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12章 伯爵令息の夏休暇
エピローグ
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エピローグ
ヴルビツキー男爵のラドミールは焦っていた。
計画はすべて失敗した。
オストロフ島に山賊を集結させて、事故に見せかけアンドレイを亡き者にしようとしていたのだが、従者とお付の騎士の機転によりアンドレイは無傷で島から帰還した。
そしてあろうことか、ヘルミーナが夫のアルベルトに問い詰められて、すべて計画を喋ってしまった。
ヘルミーナがアンドレイを陥れようとしたことは表にはでなかったが、アルベルトと離婚し、伯爵家を追い出され実家へ帰って来た。
表向きは不貞を図ったということになっているらしい。
今はショックで部屋に籠ってふさぎ込んでいる。
オストロフ島のことは山賊たちを調べても徹底的な証拠は出てこないはずだ。
依頼者が何者か山賊たちは誰も知らない。
下手に出ているようでは余計にあの男に足元を見られると、ラドミールは朝一番にアルベルトをヴルビツキーの別荘へと呼びつけていた。
アンドレイとクーデンホーフの次女との顔合わせが上手くいったという噂が、ラドミールの耳にも入ってきた。
このままだとタデアーシュが次期伯爵になる芽が摘まれてしまう。
「旦那様、リンブルク伯爵がお見えになりました。こちらにお通ししますか?」
「いや……玄関先で待たせておけ。私が行く」
(玄関先で怒鳴りつけてやる)
「庭のカサブランカの香りがここまで香ってくる。貴方の好きな花でしたねラドミール」
関係上は舅と娘婿の関係だったが、お互い仕事でも深く関わる仲なので、対等にファーストネームで呼び合っていた。
アルベルトがエントランスホールでお付の騎士と優雅に佇む姿は、一枚の絵のようでようになっている。早朝にも関わらず、一切の隙きもない服装だ。
それがラドミールの劣等感を強く刺激した。
「アルベルト、私に相談なしにどうしてヘルミーナと離婚したっ!」
ラドミールは強い口調でアルベルトを問い詰める。
「アンドレイを亡き者にしようと、オストロフ島に山賊を集め襲撃させたと自供しましたからね。まだ鷹騎士団に突き出さないだけでもマシだと思って下さい」
まるで天気の話でもするように語るアルベルトに、我慢できずにラドミールは怒鳴りつけた。
「お前はっ、私の娘になんてことをしてくれたんだっ!」
仮面の下の素顔が醜悪に歪めるが、もちろんアルベルトには一切その様子は見えない。
主人の怒鳴る声を聞きつけて、使用人たちが心配し、わらわらとホールに集まってきた。
「——あれ? あそこの絵は、もしかしてラドミールの若い頃の肖像画ですか?」
ラドミールの恫喝などまったく気にもせず、アルベルトは吹き抜けのホールの壁に飾られた一枚の肖像画に目を向けた。
絵の中で、一つ一つのパーツが邪魔をしない上品な顔立ちの美青年が、鎧を着た騎士姿で佇んでいる。
「……どうしてその絵がっ!?」
(——倉庫の中に隠しておいたはずなのにっ!)
ラドミールは恐怖のあまり、わなわなと震える。
東国の戦争から帰国して、傷を癒すためにこの別荘で静養することになり、まず使用人にこの絵を倉庫に片付けさせた。
著名な画家の描いたものだったので、捨てるわけにもいかなかった。
『きっと旦那様は、お顔に傷を負われて、あの肖像画を見るのがお辛くなられたんだろう』
使用人たちは、顔に醜い怪我を負い、仮面を手放せなくなった主に同情した。
戦争で負った傷は名誉の負傷だ。仮面を付けても誰も悪く言うものなどいない。
「この画風……もしかして、バラーチェクではありませんか? それも最も数が少ないとされる初期の作品だ……」
アルベルトが興奮気味に絵を見入っている。
「凛々しい騎士姿だ。それに品のある美青年ですね。東国へ行く前に自分の肖像画を描いてもらったのですか?」
バラーチェクは写実的な絵で知られており、依頼主に媚を売って、実物より美しく描いたりしないことで有名な写実主義者だ。
「……ああ、そうだ」
動揺して思わず返事をしてしまった。
この絵は、戦争に行く前の若き日のラドミールを忠実に描いた肖像画だ。
(だから倉庫の中に仕舞っておいたのに……)
誰がこんなことを。
「——二階に誰かいるぞっ!?」
「何者だっ!」
使用人たちが一斉に、ホールから繋がる二階の階段に突如姿を現した人物を指差す。
(仮面!?)
フードを深く被り、仮面で顔を隠しているので誰かわからない。
「仮面で顔を隠すとはっ、怪しい奴めっ!」
従僕が叫び、急いで男の後を追った。
そのあまりにも皮肉な言葉に、ラドミールは仮面の下で乾いた笑いをこぼす。
男は階段の手摺にふわりと飛び乗り、従僕から身を躱し、ラドミールに向かってなにかを投げた。
カラン……。
投げたナイフと一緒に、三十年間肌見放さず顔に付けていた仮面が音を立てて床に落ちる。
「……あっ」
すぐ近くにいたアルベルトが、ラドミールの顔を見て驚きの声を上げる。
使用人たちも、あんぐりと口を開けたまま時が止まったかのように停止している。
「やはり、顔に怪我などなかった」
そう言いながら仮面の男が、追うことを止めてしまった従僕をヒョイと避けて、ゆっくりと階段を下りてくる。
「ラドミール……貴方は東国の大戦に参加して顔に大怪我を負っていたのでは……?」
傷一つない舅の素顔を見て、アルベルトが怪訝な顔をする。
「——その鷲鼻……あの絵とはまるで別人だ。写実主義者のバラーチェクが、こんなに本人の顔と乖離した絵を描くはずがない」
急な侵入者の発言に、皆が一斉にラドミールと肖像画を見比べはじめた。
そして仮面の男は、芝居じみた大声で喋りだす。
「ああーーそうか! 絵ではなく、あなた自体が偽物だったんですね。だから仮面でずっと顔を隠して、家宝にしてもおかしくない巨匠の絵を、誰の目も触れない倉庫の中に隠しておいたんだっ!」
その言葉を聞いて、使用人たちがザワザワと騒ぎ出した。
(……この男はなにを知っている?)
サァーっと血の気が引いていく。
「なにを証拠にそんな戯言をっ。おいっ、誰かこの男を捕まえろっ!」
ラドミールとは唾を飛ばしながら、使用人たちに命令するが、誰も動こうとはしない。
「証拠? 去年亡くなった男爵の従者が、長年周囲の人間を騙してきたことで、罪の意識に苛まれていたんでしょうね。世話をしていた下男にすべて喋ったんですよ。あなたの秘密をね、オーシプさん。あなたは三十数年前、ヴルビツキー男爵が敵兵に殺されて、従者が困り果てている所に居合わせた行商人ですね」
「…………」
「まだ年若い主がいなくなれば、跡継ぎもいないヴルビツキー男爵家は途絶えてしまうと危惧した従者から、主に成り代わってくれないかと話を持ちかけられ、あなたはその話を請けた。戦場では兜を被ってさえいれば顔がバレることはなかったし、代替わりしたばかりの若い男爵のことなんて誰も知らなかった。戦が一旦終わり自分の屋敷に帰ると、顔に大怪我を負ったとして仮面を被って誤魔化すことができた。戦争での怪我のため精神的にも混乱しているからと、しばらくは従者が間に入ってすべてをこなしていたそうですね。だがしばらくすると、行商人としての持ち前の才能を生かして、ヴルビツキー男爵家の家業である織物問屋の仕事に専念した」
(……なんということだ……)
すべてを言い当てられラドミールいや、オーシプは脱力して膝を突き、仮面を被る男を見上げた。
「お前は……何者なんだ……?」
男はなにかを取り出すとラドミールに見せた。
白い獅子と山猫の記章。
「ヴルビツキー男爵になりすましたとして、あなたを逮捕します」
「……そういうことか……」
まさか『山猫』が出てくるとは思わなかった。
だが、いつかバレるのではないかと仮面の下ではいつもおどおどしていた。
(もう、怯える必要もないんだな……)
ずっと騙し続けていた妻や子供たちには申し訳ないと思う気持ちもあるが、もうすべてのことに疲れてしまった。
仮面の下の素顔は家族も知らない。
この国で、従者以外は誰もオープスのことなど知らない。
だからヴルビツキー男爵という役を、大胆に、欲望の赴くまままに演じることができた。
オープスのままでは、きっと娘の嫁ぎ先の長男を亡き者にしようなどという恐ろしいことなど実行に移せなかっただろう。
戦争でなにもかもが失われた場所から逃げ出し、やっと金と権力を手に入れることができたのに、結局それは自分の人生ではなく、ラドミールの人生でしかなかった。
自分の存在を唯一知っていた従者さえも死んでしまい、誰もオープスのことなど知る者はいなくなった。
家族さえもだ。
心の中にぽかんと穴が開いたようだった。
なんとも言いようのない虚しさと孤独が心の中に渦巻いていた。
年を取って来ると老い先短い自分の人生を顧みて、このままラドミールを演じる人生でいいのか……という思いがオープスの中で湧き起こっていたのだ。
あの時、オゼロで主人の亡骸に呼びかける従者へ声をかけなければ……こんなことにはなっていなかった。
しかし今さら後悔しても仕方がない。
悲惨な戦争だった。あちこちに死体が転がり、いつ死ぬかわからない戦場からとにかく逃げ出したかった。
ただそれだけしか考えることができなかった。
『あの混乱から抜け出したかったんだろ? 俺もあんたの気持ちがわかるよ』
仮面の男から急にツィホニー語で喋りかけられ、オーシプは目を見張った。
『——お前は……』
喋り方がまるで別人だったので、今まで気付かなかったが、この男は……あの——
従者が死に、自分を知る者がすべていなくなった中、唯一オープスの心を慰めたのは、東国出身の吟遊詩人が唄うコジャーツカ族の子守唄だった。
東国の人間なら誰もが母からこの歌を聴いて育ったと言っても過言ではない。
あれからオープスは、ずっと吟遊詩人を屋敷に滞在させ東国の歌を唄わせていた。
自分の気持ちを理解してくれるのはこの男しかいない。
すべてをこの男に委ねることを決意し、力なく笑い自ら男に両手を差し出した。
『最期に、またお前の歌を聴かせてくれ……』
貴族に成り代わっていたとなると、死罪は免れない。
『——ああ。最期の夜に唄いに来てやるよ』
まるで子守唄を唄う母のような笑みを、仮面に覆われていない口元に浮かべ、男はオーシプの手を掴んで縄で拘束した。
『楽しみだ……』
心からそう告げる。
数日後、ボジ・ルゼ湖に女の遺体が浮いているのが発見される。
自殺と判断され事件性はないとし、身元不明のまま、その死体は役人の手によって葬られた。
ヴルビツキー男爵のラドミールは焦っていた。
計画はすべて失敗した。
オストロフ島に山賊を集結させて、事故に見せかけアンドレイを亡き者にしようとしていたのだが、従者とお付の騎士の機転によりアンドレイは無傷で島から帰還した。
そしてあろうことか、ヘルミーナが夫のアルベルトに問い詰められて、すべて計画を喋ってしまった。
ヘルミーナがアンドレイを陥れようとしたことは表にはでなかったが、アルベルトと離婚し、伯爵家を追い出され実家へ帰って来た。
表向きは不貞を図ったということになっているらしい。
今はショックで部屋に籠ってふさぎ込んでいる。
オストロフ島のことは山賊たちを調べても徹底的な証拠は出てこないはずだ。
依頼者が何者か山賊たちは誰も知らない。
下手に出ているようでは余計にあの男に足元を見られると、ラドミールは朝一番にアルベルトをヴルビツキーの別荘へと呼びつけていた。
アンドレイとクーデンホーフの次女との顔合わせが上手くいったという噂が、ラドミールの耳にも入ってきた。
このままだとタデアーシュが次期伯爵になる芽が摘まれてしまう。
「旦那様、リンブルク伯爵がお見えになりました。こちらにお通ししますか?」
「いや……玄関先で待たせておけ。私が行く」
(玄関先で怒鳴りつけてやる)
「庭のカサブランカの香りがここまで香ってくる。貴方の好きな花でしたねラドミール」
関係上は舅と娘婿の関係だったが、お互い仕事でも深く関わる仲なので、対等にファーストネームで呼び合っていた。
アルベルトがエントランスホールでお付の騎士と優雅に佇む姿は、一枚の絵のようでようになっている。早朝にも関わらず、一切の隙きもない服装だ。
それがラドミールの劣等感を強く刺激した。
「アルベルト、私に相談なしにどうしてヘルミーナと離婚したっ!」
ラドミールは強い口調でアルベルトを問い詰める。
「アンドレイを亡き者にしようと、オストロフ島に山賊を集め襲撃させたと自供しましたからね。まだ鷹騎士団に突き出さないだけでもマシだと思って下さい」
まるで天気の話でもするように語るアルベルトに、我慢できずにラドミールは怒鳴りつけた。
「お前はっ、私の娘になんてことをしてくれたんだっ!」
仮面の下の素顔が醜悪に歪めるが、もちろんアルベルトには一切その様子は見えない。
主人の怒鳴る声を聞きつけて、使用人たちが心配し、わらわらとホールに集まってきた。
「——あれ? あそこの絵は、もしかしてラドミールの若い頃の肖像画ですか?」
ラドミールの恫喝などまったく気にもせず、アルベルトは吹き抜けのホールの壁に飾られた一枚の肖像画に目を向けた。
絵の中で、一つ一つのパーツが邪魔をしない上品な顔立ちの美青年が、鎧を着た騎士姿で佇んでいる。
「……どうしてその絵がっ!?」
(——倉庫の中に隠しておいたはずなのにっ!)
ラドミールは恐怖のあまり、わなわなと震える。
東国の戦争から帰国して、傷を癒すためにこの別荘で静養することになり、まず使用人にこの絵を倉庫に片付けさせた。
著名な画家の描いたものだったので、捨てるわけにもいかなかった。
『きっと旦那様は、お顔に傷を負われて、あの肖像画を見るのがお辛くなられたんだろう』
使用人たちは、顔に醜い怪我を負い、仮面を手放せなくなった主に同情した。
戦争で負った傷は名誉の負傷だ。仮面を付けても誰も悪く言うものなどいない。
「この画風……もしかして、バラーチェクではありませんか? それも最も数が少ないとされる初期の作品だ……」
アルベルトが興奮気味に絵を見入っている。
「凛々しい騎士姿だ。それに品のある美青年ですね。東国へ行く前に自分の肖像画を描いてもらったのですか?」
バラーチェクは写実的な絵で知られており、依頼主に媚を売って、実物より美しく描いたりしないことで有名な写実主義者だ。
「……ああ、そうだ」
動揺して思わず返事をしてしまった。
この絵は、戦争に行く前の若き日のラドミールを忠実に描いた肖像画だ。
(だから倉庫の中に仕舞っておいたのに……)
誰がこんなことを。
「——二階に誰かいるぞっ!?」
「何者だっ!」
使用人たちが一斉に、ホールから繋がる二階の階段に突如姿を現した人物を指差す。
(仮面!?)
フードを深く被り、仮面で顔を隠しているので誰かわからない。
「仮面で顔を隠すとはっ、怪しい奴めっ!」
従僕が叫び、急いで男の後を追った。
そのあまりにも皮肉な言葉に、ラドミールは仮面の下で乾いた笑いをこぼす。
男は階段の手摺にふわりと飛び乗り、従僕から身を躱し、ラドミールに向かってなにかを投げた。
カラン……。
投げたナイフと一緒に、三十年間肌見放さず顔に付けていた仮面が音を立てて床に落ちる。
「……あっ」
すぐ近くにいたアルベルトが、ラドミールの顔を見て驚きの声を上げる。
使用人たちも、あんぐりと口を開けたまま時が止まったかのように停止している。
「やはり、顔に怪我などなかった」
そう言いながら仮面の男が、追うことを止めてしまった従僕をヒョイと避けて、ゆっくりと階段を下りてくる。
「ラドミール……貴方は東国の大戦に参加して顔に大怪我を負っていたのでは……?」
傷一つない舅の素顔を見て、アルベルトが怪訝な顔をする。
「——その鷲鼻……あの絵とはまるで別人だ。写実主義者のバラーチェクが、こんなに本人の顔と乖離した絵を描くはずがない」
急な侵入者の発言に、皆が一斉にラドミールと肖像画を見比べはじめた。
そして仮面の男は、芝居じみた大声で喋りだす。
「ああーーそうか! 絵ではなく、あなた自体が偽物だったんですね。だから仮面でずっと顔を隠して、家宝にしてもおかしくない巨匠の絵を、誰の目も触れない倉庫の中に隠しておいたんだっ!」
その言葉を聞いて、使用人たちがザワザワと騒ぎ出した。
(……この男はなにを知っている?)
サァーっと血の気が引いていく。
「なにを証拠にそんな戯言をっ。おいっ、誰かこの男を捕まえろっ!」
ラドミールとは唾を飛ばしながら、使用人たちに命令するが、誰も動こうとはしない。
「証拠? 去年亡くなった男爵の従者が、長年周囲の人間を騙してきたことで、罪の意識に苛まれていたんでしょうね。世話をしていた下男にすべて喋ったんですよ。あなたの秘密をね、オーシプさん。あなたは三十数年前、ヴルビツキー男爵が敵兵に殺されて、従者が困り果てている所に居合わせた行商人ですね」
「…………」
「まだ年若い主がいなくなれば、跡継ぎもいないヴルビツキー男爵家は途絶えてしまうと危惧した従者から、主に成り代わってくれないかと話を持ちかけられ、あなたはその話を請けた。戦場では兜を被ってさえいれば顔がバレることはなかったし、代替わりしたばかりの若い男爵のことなんて誰も知らなかった。戦が一旦終わり自分の屋敷に帰ると、顔に大怪我を負ったとして仮面を被って誤魔化すことができた。戦争での怪我のため精神的にも混乱しているからと、しばらくは従者が間に入ってすべてをこなしていたそうですね。だがしばらくすると、行商人としての持ち前の才能を生かして、ヴルビツキー男爵家の家業である織物問屋の仕事に専念した」
(……なんということだ……)
すべてを言い当てられラドミールいや、オーシプは脱力して膝を突き、仮面を被る男を見上げた。
「お前は……何者なんだ……?」
男はなにかを取り出すとラドミールに見せた。
白い獅子と山猫の記章。
「ヴルビツキー男爵になりすましたとして、あなたを逮捕します」
「……そういうことか……」
まさか『山猫』が出てくるとは思わなかった。
だが、いつかバレるのではないかと仮面の下ではいつもおどおどしていた。
(もう、怯える必要もないんだな……)
ずっと騙し続けていた妻や子供たちには申し訳ないと思う気持ちもあるが、もうすべてのことに疲れてしまった。
仮面の下の素顔は家族も知らない。
この国で、従者以外は誰もオープスのことなど知らない。
だからヴルビツキー男爵という役を、大胆に、欲望の赴くまままに演じることができた。
オープスのままでは、きっと娘の嫁ぎ先の長男を亡き者にしようなどという恐ろしいことなど実行に移せなかっただろう。
戦争でなにもかもが失われた場所から逃げ出し、やっと金と権力を手に入れることができたのに、結局それは自分の人生ではなく、ラドミールの人生でしかなかった。
自分の存在を唯一知っていた従者さえも死んでしまい、誰もオープスのことなど知る者はいなくなった。
家族さえもだ。
心の中にぽかんと穴が開いたようだった。
なんとも言いようのない虚しさと孤独が心の中に渦巻いていた。
年を取って来ると老い先短い自分の人生を顧みて、このままラドミールを演じる人生でいいのか……という思いがオープスの中で湧き起こっていたのだ。
あの時、オゼロで主人の亡骸に呼びかける従者へ声をかけなければ……こんなことにはなっていなかった。
しかし今さら後悔しても仕方がない。
悲惨な戦争だった。あちこちに死体が転がり、いつ死ぬかわからない戦場からとにかく逃げ出したかった。
ただそれだけしか考えることができなかった。
『あの混乱から抜け出したかったんだろ? 俺もあんたの気持ちがわかるよ』
仮面の男から急にツィホニー語で喋りかけられ、オーシプは目を見張った。
『——お前は……』
喋り方がまるで別人だったので、今まで気付かなかったが、この男は……あの——
従者が死に、自分を知る者がすべていなくなった中、唯一オープスの心を慰めたのは、東国出身の吟遊詩人が唄うコジャーツカ族の子守唄だった。
東国の人間なら誰もが母からこの歌を聴いて育ったと言っても過言ではない。
あれからオープスは、ずっと吟遊詩人を屋敷に滞在させ東国の歌を唄わせていた。
自分の気持ちを理解してくれるのはこの男しかいない。
すべてをこの男に委ねることを決意し、力なく笑い自ら男に両手を差し出した。
『最期に、またお前の歌を聴かせてくれ……』
貴族に成り代わっていたとなると、死罪は免れない。
『——ああ。最期の夜に唄いに来てやるよ』
まるで子守唄を唄う母のような笑みを、仮面に覆われていない口元に浮かべ、男はオーシプの手を掴んで縄で拘束した。
『楽しみだ……』
心からそう告げる。
数日後、ボジ・ルゼ湖に女の遺体が浮いているのが発見される。
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※以前作ったものを改稿しBL版にリメイクしました。
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