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閑話
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バルナバーシュから出かける時に『肌身離さず持っておけ』と宝剣を渡された。
まだ陽も昇らない時間帯だったので、そのまま剣を受け取り、言われた通り肌身離さずにベッドに入れて二度寝していた。
『お~~~い、誰かいるか~~~!!』
下の玄関から大きな男の声が響く。
(———誰だよ……こんな時に)
レネは寝ぼけていて、門と玄関が閉ざされているのに、なぜ建物の中に人が入って来るのかなど考える余裕がなかった。
厚手のウールのガウンを羽織ってレネはスリッパのまま玄関へと下りて行く。
「なんだ、だらしねえ格好は、寝てたのか?」
「間違いないな、ほら寝癖が付いてる」
黒い眼帯を着けた禿頭の大柄な老人がこっちを見て目を眇めると、その隣で男装の麗人がレネの頭を指さして笑う。
「オレクっ!? ダニエラまで」
レネは意外な人物たちの登場に目を白黒させる。
「……御先代」
同時に宿舎になっている奥の廊下の扉が開き、異変を察してゼラが姿を見せる。
レネと違って、ちゃんと普段着に着替えている。
「今年は雪が少ないからこっちまで出て来たんだ。顔出してみたが、今年は二人しかいないのか? せっかく残ってる団員たちがいるだろうと思って持って来たのにな」
よく見たら、オレクの手には土産なのだろう白鳥が提げられている。
(ここって若い女はダメじゃないのか? まあダニエラだし他の団員たちはいないからいいのか……)
もう細かいことは気にしないでおこう。
元々この規則を作ったのはオレクだと聞いている。本人がいいのなら、いいに違いない。
「あいつらは新年早々どこ行ったんだ? 厩舎に馬もいなかった」
自分の馬を持っているのは団長と副団長しかいない。
オレクの言う『あいつら』とは間違いなく自分の息子と、あのコジャーツカ人のことだ。
「まだ暗いうちにザトカの別荘に二人で出かけて行った」
自然と顔が仏頂面になってしまう。
「おい……聞いたか相棒」
目を点にしてオレクが隣にいるダニエラの背中を叩く。
「くっ…くっくっ……」
隣のダニエラは必死に笑いを殺そうとしているが、我慢しきれず妙な声を漏らしている。
ちゃんとしていれば美女なのに……実に残念な女だとレネは思わずにはいられない。
ゼラなどは、異様なものでも見るかのような目でダニエラを見つめていた。
「なんだよ、二人して……」
こちらはまったく面白くもないのに、なぜそんなに盛り上がっているのか。
「いやな……長い道のりだったからな……」
なにやら感慨深げにオレクが呟く。
「二人で……別荘……」
ダニエラはダニエラで、ブツブツ独り言を言いながらニヤニヤしている。
ゼラの手前レネはこの場で多くを語らなかったが、オレクたちはレネの一言で二人が結ばれたことを悟った。
そして、レネの言葉を聞いてもショックを受けている様子ではない。
むしろ喜んでいる。
しかしレネとしてはその反応も面白くない。
「お二人は朝食は?」
「まだだ」
「一緒にいかがです?」
それを聞いて、この休みの間ゼラが食事を作ってくれることをすっかり忘れていた。
「ありがたい」
オレクはゼラの申し出に素直に頷く。
「では、食堂でしばらくお待ち下さい」
「あ~これも食材の足しにしてくれ、俺たちもしばらくここに滞在する」
「ありがとうございます。夕食に使わせてもらいます」
そう言うとゼラは元来た扉へと消えて行く。
「どうやら有能なのは剣の腕だけじゃないようだ」
オレクはゼラの対応に満足して頷くと、隣でダニエラもニヤリと笑う。
「噂には聞いていたが、想像以上の美男だな」
オレクは何度もここを訪れて団員たちと面識はあるが、ダニエラは本部にチラリと顔を出すことはあっても私邸までは入ってこないので、いつも任務で忙しいゼラとは初対面だ。
普段は近寄り難い空気を発しているので、あからさまに女性に秋波を向けられることはないが、ゼラは恐ろしいまでに美しい男だ。
レネだって見慣れているはずなのに、毎回うっとりと眺めてしまう。
「あっ……オレ、着替えて来る」
食堂の暖炉に火を入れるとまだガウン姿だったことを思い出し、急いで二階へと戻った。
「あ~~吃驚した……」
いきなりの来客に、レネの寝ぼけた頭は混乱したままだ。
(泊ってくって言ってたけど、ゲストルームでいいよな?)
以前使っていたオレクの部屋は、後を継いだバルナバーシュが使用している。
(ダニエラと部屋は別々だよな……? そうだよな?)
二人の関係がイマイチよくわからないので、なにが正解か導き出せない。
こちらから踏み込んで訊けない関係というのは扱いに困る。
「あああ~~~~」
昨夜の衝撃を思い出し、レネは思わず呻き声を上げた。
バルナバーシュも、オレクも、新年早々レネを悩ませる。
やはり二人は親子だ。
オレクが『相棒』と言っていたので、その言葉を採用させてもらうが、親子で『相棒』の趣味が悪い。
洗面所で顔を洗って着替えを済ますと、宝剣も一緒に持って食堂へと戻った。
「お~お前がそれを預かってたのか。そりゃあ大事なもんだからな、命がけで守れよ」
いつの間にか用意されていたお茶を飲みながら、オレクが懐かしそうにレネの抱えた宝剣に目を向ける。
「年明け早々、いきなり宝剣を預けられたこっちの気持ちにもなってみろよ……心の準備ができてないのに」
自分もカップにお茶を注ぐと、思わずバルナバーシュへの愚痴がこぼれる。
「お前、わかり易いな。剣よりもルカにパパを取られてしょげてるんだろ?」
容赦のないダニエラの一言が、グサリと急所に一撃を刺す。
「………オレは認めない……」
レネはギッとダニエラを一睨みすると、唇を尖らせて目を逸らす。
子供じみているという自覚はあるが、自分を装う余裕などなかった。
『レネっ、ちょっと手伝え』
厨房から聞こえてくる声にその話題は中断した。
「——美味いじゃねえか」
パンケーキと厚切りベーコンに目玉焼きという、オーソドックスな朝食を口にして、オレクが感嘆の声を上げる。
「ほんと、こんなフワフワなパンケーキ初めて食べる」
ダニエラも目を輝かせている。
「ゼラはリーパきっての料理上手なんだ!」
レネはまるで自分が誉められたかのように得意満面になって、二人に自慢する。
ゼラの美味しい朝食によって、先程の嫌な空気はどっかに飛んでいってしまった。
バターとメープルシロップのたっぷりかかったパンケーキを大きめに切り、ベーコンと一緒に口の中に入れる。
口の中に、甘じょっぱい味が広がり、鼻からはバターの香りが抜けていく。
シンプルなのに美味しくて、ほっぺたが落ちそうだ。
「お前、うまそうに食べるよな。そんなとこは子供の頃からぜんぜん変わってねえ」
オレクがレネを見て優しく笑う。
この顔は養父のバルナバーシュとそっくりだ。
「だってゼラの料理は美味いんだもん」
なんだか少し照れくさかった。
飲み物も普通のお茶ともう一種類スパイスの入ったミルクティーの二種類が用意されたが、オレクもダニエラもスパイス入りのお茶を気に入り、遠慮なくグビグビと飲んだのでレネとゼラは普通のお茶を飲む羽目になる。
普通のお茶はスパイス入りのミルクティーが二人の口に会わなかった場合を考え、レネが改めて準備したものだが、そんな心配など杞憂だった。
普段からよく旅に出て、色々な土地の食事を口にしているだけあり、老人といえども味覚の許容範囲が広い。
食事が終わると、レネは洗濯室から新しいシーツと抱えて、急いでゲストルームを整えに行った。
一度窓を開けて空気を入れ替え、風呂場のタオルや石鹸なども確認する。
日頃やらないことだが、こうやって雑務に追われている方が、余計なことを考える暇がなくていい。
二部屋とも準備が終わると、一階に戻り二人をそれぞれの部屋に案内する。
ダニエラはルカの部屋の向かい側にあるゲストルームへ案内し、自分の部屋の方にはオレクを案内する。
あの男装の麗人は、ルカのようにノックもなしにレネの部屋に入ってきそうなので、なるべく遠ざけたいという心理が働いた。
手持ち無沙汰になったので、厨房で何かと忙しそうにしているゼラの手伝いをするためにレネは再び階段を下りていく。
もちろん例の宝剣は、背中に背負って肌身離さず持っていた。
毎日この宝剣を私邸から本部へと持ち歩き、肌身離さずとまでは言わないが、護って来た団長のバルナバーシュの苦労を知る。
(もし、オレが後を継いだらこんな毎日が続くんだよな……)
もしという言葉を最初につけるのは、レネの心にまだ迷いがあるからだ。
日頃の重圧から解放されて、バルナバーシュも肩の荷が下りている所だろう。
あの時間から出発したのなら、途中で馬を休ませたとしてもお昼ごろにはザトカに到着する。
いきなり告げられた時は吃驚したが、ルカのことは抜きにして、バルナバーシュにはゆっくりと休みを満喫してほしい。
もうそんなに若くはないのだから……。
最近白いものが混じって来た養父の髪の毛を思い出す。
「休みなのにゼラばかり任せてごめん。なにか手伝うよ」
厨房で白鳥の羽毛を毟っていたゼラに声をかける。
「……パイ生地作りは任せた」
少しの間の後、重要な仕事を命じられる。
「パイ生地? オレ作ったことねえよ」
レネの言葉などお構いなしに、ゼラは作業の手を止めることなくレネに指示を出す。
「具はもう鍋に作ってある」
いつの間に作ったのか、ミートパイの具が鍋の中に入っていた。
「いつ作ったの?」
厨房に入って来たすぐにいい匂いがするなとは思っていたが、まさかもうこんなものを作っているとは驚きだ。
「昨日の残りだ」
昨日は仕事納めで、恒例になっていた羊の丸焼きが団員たちに振舞われた。
その余り肉を刻んで煮込んだのだろう。
余りものを上手に利用するとは、やはり料理上手だ。
「まず小麦粉をそのカップに二杯」
大きな瓶から小麦粉を木のカップに入れて、言われた通りに琺瑯のボウルに二杯入れる。
「そこにあるバターをそれに全部入れろ」
「えっ、こんなに入れるんだ」
パイ生地には、レネが想像していた以上に大量のバターを使うようだ。
「ここからが大事だぞ。へらでバターを豆粒くらいの大きさになるくらいまで切りながら小麦粉に馴染ませろ。絶対こねるなよ」
「う、うん」
レネは慣れない手つきでバターを細かく切っていく。
それからもゼラの指示に従いながらレネはパイ生地をなんとか作り上げた。
「まあいいだろう。上に濡れ布巾を被せて、しばらく外に出しておけ」
「どうしてそんなことするの?」
「生地を冷やして落ち着かせた方が成型しやすいんだ」
「ふ~ん」
言われてもよくわからない。
それからもレネはゼラの指示に従い、人参の皮を剥き千切りにして調味料と合わせラペを作ったり、ジャガイモを茹でハムとピクルスを混ぜてポテトサラダを作ったりと、思う存分こき使われた。
その間にゼラは、白鳥を捌いて部位ごとに分け、すりおろした玉葱とニンニク、スパイスを混ぜたものに肉を漬け込んだり、骨と野菜くずを大鍋に入れてスープをとったりと大忙しだ。
一人だったらもっと大変だっただろう。
レネは手伝いに来てよかったと思う。
それに指示以外に余計なことを言ってこないゼラと一緒にいるのは心地いい。
生地を成型してミートパイを焼き窯の中に入れると、レネがハーブティーを淹れ二人で一息ついた。
「ゼラってやっぱり凄いね。こんな料理どこで覚えたの?」
「ポーストでは男は料理を作ってはいけない。その反動でこっちに来てすぐに食堂の厨房で働いた」
「え? そうなんだ。ずっと用心棒やってたわけじゃないんだ」
意外な答えに思わずレネは吹き出した。
バルナバーシュから以前、ゼラは盗賊団の用心棒をしている所を拾ってきたと聞いていたので、その話は初耳だ。
いい香りを漂わせ、ミートパイが焼ける頃には「こんな正月も悪くない」と、朝のモヤモヤはどこへやら、レネの気分はすっかり上向きになっていた。
まだ陽も昇らない時間帯だったので、そのまま剣を受け取り、言われた通り肌身離さずにベッドに入れて二度寝していた。
『お~~~い、誰かいるか~~~!!』
下の玄関から大きな男の声が響く。
(———誰だよ……こんな時に)
レネは寝ぼけていて、門と玄関が閉ざされているのに、なぜ建物の中に人が入って来るのかなど考える余裕がなかった。
厚手のウールのガウンを羽織ってレネはスリッパのまま玄関へと下りて行く。
「なんだ、だらしねえ格好は、寝てたのか?」
「間違いないな、ほら寝癖が付いてる」
黒い眼帯を着けた禿頭の大柄な老人がこっちを見て目を眇めると、その隣で男装の麗人がレネの頭を指さして笑う。
「オレクっ!? ダニエラまで」
レネは意外な人物たちの登場に目を白黒させる。
「……御先代」
同時に宿舎になっている奥の廊下の扉が開き、異変を察してゼラが姿を見せる。
レネと違って、ちゃんと普段着に着替えている。
「今年は雪が少ないからこっちまで出て来たんだ。顔出してみたが、今年は二人しかいないのか? せっかく残ってる団員たちがいるだろうと思って持って来たのにな」
よく見たら、オレクの手には土産なのだろう白鳥が提げられている。
(ここって若い女はダメじゃないのか? まあダニエラだし他の団員たちはいないからいいのか……)
もう細かいことは気にしないでおこう。
元々この規則を作ったのはオレクだと聞いている。本人がいいのなら、いいに違いない。
「あいつらは新年早々どこ行ったんだ? 厩舎に馬もいなかった」
自分の馬を持っているのは団長と副団長しかいない。
オレクの言う『あいつら』とは間違いなく自分の息子と、あのコジャーツカ人のことだ。
「まだ暗いうちにザトカの別荘に二人で出かけて行った」
自然と顔が仏頂面になってしまう。
「おい……聞いたか相棒」
目を点にしてオレクが隣にいるダニエラの背中を叩く。
「くっ…くっくっ……」
隣のダニエラは必死に笑いを殺そうとしているが、我慢しきれず妙な声を漏らしている。
ちゃんとしていれば美女なのに……実に残念な女だとレネは思わずにはいられない。
ゼラなどは、異様なものでも見るかのような目でダニエラを見つめていた。
「なんだよ、二人して……」
こちらはまったく面白くもないのに、なぜそんなに盛り上がっているのか。
「いやな……長い道のりだったからな……」
なにやら感慨深げにオレクが呟く。
「二人で……別荘……」
ダニエラはダニエラで、ブツブツ独り言を言いながらニヤニヤしている。
ゼラの手前レネはこの場で多くを語らなかったが、オレクたちはレネの一言で二人が結ばれたことを悟った。
そして、レネの言葉を聞いてもショックを受けている様子ではない。
むしろ喜んでいる。
しかしレネとしてはその反応も面白くない。
「お二人は朝食は?」
「まだだ」
「一緒にいかがです?」
それを聞いて、この休みの間ゼラが食事を作ってくれることをすっかり忘れていた。
「ありがたい」
オレクはゼラの申し出に素直に頷く。
「では、食堂でしばらくお待ち下さい」
「あ~これも食材の足しにしてくれ、俺たちもしばらくここに滞在する」
「ありがとうございます。夕食に使わせてもらいます」
そう言うとゼラは元来た扉へと消えて行く。
「どうやら有能なのは剣の腕だけじゃないようだ」
オレクはゼラの対応に満足して頷くと、隣でダニエラもニヤリと笑う。
「噂には聞いていたが、想像以上の美男だな」
オレクは何度もここを訪れて団員たちと面識はあるが、ダニエラは本部にチラリと顔を出すことはあっても私邸までは入ってこないので、いつも任務で忙しいゼラとは初対面だ。
普段は近寄り難い空気を発しているので、あからさまに女性に秋波を向けられることはないが、ゼラは恐ろしいまでに美しい男だ。
レネだって見慣れているはずなのに、毎回うっとりと眺めてしまう。
「あっ……オレ、着替えて来る」
食堂の暖炉に火を入れるとまだガウン姿だったことを思い出し、急いで二階へと戻った。
「あ~~吃驚した……」
いきなりの来客に、レネの寝ぼけた頭は混乱したままだ。
(泊ってくって言ってたけど、ゲストルームでいいよな?)
以前使っていたオレクの部屋は、後を継いだバルナバーシュが使用している。
(ダニエラと部屋は別々だよな……? そうだよな?)
二人の関係がイマイチよくわからないので、なにが正解か導き出せない。
こちらから踏み込んで訊けない関係というのは扱いに困る。
「あああ~~~~」
昨夜の衝撃を思い出し、レネは思わず呻き声を上げた。
バルナバーシュも、オレクも、新年早々レネを悩ませる。
やはり二人は親子だ。
オレクが『相棒』と言っていたので、その言葉を採用させてもらうが、親子で『相棒』の趣味が悪い。
洗面所で顔を洗って着替えを済ますと、宝剣も一緒に持って食堂へと戻った。
「お~お前がそれを預かってたのか。そりゃあ大事なもんだからな、命がけで守れよ」
いつの間にか用意されていたお茶を飲みながら、オレクが懐かしそうにレネの抱えた宝剣に目を向ける。
「年明け早々、いきなり宝剣を預けられたこっちの気持ちにもなってみろよ……心の準備ができてないのに」
自分もカップにお茶を注ぐと、思わずバルナバーシュへの愚痴がこぼれる。
「お前、わかり易いな。剣よりもルカにパパを取られてしょげてるんだろ?」
容赦のないダニエラの一言が、グサリと急所に一撃を刺す。
「………オレは認めない……」
レネはギッとダニエラを一睨みすると、唇を尖らせて目を逸らす。
子供じみているという自覚はあるが、自分を装う余裕などなかった。
『レネっ、ちょっと手伝え』
厨房から聞こえてくる声にその話題は中断した。
「——美味いじゃねえか」
パンケーキと厚切りベーコンに目玉焼きという、オーソドックスな朝食を口にして、オレクが感嘆の声を上げる。
「ほんと、こんなフワフワなパンケーキ初めて食べる」
ダニエラも目を輝かせている。
「ゼラはリーパきっての料理上手なんだ!」
レネはまるで自分が誉められたかのように得意満面になって、二人に自慢する。
ゼラの美味しい朝食によって、先程の嫌な空気はどっかに飛んでいってしまった。
バターとメープルシロップのたっぷりかかったパンケーキを大きめに切り、ベーコンと一緒に口の中に入れる。
口の中に、甘じょっぱい味が広がり、鼻からはバターの香りが抜けていく。
シンプルなのに美味しくて、ほっぺたが落ちそうだ。
「お前、うまそうに食べるよな。そんなとこは子供の頃からぜんぜん変わってねえ」
オレクがレネを見て優しく笑う。
この顔は養父のバルナバーシュとそっくりだ。
「だってゼラの料理は美味いんだもん」
なんだか少し照れくさかった。
飲み物も普通のお茶ともう一種類スパイスの入ったミルクティーの二種類が用意されたが、オレクもダニエラもスパイス入りのお茶を気に入り、遠慮なくグビグビと飲んだのでレネとゼラは普通のお茶を飲む羽目になる。
普通のお茶はスパイス入りのミルクティーが二人の口に会わなかった場合を考え、レネが改めて準備したものだが、そんな心配など杞憂だった。
普段からよく旅に出て、色々な土地の食事を口にしているだけあり、老人といえども味覚の許容範囲が広い。
食事が終わると、レネは洗濯室から新しいシーツと抱えて、急いでゲストルームを整えに行った。
一度窓を開けて空気を入れ替え、風呂場のタオルや石鹸なども確認する。
日頃やらないことだが、こうやって雑務に追われている方が、余計なことを考える暇がなくていい。
二部屋とも準備が終わると、一階に戻り二人をそれぞれの部屋に案内する。
ダニエラはルカの部屋の向かい側にあるゲストルームへ案内し、自分の部屋の方にはオレクを案内する。
あの男装の麗人は、ルカのようにノックもなしにレネの部屋に入ってきそうなので、なるべく遠ざけたいという心理が働いた。
手持ち無沙汰になったので、厨房で何かと忙しそうにしているゼラの手伝いをするためにレネは再び階段を下りていく。
もちろん例の宝剣は、背中に背負って肌身離さず持っていた。
毎日この宝剣を私邸から本部へと持ち歩き、肌身離さずとまでは言わないが、護って来た団長のバルナバーシュの苦労を知る。
(もし、オレが後を継いだらこんな毎日が続くんだよな……)
もしという言葉を最初につけるのは、レネの心にまだ迷いがあるからだ。
日頃の重圧から解放されて、バルナバーシュも肩の荷が下りている所だろう。
あの時間から出発したのなら、途中で馬を休ませたとしてもお昼ごろにはザトカに到着する。
いきなり告げられた時は吃驚したが、ルカのことは抜きにして、バルナバーシュにはゆっくりと休みを満喫してほしい。
もうそんなに若くはないのだから……。
最近白いものが混じって来た養父の髪の毛を思い出す。
「休みなのにゼラばかり任せてごめん。なにか手伝うよ」
厨房で白鳥の羽毛を毟っていたゼラに声をかける。
「……パイ生地作りは任せた」
少しの間の後、重要な仕事を命じられる。
「パイ生地? オレ作ったことねえよ」
レネの言葉などお構いなしに、ゼラは作業の手を止めることなくレネに指示を出す。
「具はもう鍋に作ってある」
いつの間に作ったのか、ミートパイの具が鍋の中に入っていた。
「いつ作ったの?」
厨房に入って来たすぐにいい匂いがするなとは思っていたが、まさかもうこんなものを作っているとは驚きだ。
「昨日の残りだ」
昨日は仕事納めで、恒例になっていた羊の丸焼きが団員たちに振舞われた。
その余り肉を刻んで煮込んだのだろう。
余りものを上手に利用するとは、やはり料理上手だ。
「まず小麦粉をそのカップに二杯」
大きな瓶から小麦粉を木のカップに入れて、言われた通りに琺瑯のボウルに二杯入れる。
「そこにあるバターをそれに全部入れろ」
「えっ、こんなに入れるんだ」
パイ生地には、レネが想像していた以上に大量のバターを使うようだ。
「ここからが大事だぞ。へらでバターを豆粒くらいの大きさになるくらいまで切りながら小麦粉に馴染ませろ。絶対こねるなよ」
「う、うん」
レネは慣れない手つきでバターを細かく切っていく。
それからもゼラの指示に従いながらレネはパイ生地をなんとか作り上げた。
「まあいいだろう。上に濡れ布巾を被せて、しばらく外に出しておけ」
「どうしてそんなことするの?」
「生地を冷やして落ち着かせた方が成型しやすいんだ」
「ふ~ん」
言われてもよくわからない。
それからもレネはゼラの指示に従い、人参の皮を剥き千切りにして調味料と合わせラペを作ったり、ジャガイモを茹でハムとピクルスを混ぜてポテトサラダを作ったりと、思う存分こき使われた。
その間にゼラは、白鳥を捌いて部位ごとに分け、すりおろした玉葱とニンニク、スパイスを混ぜたものに肉を漬け込んだり、骨と野菜くずを大鍋に入れてスープをとったりと大忙しだ。
一人だったらもっと大変だっただろう。
レネは手伝いに来てよかったと思う。
それに指示以外に余計なことを言ってこないゼラと一緒にいるのは心地いい。
生地を成型してミートパイを焼き窯の中に入れると、レネがハーブティーを淹れ二人で一息ついた。
「ゼラってやっぱり凄いね。こんな料理どこで覚えたの?」
「ポーストでは男は料理を作ってはいけない。その反動でこっちに来てすぐに食堂の厨房で働いた」
「え? そうなんだ。ずっと用心棒やってたわけじゃないんだ」
意外な答えに思わずレネは吹き出した。
バルナバーシュから以前、ゼラは盗賊団の用心棒をしている所を拾ってきたと聞いていたので、その話は初耳だ。
いい香りを漂わせ、ミートパイが焼ける頃には「こんな正月も悪くない」と、朝のモヤモヤはどこへやら、レネの気分はすっかり上向きになっていた。
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