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翌日――
大き目なマスクをした百合亜は、診療時間終了間際に鹿島医院に訪れた。
「ごほごほごほ、ああ、苦しい。咳が止まりませんわ」
待合室で少々わざとらしく咳き込んでいた彼女は、患者がまばらだったため、待ち時間ほとんどなしに名を呼ばれた。
「久しぶりだね、百合亜ちゃん。最近はちっとも姿を見せないから、どうしてるのかと思ったよ」
診察室に入ると、鹿島は人の好さそうな笑みを浮かべ、椅子に腰かけるように促した。
「え、ええ……このところ、病気をすることが減りましたから……その……でも、今日は……咳が止まらなくって……ごほごほごほっ」
「なるほど、ちょっと喉を診てみようか」
百合亜は戸惑いつつ、マスクを外し、口を開けた。
――本格的に診療されようものなら、仮病がバレてしまうわ……。
「ん~~、扁桃腺は腫れてないみたいで……風邪じゃなさそうだな。胸を見て……」
――ひいいい、仮病でそれは……勘弁だわ……。
「そのっ……実は……恋の病みたいで……」
本当の診療ならともかく、上半身のみでも裸を見せることに抵抗があった百合亜は、顔を赤らめはにかんで見せた。
「なんだい? それは最近の流行りなのかな? 以前も似たような悩みを持つ患者さんがいらしてね、医師には恋の病を治す手立てはないって……」
「実は……わたし、以前から先生のことを……」
潤んだ瞳で見つめられ、鹿島は唖然とした表情になった。
「え……」
「ず、ずっとお慕い申しておりました……」
「そう……なのかい?」
「ああ、お恥ずかしいですわ。こんなこと、申し上げるつもりはありませんでしたのに」
頬に手を当て、恥ずかしそうに目を伏せた。
――思わず乗ってしまったけど、ジョセフさん、おかしな作戦を立てないで欲しかった……。
だが、相手の表情が緩むのを目の当たりにしたことで、相手の油断を誘うことには成功したのではないかと思った。
「ところで、鹿島先生は色んな患者さんのご病気を治すお薬を開発されているという噂をお聞きしまして……」
「え……? どうしたの、誰に聞いたんだい?」
あくまで笑顔を崩さず、かつ不思議そうな表情で鹿島が訊いた。
「あ、いえ……そんな……風なお話を。不治の病も治療されている、とか……ご、ごりっぱだと思いまして」
「――華族の命を預かる、大事な仕事をしていると自負しているよ?」
笑顔――笑顔を浮かべているのだが、なぜだかそこにぞくりとするものを感じ、百合亜は息を呑んだ。
「華族の……ですか? 多くの庶民の方々も救っておられるのでは?」
「百合亜ちゃん、華族と庶民の命が等しいわけではないというのは分かっているね?」
「え……」
百合亜の表情が曇る。
同意を求められたそれは、正しくはない。
父も母も華族の生まれではあるが、庶民も大切な国民であり、互いに支え合って生きているという教えを受けて育った。
教養には富みが比例していることで、あたかも華族が高等な存在のように振る舞っているが、能力・素質については平等であると。
命の重さ、尊さに違いはない。
世の中、鹿島のような考えの者が多数を占めることは知っているが――
「だからね――僕が庶民を救うことも当然あるけど、それは華族を救うためのステップアップに過ぎないわけなんだ」
「……おっしゃる意味が……」
鹿島が短く嘆息した。
「そうだな。たとえば書を揮毫としようしたときに、下書きをするよね。いきなり画仙紙には書かない。僕はまず、古新聞を使う」
書道の筆に見立てたように、鹿島は万年筆を握った手で空に『華』という文字を書き記した。
「―――」
「つまり、清書するためには練習が必要で――古新聞は庶民で清書用の半紙は華族。分かるかな?」
鹿島の表情から笑みが消え、百合亜は得体の知れない恐怖心に見舞われた。
「ただね、その古新聞の書が額に入れたいほど存外にいい出来になることもあれば、失敗してゴミになることもある。それもまあ――運と言えるのかな? 出来がよければ結果的に庶民を救うことにもつながるといえばそうだよね。ただ、元々古新聞だから、それは作品とはいえない……よく言ってもせいぜい試作品だけど」
「わたしは――」
「君だって演奏家だ。庶民に聴かせるよりも、華族の客を前に演奏する機会を得た方が、価値があると思えないか?」
汗が滴る。
――何……気分が悪い……。
演奏は――多くの人に聴いてもらいたい。
そこから、何か感じてくれるものがあれば、誰にでも……。
百合亜は華族であれ庶民であれ、自分の演奏に感銘を受けてくれる人に尊さを感じてしまう。
そこに身分は関係ないと思っていた。
「……まあでも、そんな話はいいか。先ほど、僕に気があると言ったね。君のような麗しい女性に想ってもらえるなんて光栄だ」
百合亜は頬を撫でられ、悪寒が走った。
――あああ……と、と、鳥肌が……! ジョセフさん、どれくらい時間を稼がばよろしいの????
大き目なマスクをした百合亜は、診療時間終了間際に鹿島医院に訪れた。
「ごほごほごほ、ああ、苦しい。咳が止まりませんわ」
待合室で少々わざとらしく咳き込んでいた彼女は、患者がまばらだったため、待ち時間ほとんどなしに名を呼ばれた。
「久しぶりだね、百合亜ちゃん。最近はちっとも姿を見せないから、どうしてるのかと思ったよ」
診察室に入ると、鹿島は人の好さそうな笑みを浮かべ、椅子に腰かけるように促した。
「え、ええ……このところ、病気をすることが減りましたから……その……でも、今日は……咳が止まらなくって……ごほごほごほっ」
「なるほど、ちょっと喉を診てみようか」
百合亜は戸惑いつつ、マスクを外し、口を開けた。
――本格的に診療されようものなら、仮病がバレてしまうわ……。
「ん~~、扁桃腺は腫れてないみたいで……風邪じゃなさそうだな。胸を見て……」
――ひいいい、仮病でそれは……勘弁だわ……。
「そのっ……実は……恋の病みたいで……」
本当の診療ならともかく、上半身のみでも裸を見せることに抵抗があった百合亜は、顔を赤らめはにかんで見せた。
「なんだい? それは最近の流行りなのかな? 以前も似たような悩みを持つ患者さんがいらしてね、医師には恋の病を治す手立てはないって……」
「実は……わたし、以前から先生のことを……」
潤んだ瞳で見つめられ、鹿島は唖然とした表情になった。
「え……」
「ず、ずっとお慕い申しておりました……」
「そう……なのかい?」
「ああ、お恥ずかしいですわ。こんなこと、申し上げるつもりはありませんでしたのに」
頬に手を当て、恥ずかしそうに目を伏せた。
――思わず乗ってしまったけど、ジョセフさん、おかしな作戦を立てないで欲しかった……。
だが、相手の表情が緩むのを目の当たりにしたことで、相手の油断を誘うことには成功したのではないかと思った。
「ところで、鹿島先生は色んな患者さんのご病気を治すお薬を開発されているという噂をお聞きしまして……」
「え……? どうしたの、誰に聞いたんだい?」
あくまで笑顔を崩さず、かつ不思議そうな表情で鹿島が訊いた。
「あ、いえ……そんな……風なお話を。不治の病も治療されている、とか……ご、ごりっぱだと思いまして」
「――華族の命を預かる、大事な仕事をしていると自負しているよ?」
笑顔――笑顔を浮かべているのだが、なぜだかそこにぞくりとするものを感じ、百合亜は息を呑んだ。
「華族の……ですか? 多くの庶民の方々も救っておられるのでは?」
「百合亜ちゃん、華族と庶民の命が等しいわけではないというのは分かっているね?」
「え……」
百合亜の表情が曇る。
同意を求められたそれは、正しくはない。
父も母も華族の生まれではあるが、庶民も大切な国民であり、互いに支え合って生きているという教えを受けて育った。
教養には富みが比例していることで、あたかも華族が高等な存在のように振る舞っているが、能力・素質については平等であると。
命の重さ、尊さに違いはない。
世の中、鹿島のような考えの者が多数を占めることは知っているが――
「だからね――僕が庶民を救うことも当然あるけど、それは華族を救うためのステップアップに過ぎないわけなんだ」
「……おっしゃる意味が……」
鹿島が短く嘆息した。
「そうだな。たとえば書を揮毫としようしたときに、下書きをするよね。いきなり画仙紙には書かない。僕はまず、古新聞を使う」
書道の筆に見立てたように、鹿島は万年筆を握った手で空に『華』という文字を書き記した。
「―――」
「つまり、清書するためには練習が必要で――古新聞は庶民で清書用の半紙は華族。分かるかな?」
鹿島の表情から笑みが消え、百合亜は得体の知れない恐怖心に見舞われた。
「ただね、その古新聞の書が額に入れたいほど存外にいい出来になることもあれば、失敗してゴミになることもある。それもまあ――運と言えるのかな? 出来がよければ結果的に庶民を救うことにもつながるといえばそうだよね。ただ、元々古新聞だから、それは作品とはいえない……よく言ってもせいぜい試作品だけど」
「わたしは――」
「君だって演奏家だ。庶民に聴かせるよりも、華族の客を前に演奏する機会を得た方が、価値があると思えないか?」
汗が滴る。
――何……気分が悪い……。
演奏は――多くの人に聴いてもらいたい。
そこから、何か感じてくれるものがあれば、誰にでも……。
百合亜は華族であれ庶民であれ、自分の演奏に感銘を受けてくれる人に尊さを感じてしまう。
そこに身分は関係ないと思っていた。
「……まあでも、そんな話はいいか。先ほど、僕に気があると言ったね。君のような麗しい女性に想ってもらえるなんて光栄だ」
百合亜は頬を撫でられ、悪寒が走った。
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