても変わらず絵が大好きだった。しかし、高校に入ると途端に、知らない人間との出会いが増え、その中には渉よりも絵の技術や表現のセンスが上の人間がいた。
 自分が井の中の蛙だったと知ったのはそれが初めてで、それでも渉は漫画家になることを諦めようとはしなかった。何故なら、彼は小学校の頃から周りに絶対に漫画家になると言い続けて生きてきたのだから。
 半分、見栄のようなもので東京の有名な専門学校に入ると、そこには高校の時とは比べ物にならないくらいの化け物のような人間が沢山いた。渉の削れて細くなってしまった心の芯がぽっきりとそこで折れたのだ。
 専門学校を辞めても地元に帰ろうとしないのは、あれだけ絶対になると言っておいて一年ほどで諦めた情けない自分を誰にも見せたくなかったからである。だから、学校をやめたことは地元の友達にも親にも言ってはいない。これでしばらくは何も言われずに済むが、その代わりにいずれはバレてしまうという恐怖が新たに渉に付きまとい始めた。
 こうして現実逃避にネットサーフィンを繰り返す渉は、もう戻れないところまで来ていた。
「もっといいバイト探さないとなぁ…………」
 ぼやくようにそう呟いた渉はスマートフォンの画面に指を滑らせながら【東京 アルバイト 楽なの】と検索窓に打ち込んだ。窓の右側についている虫眼鏡のマークをタップすると何百件もの項目が出てくる。
【超簡単 商品の梱包配達をして日給一万円!】
【日雇い 会場設営バイト】
【広告を見るだけで一時間二千円】
 しかし、どれだけ画面をスワイプして流れてくる文字に真摯に向かい合おうとも、どれも怪しさ満点のものや気に入らないものばかりで、今日も新しい収入源は得られそうになかった。
 そうこうしているうちに、時計の短針は数字二つ分進んでいた。カーテンで閉め切られた部屋は、本格的に暗くなり始め、もう直ぐ夜が訪れることを感じさせる。
「はぁ、飯買いに行くか」
 今夜食べるものが底を尽いていたことを思い出した渉は、なけなしのお金が入ったほつれのある長財布を持ち、気怠そうに足の踏み場もない床を超えて玄関を出た。扉に鍵をかけるとガチャッと小気味良い音が響く。外は沈みかけの夕日が、赤々といわし雲の浮かぶ空を照らしており、吹いてくる風は生温く夏の気配がした。
 渉が一人暮らしをしているアパートは三階建てで、建物自体が少し高い丘の上に建っているため、都会の街並みと広がる空がよく見える。しかし一人暮らしを始めた当時、気に入っていたこの景色も今や見慣れてしまっていて、とうの渉はなんの関心も示さなくなっていた。
 錆が少し貼り付いた外付けの階段を降りていくと、ふわりと美味しそうなカレーの香りがして渉は振り向いた。おそらく何処かの部屋で誰かが夕飯を作っているのだろう。
「今日はカレーにしようかな」
 特に何を食べるか決めていなかったのもあり、渉はそう呟きながら階段を下まで降りて行った。
 夕食はいつも歩いて一、二分ほどしか要さないほど近くにあるコンビニで買っている。アパートのある丘に備え付けられた短い階段を下り、住宅街に挟まれた人が一人通れるくらいの小道を進む。道の脇にある家はだんだんと明かりがついていき、きゃっきゃと声を上げる子供やそれを優しく注意する母親の声。犬の吠えた声や父親と思わしき男の人の「ただいまー」の声。
 それはとても幸せにあふれた日常を具現化したようなものだった。
 もう半年。宮城から出てもう半年が経っているが渉はその間、一度も家に帰ったりはしていない。帰る時間がないほど学校の授業数が多く、バイトも学費や生活費を稼ぐため、ほぼ毎日働いていたからである。世間では夏休みだというのに渉の学校は完全に休みにならないあたり、流石の有名校と言ったところだろうか。
 せっかく自分の時間ができたというのに地元に帰ることが出来ない渉は、住宅街にある一つ一つの家庭を思い浮かべては羨ましいなと思った。
 そんなことを思いつつも歩き続けて、ようやっと渉は住宅街の小道を出て少し大きめの道路に出た。ここを右に曲がれば二つ建物を超えた先に、いつも通っているコンビニエンスストアがある。車通りも滅多にない道路だが、真ん中を堂々と歩くやつはいない。渉は端の方を歩きながら煌々と明かりを放つ建物に着いた。
 案の定、入り口の蛍光灯には蛾といった羽虫たちが群がっており、嫌でもそこを通らなけばならない。
 虫という虫がこの世から三番目くらいには嫌いな渉は、冷や汗を地味にたらしながら店内へ入っていく。
「ひぃっ!?」
 通ろうとした瞬間、着ているパーカーのフードに何かが入った気がして入り口で奇声を上げてしまった。当然、周りいたお客さんや店内にいる店員は、突然声を上げた渉に驚き目を丸くしている。それもそのはずだが当の本人はそれどころではなく、ばさばさとフードを忙しなく裏にしたり表にしたりしてその何かを逃がそうとしていた。
「……あれ?」
 しかし何回かそれを繰り返してみても虫の足一本、羽の一欠けらもなくフードは何も変わった様子がないことに気付く。
 結局は、コンビニの入り口で突然奇声を上げて、おかしな行動をしていた人としか思われなかった渉は恥ずかしいという気持ちを顔面に表わしながら店内にようやく入っていった。
 店内は渉の身長より少し高めの棚が整列しており、相変わらず選り取り見取りという感じで、ここへ来れば大抵のものは揃えられるのではないかと思うほど種類の多い商品が所狭しと陳列していた。購買意欲を大いにそそるパッケージの誘惑に負けそうになりながら、渉は先ほど決めた今晩の夕食、カレーを探すため完成された料理が並んでいる場所へ向かう。
 夕飯時で残っている商品は多くなかったが、お目当ての商品が一つだけ残っていた。おふくろの懐かしいカレーライス。そうパッケージに書かれた商品を手に取り、適当に飲み物をとってレジカウンターへと進む。カウンター傍にあるお菓子たちがこちらに視線を注げてくるのに耐えられず、結果的に渉がカウンターの上に出したのはカレーライスとエナジードリンク、ポテトチップスの三つだ。
「温めますか?」
「あ、お願いします……」
 先ほどのことを引きずり、羞恥心を残した表情で渉は答える。
 カレーライスがレジ後ろにある電子レンジに入れられ温められている間、レジに表示された金額を見ながら渉は長財布からお金を取り出していく。いかんせん所持金が心もとなく、小銭だらけだった渉が出したお金はほとんど十円や一円といったもので、それを出すのも数えるのも時間がいる。
 総額ピッタリのお金を受け取り終え、レシートを渡した二十代くらいの若めの男性店員は電子レンジからカレーを取り出し、透明な包装紙に包まれたプラスチック製のスプーンとおしぼりを一緒に袋に入れて渉に手渡した。
「ありがとうございましたー」
 淡々とした口調でそう告げる店員に、ぺこりと会釈し渉は店の出口へと向かった。ウィーンと音を立てて両開きに開かれるドア。頭上には日が落ちて外が暗くなったことにより増えた羽虫たちが狂気乱舞している。
 そこを急いで通り抜け、コンビニの敷地内も出て住宅街の通りに出た。
 空はだいぶ暗くなっていて、どこからかヒグラシの鳴く声が聞こえる。道路脇に直立している電灯の明かりがついて、街は夜を迎える準備を始めていた。
「はぁ……明日にはバイト見つけないとなぁ……」
 そう独り言を呟きながら来た道を戻っていく。温められたカレーライスから漂ってくる食欲を誘う匂いに渉の腹がなんの抵抗もなく住宅街に鳴った。

 翌日。
 あいも変わらず清潔という文字が一切みられない部屋の中、ベッドで昼過ぎまで眠りこけている渉の耳元に軽快な音が届いた。その音は渉が隣に置いたスマホから鳴ったらしく、誰も触れていないのに画面にはメッセージがポップアップされている。
 被った薄地の布団の中でもぞもぞと動いて呻きながら、渉は目を瞑ったままスマホに手を伸ばす。
「まじかよ……」
 寝起きで開いているのか閉じているのかよく分からない目が急に見開いた。渉が右手で握りしめているスマホには、とあるグループへの招待を知らせるメッセージが浮かんでいる。
【第五十一期卒業生同窓会】と書かれたそのグループには、渉が小学六年生の頃に同級生だった面子が綺麗に名前を連ねていて、懐かしさと共に若干の後ろめたさを感じた。あの頃は毎日、好きなことをしていて、友達のみならず先生や親といった多くの人たちに自分の絵を見てもらっていた時期だ。
 クラスの中でも割と中心的な位置だった渉は、恐らくほとんど全員に『絵を描いていた人』として覚えられているだろう。
 同級生の一人、もう名前も覚えていない子が渉に「漫画家になろうよ!」と言葉を投げかけてきたのがきっかけで、漠然と漫画家になりたいと思いだしたのもその頃だった。
 だからこそ一番、将来の希望もあったし夢を絶対叶えられると思っていたから、誰に聞かれても絶対漫画家になるとしか答えていなかったのだ。
 今やそんな希望に満ちたあの頃の渉は見る影もない。彼は当然のように同窓会グループの招待をキャンセルする項目をタップした。
日向ひなたには悪いことしたかな……」
 同窓会グループがシュポッと音を立ててグループ欄から消えていくのを見ながら静かに呟く。
 彼の言う日向という人物は、先ほど渉に同窓会グループへ招待してくれた女の子であり、言わずもがな渉の同級生である。彼女は小中高すべてが渉と同じ学校で、今でも時たまに連絡しあうような仲だった。
『日向ごめん同窓会は学校とバイト忙しくて行けないや』
 一番付き合いが長くて仲が良い日向にすら渉は嘘を吐いた。罪悪感がそういった嘘を吐くたび、自堕落な生活を送る度に押し寄せてくるのだ。
 どうしようもないと諦めた自分自身に呆れて、渉はため息を吐いた。

 八月三日。
 自室で脱ぎ散らかした服の上に座り、もはや物置場としての機能しか果たしていないミニテーブルの上に置かれたカップ麺を啜る午前十時。渉はいつものようにスマホで楽なバイト先を探していた。
「やっぱ世の中甘くねぇよなぁ……」
 ぼやきながら画面をスワイプしていく手は慣れたもので、ろくに画面を見ずにどんどん上へと文字が流れていく。
「検索の仕方変えたらいいのあるかな」
 そう言って渉は一気に指を滑らせて検索窓が表示される上部まで戻って来た。そうしてもっと条件に合いそうな言葉を選びながら文字を打ち込んでいく。
【東京 バイト 給料が高くて楽なの】
 本気でお金を稼ごうとする気のなさそうな文章が出来上がった。そしてなんの迷いもなく虫眼鏡のマークをタップしようと渉は画面を押す。
 しかし、押した瞬間表示されたのは検索結果先の項目ではない、文章と文章が交互に表示された画面。これはメッセージアプリの画面だと咄嗟に気づいた渉は、今起こったことについて一瞬で理解した。
 どうやら虫眼鏡のマークを押そうとした瞬間に誰かからメッセージが来て、その通知を誤ってタップしてしまったらしい。
「やべ、既読つけちまった……」
 いつも内容を確認してからトーク画面を開く癖がついている渉は、いきなり内容を確認せずに見たことを記す『既読』をつけてしまったことを悔やんだ。既読というのは相手にも伝わるため、早く返信をしないといけないという謎の焦燥感に陥る。
 とりあえず内容を確認しながら返信しようと試みかけて、渉の手が止まった。
『今からそっちに行くね』
 トーク画面の最新メッセージにはそう書いてある。
 そのメッセージを送ったのは、昨日、渉を同窓会グループに招待してくれたいずみ日向ひなただった。
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