菩提樹の猫

無一物

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5章 一枚の油絵

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「できた……」

 タデアーシュは描き終わったばかりの絵を見つめた。

 何枚ものスケッチからポーズを決め、記憶の彼とを照らし合わせながら描く作業を淡々と続け、頭の中では絵の世界の中に入り込んでいた。

 背景の植物を描いている時は植物根元で暮らす小さな虫の気持ちになったり、人物の服を描く時はそれを作った職人の気持ちになっている。
 絵を描くことは、現実世界の辛い出来事を忘れさせ、全く違った世界に行くことができるタデアーシュの心の逃避だった。


 完成したばかりの絵のモデルの人物とはあまり会話する機会はなかったが、彼が休憩時にいつも訪れていた倉庫の軒下は、タデアーシュの部屋からよく見えた。
 ピッタリとした紺色のお仕着せの服を着て、椅子代わりに丸太の上に座ると、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

 まるで気まぐれに遊びに来る猫を観察するような気持ちで、タデアーシュはその様子を毎日スケッチしていた。
 いつの間にかスケッチブックには何十枚も彼の素描が溜まったので、ちゃんと絵に残そうと軽い気持ちで油絵を描きはじめた。


 兄を殺そうとした母は父から離縁を言い渡され、祖父であるヴルビツキー男爵が実は偽者で、男爵家はお取り潰しになってしまった。
 祖父は罪人となり処刑され、母はそれ以来、行方がわかっていない。

 一連の出来事はタデアーシュの心を大きく傷つけた。

 母は捕まってはいないものの、兄を殺そうとしたという罪は重い。

(母上はどこへ行ってしまったんだろう……)

 母は昔から仕えるリンブルク伯爵家の使用人たちから嫌われており、いなくなっても誰も悲しむ者はいない。
 タデアーシュは気の毒な坊ちゃまとして悪意こそ向けられることはないが、腫れ物に触るような扱いを受けている。

 タデアーシュはこうなって初めて、兄の苦悩を知ることとなる。

 兄は自分よりも幼い時から、母や取り巻きの女中たちからあからさまに疎外され嫌がらせを受けていた。
 味方はお付きの騎士のデニスしかいないなか、命の危険まで曝されていたのだ。
 そんな兄を追い込んでいたのはタデアーシュの母と祖父で、本来なら自分もこの家を追い出されていてもおかしくない。

 父と兄はタデアーシュが気に病むことはない、今まで通りでいいのだと言ってくれるが、できるだけ早く家を出て、これ以上二人の迷惑にならない所で生きていきたかった。
 早く画家の所に弟子入りし技術を学んで、一人前の絵描きとして生きていくのがタデアーシュの夢だ。
 
 父にそのことを話すと、『だったら今の内から、多くの人に自分の絵を見てもらう必要がある。まずは応接間と居間に飾れる絵を何枚か描きなさい』と言われ、小さな風景画や人物画を一生懸命描いた。

 
 その一枚が完成し、イーゼルから少し離れてもう一度、描き上がったばかりの絵を見つめる。


 灰色の髪を肩で切りそろえ、丸太の上に座りながら黄緑色の瞳をぼんやりと遠くを眺める青年は、モデルがいいせいもあるのか、満足のいく仕上がりになった。


 タイトルはそのまま青年の名前で【レネ】にしよう。

 タデアーシュは一人頷き満足げな笑みを浮かべた。

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