菩提樹の猫

無一物

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4章 癒し手を救出せよ

20 秘めた想い

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◆◆◆◆◆


「…………」
 
 ぼんやりと目の前が明るくなり、視界が戻ってくる。

「……レネ……大丈夫か?」
 
 どうやら声の主の腕の中にいるようだ。
 前手錠になったまま、その腕の輪の中にレネの身体がすっぽりと包まれていた。
 ボリスの香りに包まれ、レネはまるで昔へ返ったような懐かしい気持ちになる。
 
「……ボリス……よかった……無事だった……」

 傷がなくなったことまでは確認できていたが、実はあれが夢で、目が覚めてボリスが冷たい死体になっていたらどうしようと思っていた。
 安堵した途端に涙が零れたが、レネはボリスに気付かれたくないので、隠すように大きな胸に顔を摺り寄せた。
 

(ああ……生きてる……)
 
 ボリスの胸からは、ドクドクと心臓の音が聴こえる。

「……あんたは……姉ちゃんを一番に考えないと駄目だろっ」

 真っ赤な血に染まるボリスの姿を思い出し、あの時の怒りが蘇る。
 
 レネはアネタの弟で、ボリスにとってはただのオマケでしかない。
 これから結婚と出産を控えた姉を残して、その弟を庇って死ぬなんて、あってはならないことだ。
 
 ただの弟ならまだいいが、レネはプロの護衛だ。
 本来ならば護衛であるレネが、これから姉の夫になるボリスを守るのが普通だ。
 
(オレは……姉ちゃんとあんたを守るために強くなったのに……)

 姉からはいつも『ボリスを宜しく』といわれていた。
 そんなボリスから逆に庇われてしまった。
 もしボリスがあのまま死んでいたら、レネはアネタに会わせる顔がなかっただろう。
 

「……レネ、どうしてお前は、いつも自分を蔑ろにするんだ? 私の気持ちを考えたことがあるか?」

 ボリスが予想外の言葉を返してきたので、レネは目を見開く。
 驚いて顔を上げると、その顔は真っすぐこちらを見下ろし、静かな怒りを含んでいた。



◆◆◆◆◆



「……レネ、どうしてお前は、いつも自分を蔑ろにするんだ? 私の気持ちも考えたことがあるか?」
 

 ボリスにとって、目の前にある美しい肉体と魂が……傷つけられていくのを黙って見るのが、どんな拷問よりも辛いかレネはわかっているのだろうか?
 現に責め苦を受けるレネよりも、ボリスの方が先に音を上げた。

 レネは涙を目尻に浮かべたまま、なにを言われているのかわからないといった顔でボリスを見上げている。
 
「アネタの肉親はお前だけだ。ただ指を咥えて、お前が辛い目に遭ったり殺されそうになったりしているのを見てろというのか? そんなこと私にはできない」

 口ではアネタの弟だからと言っているが、本音はアネタと同じようにレネのことも愛しているのだ。
 二人のうちどちらかを選べといわれたら悩むが、目の前でその片方が命の危機に遭遇していたら、身を挺して守るのは自然な反応だ。

「だからって……あんたはこれから姉ちゃんと結婚して子供が生まれるんだぞっ! それにあんたは貴重な癒し手で、オレはそれを護る護衛でもある。そもそも……オレがなんのため護衛になったかって……あんたも知ってる通り、親を目の前で殺されてもなにもできなかった弱い自分が許せなかったからだ——姉ちゃんと家族になるあんたを守れないなんて……オレの存在意義がなくなるようなもんなんだっ!」 

「——レネ……」

 レネの言い分も心の痛みも理解できるだけに、その言葉を聞くと辛い。
 しかしそれ以上に、ボリスはレネが傷付くことの方が辛いのだ。


 正直な気持ちをレネに話せないから困る。
 本人も言っているように、姉の恋人だから……ボリスを家族と同じよう大切に思っているのだ。
 そんなレネが、ボリスの本当の気持ちを知ったら……きっと軽蔑するに違いない。
 
 目の前で他の男に穢されていく愛しい存在を見て、地獄の業火に焼かれる思いをしていたなんて知らないだろう?
 普段から他の男と親しくしているだけでも、いちいち嫉妬しているなんてお前は知らないだろう?

 
(——私はお前に……そんな邪な気持ちを抱いている……罪深い存在だ……)

 
「レネ……お前は私の大切な家族でもあるんだよ。私だって、お前が傷付くことこなんて見たくはない。お前を救えなかったら私は一生後悔する……」

 腕の中に包んでいる愛しい存在の頬に……家族としての口付けをする。

(ほら、こうやって姉の恋人という立場を利用して、お前に触れることしか、私にはできないのさ……)

 自分のために流された涙は蜜の味がする。
 こうして自分の存在意義を噛み締めるだけでも、ボリスにとっては、甘美な夢のようなひと時なのだ。

 
 アネタとは愛の形を結ぶことができるが、レネとはこうして家族として、愛情を育むのが精いっぱいだ。

 だが……愛情の重さは変わらない。
 一緒にいる時間がアネタよりも長い分、一方通行な想いはたまっていくばかりだ。
 
 
 この気持ちを、性愛を伴わない美しい形にどう昇華させようか?
 

 本当は触れたくて触れたくて仕方ないのに、手を出そうと思う度に、レネの魂が宿す神々しい光から……「お前はその器ではない」と言わんばかりに、その欲望を跳ね返されていた。

 癒し手でなかったら、そんな光を気にすることなく、バルトロメイや殺されていった男たちのように、欲のままに手を出すこともできたのに……。

 今回の出来事で、その光はボリスの気のせいではなく、神が力を貸すほどの特別な存在だということが判明した。
 そのレネの力を発現させたきっかけが、この自分だという事実が、ボリスに甘露よりも甘い陶酔をもたらしていく。


「レネが救ってくれたから私は生きている。ありがとう。——だからもう……私のために泣いたりしないでくれ」
 
 そう言ってもう一度レネを力強く抱きしめると、短い間だけ……この愛おしい存在を自分だけの腕の中に閉じ込めた。


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