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5章 一枚の油絵
12 ゆっくり話す暇もなかったので
しおりを挟む◆◆◆◆◆
「じゃあ、心配していたアネタはすっかり食欲旺盛に戻っていたというわけか」
容易にその姿を想像できたのだろう、バルナバーシュの隣で寛ぐルカーシュが、話を聞きながらケラケラと笑っている。
妹がいるせいか、ルカーシュは女の生態をバルナバーシュよりもよく知っており、あしらいも上手い。
そんなルカーシュから、『女の所に行くのなら、手土産は食い物を持って行け』といつも口酸っぱく言われていた。
妊娠中のアネタはつわりで苦しんでいると聞いていたので、食べ物ではなく違う物を持って行こうとしていた。
それでもルカーシュは『果物だったら食えるから。今だったら色々柑橘があるだろ?』と食べ物を持って行くように勧めた。
そこまで言われると、聞かないわけにもいかない。
バルナバーシュの、ヴィートの妹ミルシェが働く八百屋の女将に相談して、オレンジや他にも香りのよい柑橘を幾つか買い込んで行った。
結果バルナバーシュの手土産は、大喜びされアネタの腹の中へと次々と消えていった。
(コイツの方がアネタのことは詳しいな……)
同じく『山猫』に所属するゲルトと連絡を取るためにジェゼロへ行く機会の多いルカーシュは、養父であるバルナバーシュよりもアネタに会っていた。
その度にバルナバーシュはアネタに届ける仕送りを持たせていたので、当然アネタもルカーシュの副団長の顔と素顔の二つを知っていた。
さすがに自分の親方であるゲルトとルカーシュが、『山猫』のメンバーであることは知らない。
きっとゲルトとルカーシュのことを変人同士の気の合う友達だと思っているだろうし、別にその認識で間違いない。
そしてこれはバルナバーシュの憶測だが、ルカーシュは祖国の妹とアネタの姿を重ねている。
彼の表の顔だけしか知らない人間は意外に思うかもしれないが、ルカーシュは少し年の離れた妹のことを溺愛していた。
なので唯一の肉親である弟と離れ、健気に暮らすアネタのことも、放っておけないのだ。
「——パパは式の時、泣きっぱなしだったって?」
「……どうしてそれを知っている!?」
まさかそこまで知られているとは思わず、隣でニヤニヤと笑う男を睨みつけた。
「おいおい、俺じゃなく口の軽い団員を恨めよ」
「ちっ……カレルか……」
ボリスの護衛でジェゼロに行っていたカレルは、アネタとは幼馴染でもあるので一緒に式に参列していた。
帰り道、二人っきりで少し深い話もして来たばかりなのに、なんだか裏切られた気分だ。
「なあ……他にもカレルからなんか訊かれなかったか?」
昼間とはまるで別人のように、ソファーの隣でゴロゴロと寛いでいるルカーシュをじっと見つめる。
「は? 別になんも?」
(マジか……)
バルナバーシュは少しカレルのことが心配になってきた。
いや……この男が副団長を演じきれているということだと受け止めておこう。
「——ならいい……それよりもお前、テプレ・ヤロでなにもなかっただろうな?」
「あんたがさっさとジェゼロに行ったもんだから、まだ詳しく話してなかったけど、心配するようなことなんてなにもないからな」
バルナバーシュは、腹心であり恋人でもある美しい男を、じっと見つめた。
ドプラヴセと『山猫』の仕事でテプレ・ヤロに行っていたのだが、ルカーシュが帰って来たのと入れ違うように、アネタとボリスの式のためにジェゼロへ向かったため、詳しい話を聞きぞびれていた。
「でも……温泉に入ってこの尻を晒したんだろ?」
団員たちは誰も知らないが、バルナバーシュは尻フェチだ。
ルカーシュの身体の中でどこが一番好きかと訊かれたら迷わず『尻』と答える。
この魅惑の尻を、他の男になんか晒してほしくなかった。
堪らない気持ちになり、後ろから抱き付いて弾力のある尻に顔を埋めた。
「おいっ……」
いつもなら反撃するはずだが、抗議の声を上げながらもルカーシュは黙って、バルナバーシュの好きなようにさせている。
バルナバーシュはテプレ・ヤロに行くにあたって、ジジイが穿くような……膝下まで長さのある厚手の綿のパンツを、ルカーシュに何枚も持たせていた。
それが使用されていないことくらい、この従順な態度から容易に想像がつく。
「吟遊詩人があんなの穿いてたら、違和感ありまくりだろ? 俺の役割もちゃんとわかってるくせに」
まるで幼い子供をあやす母親のように、バルナバーシュの髪の毛をルカーシュがグシャグシャと掻き混ぜる。
リーパ護衛団の団長として君臨するバルナバーシュも、恋人の前ではただの犬に成り下がる。
「ちゃんと無事に出回っているぶんも回収したし、新しい本も出ないし、喜べよ」
ドプラヴセにそれを頼んだのは自分だ。
わかってはいるのだが……大勢の男たちの前で、ゲルトお手製の例の下着を身につけて温泉に浸かったルカーシュの姿を想像するだけで、やりきれない気持ちが湧き上がる。
「あ~~それとな、テプレ・ヤロでリンブルク伯爵と会ったぞ」
「リンブルク伯爵?」
ルカーシュのその一言で、バルナバーシュは正気に戻って尻から顔を上げた。
「去年も、レネがあそこで会ってるだろ?」
テプレ・ヤロに行くハヴェルの護衛にレネを付けたことから、後々厄介な事件に巻き込まれた。
「……確かに」
毎年冬をあそこで過ごす貴族は多いと聞く。
それにしても、リンブルク伯爵とは妙な縁がある。
いや……その度にレネが大変な目に遭っているので、あるいみ疫病神ともいってもいいかもしれない。
「伯爵が、ドプラヴセが誰なのか気付いたみたいだ」
「どういうことだ?」
『山猫』の尻尾を掴まれたのだろうか?
しかし、それだったら何度も会っているルカーシュの方が気付かれる可能性は高いはずだ。
「伯爵がドプラヴセに跪いたんだと。俺はお付きの騎士と温泉に浸かってたから見てないけどな」
リンブルク伯爵の様な上級貴族が跪くのは、自分より身分が高い相手だけだ。
「伯爵はなんのつもりでそんなことを?」
もう随分昔にドプラヴセは死んだことになっている。
そんな死人に敬意を払ってもなんの意味もないのに。
リンブルク伯爵の意外な行動に、バルナバーシュは驚いた。
「母親同士が親戚関係にあり、子供の頃に会う機会が何度かあったと。だから個人的なものだろうと言っていた」
「なんか意外だな……もっと損得勘定だけで動く人種だと思ってたのに……」
「敵ではないが、面倒な人物には違いない」
難しい顔をしてルカーシュが付けたす。
「お前は副団長の顔も見られてるもんな……」
ルカーシュは纏っている空気を使い分けているので、そう簡単に正体がバレることがないが、今後も気を付けなければいけない。
「リンブルク伯爵から夜会で唄うように頼まれて何曲か唄った。ドプラヴセが『レナトス叙事詩』を唄えっていうから、差しさわりのないい部分だけ少し唄ったが、古代語なんて死語を聴きとれる人間なんてほとんどいないんだな」
「なんでまたそんな歌を……」
ドプラヴセにとってはあまり広まってほしくない内容のはずだ。
「奴らが紛れ込んでないか見極めるために餌をまいたんだろう。実際に何人かは反応を示していたし……」
「もしあいつらがその場にいたのなら、あの本を回収する前にテプレ・ヤロへ来て、本を手に入れている可能性もあるんじゃないのか?」
もしそうだったら、今回の行動が無駄骨になりかねない。
「それは大丈夫だ。テプレ・ヤロの方ではあの本の在庫は既になくなっていた。テジット金鉱山の方にあった在庫は全部アランが買い占めて来たし」
「……ならいいが……」
これで一番大きな心配の種を取り除くことができた。
バルナバーシュがあの日記帳を読んで以来、レネに関する痕跡を辿られないように消して来た。
日用雑貨店の近所の人たちも店が襲撃されて以来、リーパ護衛団の団長があの子たちを養子にしているなんて誰も知らない。
後は仕事で関わった貴族や商人たちくらいだろうが、そこまで気にしていたら、それこそレネを箱の中に閉じ込めておくしかなくなるではないか。
レネ自らが剣を取って強くなることを望んだのだ。
最終的には自分の身は自分で守らせるしかない。
「あんたはよくやってるよ。後はレネが自分で始末をつけられるようになるまで見届けてやれよ」
ルカーシュはバルナバーシュと違い、いつも冷静な目でレネを見ている。
それはレネの心情を誰よりも理解できるからだ。
決して弟子の心に寄り添う様な師匠ではないが、壁にぶち当たった時、ルカーシュの言葉が突破口になることがしばしばある。
「——なあルカ……お前がいない間に……レネを屋上に上げた」
バルナバーシュは、これを伝えなければいけないと思っていた。
「……いつかは上げるって言ってたもんな」
暫く間を置いてルカーシュが口を開く。
あそこはルカーシュとの秘密の場所だった。
いつかはレネを入れると話していたが、自分が留守の間に入れたとなれば、ルカーシュも決していい気はしないはずだ。
「あいつも混乱してるだろうから、ボリスと捕えられた時のことはそっとしておこうと思った。だけどお前が出かけた夜に、レネが俺に手合わせを申し込んで来たんだ。ボリスを守れなかった自分を罰してくれとばかりに迫られて、初めて俺は自分の役割を見失っていたことに気付いた。だから俺も真剣にあいつに向かい合わないといけないと思って、上に連れて行った」
「……あいつのことだ、色々悩んで辿り着いた答えがそれだったんだろうな」
もっと怒るかと思っていたが、ルカーシュは片頬を上げて笑っている。
「二刀流としてはまだまだだが、捨て身の覚悟で攻撃して、その一発を俺は完全には避けきれなかった」
「そんな嬉しそうに言うなよ。そりゃあきっと師匠の教えがいいからだぜ?」
そういうルカーシュも自分のことのように嬉しそうにニヤニヤ笑っている。
「じゃあ、その師匠にベッドの上で手合わせをお願いするかな?」
バルナバーシュはニヤリと笑って隣にある細い腰に腕を回す。
「なんだよ、そのエロオヤジみたいな台詞は……」
口ではそう言いながらも、ルカーシュはまんざらでもない顔をして見せた。
「俺はやっぱり、お前が隣にいないと調子が出ねえよ……あ~~~~~~もう我慢できねえっっ!!!」
バルナバーシュは素直に思っていた事を口にすると、離れている間に抑えていた想いが溢れだし、たまらなくなって恋人を肩に担いで寝室へと走りだした。
「はははっ! あんたさっきから可愛すぎだろっ!」
ルカーシュは本性を晒すバルナバーシュを、肩の上で身を震わせて爆笑している。
喋っている言葉の内容も、笑いのツボに入る箇所も意味不明だが、バルナバーシュはそんな恋人が愛おしすぎて、もうどうでもよかった。
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