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8章 真実を知る時
2 珈琲
しおりを挟む「うわ……これ絶対苦いやつだって……」
小さなカップに入ったこげ茶色の飲み物がレネの目の前へと置かれる。
レネは最近メストで流行っている珈琲というこげ茶色の飲み物が苦手だった。
珈琲は元々ポーストの飲み物で、近年になりポーストとの交易が盛んになることで流通量が増え、安い値段になり庶民にまで手が届く飲み物となった。
だがやはり珈琲専門店ともなれば、客は貴族や金持ちの商人が多い。
一般市民は外の席しか座れず、店内には金持ちしか入れないよう棲み分けされていた。
レネたちも店に着くとすぐに外の席へと案内される。
王国劇場のあるドゥーホ川沿いのこの通りは、カフェや雑貨屋が並ぶ洒落た通りだ。
王族や貴族たちの暮らす中島も近いとあって、どこも一般市民が背伸びして行くような高級店ばかり。
なぜレネがそんな店に来ているかというと、目の前の男に連れて来られたからだ。
「まずその砂糖を入れて掻き混ぜろ」
言われた通りに褐色の角砂糖を瓶からスプーンで掬ってポトンとカップの中に落とす。
焦げ茶色の液体と同じ色の肌をした男は、レネには砂糖を入れろと言っていたのに、自分のカップには入れない。
ゼラは、香りを楽しむために鼻の近くにカップを持っていき、目を瞑ってゆっくりと口に運んだ。
その動作はとてもさまになっている。
「溶けたか?」
子供の勉強でも見る親のように、レネのカップを上から覗き込む。
「たぶん」
「飲んでみろ」
レネは恐る恐ると薄紅色の唇をカップへとつけた。
「うわぁ……あれだ……チョコレートみたいな味がする」
想像していたのとは全く違う風味に、目を見開いた。
その顔を見て、ゼラは群青色の瞳を満足したように細める。
「ここはな、店で生豆を焙煎している。以前お前が飲んだのは酸化して苦みと酸味しかない安物の不味い珈琲だ。どうだ、これも不味くて飲めないか?」
真剣な顔で訊かれ、レネは首をぶんぶんと横に振る。
私邸の玄関横にある娯楽室で、フォルスと食事へ行った時に飲んだ珈琲について『あんなもの金を払ってまで飲む物じゃない』と散々文句を言っていたら、自国の飲み物を非難されたゼラがなにか思い悩むようにじっと考え込んでいた。
そして非番の今日、ゼラから手を引かれるまま、この店に連れて来られたのだ。
「同じものだとは思えないくらい美味い! 下に砂糖がじゃりじゃり溜まってる所なんか菓子食ってるみてえ!」
飲むたびに少しずつ味を変える不思議な飲み物に、レネはすっかり夢中になっていた。
「なあ、ゼラもポーストにいた時は、珈琲を毎日飲んでたのか?」
「ああ。朝昼晩、欠かさず飲んでいたな」
懐かしそうに、ゼラが口元を緩めた。
この男がそんな表情を見せるのは珍しい。
故郷にはあまり未練がないものとばかり思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。
「……お茶みたいなもんか。でもポーストは砂漠の国だろ? 砂漠に珈琲の実なんてなるの?」
ふと、レネの中に疑問が湧き起こる。
「誤解されがちだが、ポーストは砂漠ばかりじゃない。東部にはギナア高地という高原があって緑豊かだ。そこで珈琲が育てられている」
「へえ~高原があるんだ。砂漠しかないと思ってた……」
なんか意外だ。
むかし読んだ本にも、ポーストは砂漠の国でラクダとナツメヤシしかないと書いてあった。
「海に囲まれているから漁業も盛んだ」
「じゃあ魚美味いの?」
「ドロステアにはいない大きな魚もいる。人間よりでかい」
「……そんなデカいのがいるのか? でもそんな魚……大味で美味くはないだろ……」
「オリーブオイルでソテーしてレモンの塩漬けと一緒に食べると美味い」
「あああっ……そんなこと言うと口の中に唾が湧いてくるじゃんっ! オレもオレクみたいに引退したら、ポーストに魚食べに行くッ!! その時はゼラが案内しろよ」
ゼラはほんの一瞬だけ目を瞠ると、レネの言葉を噛み締めるようにじんわりと表情を崩していった。
その顔は、まだ一度も見たことのない……無防備なゼラの素顔だった。
「——ああ。ポースト中の美味いものを食べさせてやろう」
神秘的な群青色の瞳に見つめられ、レネの心臓がドクンと高鳴る。
声を出すこともできず、レネはコクコクと頷いた。
その後も珈琲を飲みながらとりとめもない話をゼラと続ける。
こんなにゼラと会話が続いたのは、二年前の正月以来かもしれない。
珈琲を飲み終える頃にはなんだか急に力が漲って来たような気がした。
しかし、落ち着きなく目がキョロキョロと動いてしまう。
それを見ていたゼラが白いテーブルクロスの上に手を置いて右から左へ手を動かすと、思わず身を屈めその動きを夢中で追った。
ゼラはその動きを何度か繰り返すと、仕方ないといった風に軽く息を吐いた。
「その水を全部飲んで、そろそろ出よう。……お前はどうも、珈琲が効きやすい体質みたいだな……」
「えっ!? そうなのか? なんかハイになってきて楽しいんだけど」
高揚感に包まれて、狩りにでも行きたい気分だ。
今日はなんだか大きな獲物を仕留められそうな気がしてきた。
「珈琲を飲むとお前みたいになる奴が、たまにいるんだ……」
◆◆◆◆◆
初めて口にする茶色い液体を一口飲むと、ヴィオラは目を見開く。
「想像してたのと随分違いますわ」
「そうか? 口に合わなかったなら申し訳ない」
「いえ、もっと飲みにくいものかと思っていたのに、香りも素晴らしくとても美味です。それに甘いものと相性が宜しいのですね」
ヴィオラは、綺麗な桃色の口紅を塗った口元に満面の笑みを浮かべる。
隣に添えられたチョコレート菓子を一緒に食べると、相乗効果のようにお互いの風味を惹きたて、口の中で芳醇な香りが広がる。
なんて素晴らしい組み合わせなのだと、感動せずにはいられない。
「旦那様はポーストの留学先で毎日珈琲を飲まれていたのですか?」
向かい側に座る、夫を見つめる。
金髪に碧眼、感嘆せずにはいられない美貌。
まるで理想を絵にかいたような男性が、自分の夫だと未だヴィオラは信じられないでいた。
先代が病気で亡くなったことにより、嫡男である夫がバルチーク辺境伯を継いで、今はお披露目のために王都へとやって来ていた。
バルチーク辺境伯は、ドロステアの中でも一番の要所である東の海の玄関口を纏める重要な役割がある。
バルチークの軍港には水竜騎士団が常駐している。
それとは別に、バルチーク辺境伯が独自に持っている水軍は、無敵艦隊と呼ばれ数々の戦歴を残していた。
バルチーク領は元々造船が盛んな所で、国中から船の発注を受け経済的にも栄えている。
男爵令嬢から一転、結婚し伯爵夫人の称号を手に入れたヴィオラは、貴族の娘たちの誰もが羨む地位と贅沢な暮らしを手に入れた。
「そうさ。朝食に必ず出ていたからね。その時はなんとも思っていなかったけど、こっちに帰って来ると、朝は紅茶だしずっと美味しい珈琲が飲みたくてうずうずしてたんだ。メストへ来た時に、絶対ここに来てやろうと思ってた」
「まあ……」
意外とお茶目な夫に、ヴィオラは口元に手を当て笑う。
傍から見ると自分たちは仲の良い夫婦にしか見えないだろう。
実際に夫は優しい。
結婚一年目で授かった長男は金髪に碧眼の美しい子供で、誰もが羨むオシドリ夫婦として社交界でも有名だ。
——しかし誰も自分たち夫婦の秘密を知らない。
この結婚は契約結婚だ。
ある条件を飲むことで、ヴィオラは誰もが羨むこの豊かな生活を手に入れた。
まだヴィオラは女として夫のラファエルに愛されたことがない。
——ではなぜ子供がいるのか?
それが結婚するにあたってヴィオラが飲まされた条件だ。
バルチーク伯爵家の血を引いているのは間違いないのだが、息子は夫の子ではない。
ヴィオラは、全ての理想を集めたような夫のことを愛している。
だがその愛は、一方通行でしかない。
「……っ!?」
そんなことをつらつらと考え込んでいると、ガラス窓から外のテラス席を見る夫の顔が曇る。
ラファエルはあからさまに感情を表に出すことは珍しいので、なにごとかと、ヴィオラも夫の視線の先を目で追った。
「……あっ!?」
灰色に黄緑色の瞳をした美青年が、南国人と一緒に珈琲を飲んでいた。
(あれは……ロランドの恋人だった……)
結婚する前に、ヴィオラは一人の青年に恋をした。
しかし彼には、美青年の恋人がいた。
その恋人が違う男と同じ店で珈琲を飲んでいる。
相変わらず、ヴィオラが裸足で逃げ出したくなるような美青年ぶりだ。
一緒にいる漆黒の肌をした南国人もたいそうな美男だ。
今まで肌の色が違う南国人を異性として意識したこともないので、なんだか新鮮な気持ちになる。
(……でも……ロランドと付き合ってたんじゃないの?)
店は恋人同士や女たちで溢れているので、余計に男二人連れの姿が浮いている。
「……さま……」
そんなヴィオラを他所に、ラファエルは目を見開いて聴き取れないほどの小さな声でなにかを呟いている。
レネという青年ではなく、もう一人の南国人の方を凝視していた。
「……どうしてここに……」
まるで目の前にヴィオラがいることなどすっかり忘れてしまったかのように、ラファエルはあの南国人を見つめていた。
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