菩提樹の猫

無一物

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12章 伯爵令息の夏休暇

41 準備は整った

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◆◆◆◆◆


「上手くいってよかったよ。まさかアンドレイがあんな気の利いた贈り物を選んでいるなんてね」

 この前の午餐会でアンドレイとマリアナが微笑ましく会話している様子を思い出し、父親であるアルベルトは頬を緩めた。

「お似合いのお二人でした」

 ラデクもニッコリと微笑んでいる。

 クーデンホーフ侯爵と話し合った結果、これから起こるであろうゴタゴタを考慮して、正式な婚約は来年の夏に行おうという手筈になった。

 ヘルミーナとは正式に離婚する手続きを進めていた。
 本当はアンドレイを殺そうとした罪にも問いたいのだが、この事件を表沙汰にするとリンブルクだけではなく、ヘルミーナと共謀したベルナルトのいるダルシー伯爵家までもが恥をかくことになる。

 だから表向きは、妻の不貞ということにした。
 これからのことを考えれば、まあある意味ヘルミーナにとって地獄の様な日々が待ち受けているだろう。

 息子のタデアーシュはアルベルトが引き取り、そのままリンブルクの次男として今まで通りに育てるつもりだ。
 ショックを受けてふさぎ込んでいるが、自分の生きる場所はここしかないいと気付くはずだ。

(アンドレイだって今まで頑張って来たんだ、タデアーシュもきっと大丈夫だ……)

 今はそう願うしかない。

 これでヴルビツキーを追い詰めることができる。


 きっかけは去年の夏にクーデンホーフ侯爵との雑談からだ。

『ヴルビツキー男爵家にいた下男をいまウチで雇っているんだが、その下男がヴルビツキー男爵について吃驚する内容の話をしたんだよ。男爵の従者が高齢で寝たきりになり、その下男が世話をしていたようなんだが——死ぬ前にすべて誰かに打ち明けておきたい……と男爵についての信じられない秘密を下男に明かしたと言うんだよ』

 そう言って侯爵から聞かされた内容は、アルベルトに衝撃を与えた。

『もしこれが本当なら、君はヴルビツキーから手を引いた方がいいかもしれない。君の家の複雑な状況は私も知っている。上手く使えば君にとってもチャンスになるじゃないかと思ってね』

 それからクーデンホーフ侯爵と何度か話し合い、ある機関に調査を依頼することになった。
 

 アルベルトは遅い時間になったので、書斎から寝室に向かおうとしていた。

「——何者っ!?」

 寝室の窓が開いており、カーテンが風に揺られてひらひらと舞っていた。

「今晩はリンブルク伯爵」

 夜光石の明かりに照らされ、侵入者の姿が明らかになる。
 フードの付いたローブを身に纏い、顔にはヴルビツキー男爵のような仮面を被っていた。

「曲者めっ!」

 ラデクがアルベルトを背に隠して、声のした方にナイフを投げたが、侵襲者の男は器用に避ける。

(手練のようだが、いったい誰の差し金だ!?)

 同時に複数の顔が浮かぶほど、アルベルトのことをよく思ってない人間が多くいる。

「こんな格好で申しわけありませんが、素顔を晒すわけにはいきませんのでお許しください。今夜は伯爵にお知らせすることがあり、こちらに参りました」

 剣を抜いて威嚇するラデクに臆することなく、仮面の男は淡々と喋り続ける。

「ラデク待て。君は何者だ?」

 どうも相手は刺客ではなさそうだ。

「これでおわかりになりますか?」

 男の手に握られた記章を見つめ、アルベルトは驚きのあまり固まった。

山猫ディヴォカ・コチカ!?』

 人前には滅多に姿を現さないドロステア山猫に例えられる、王直属の調査機関。
 アンドレイは文章でのやり取りは何度かしていたが、組織の人間と会うのは初めてだった。

「調査が無事に終わりましたのでそのお知らせです。伯爵にも少しお手伝いしてほしいことがありまして」

 仮面に覆われていない口がニコリと笑う。花びらのような唇は肉厚的で、男にしては艶やかだ。
 その唇とは裏腹に、男は事務的に次々と明らかになった事実と今後の段取りを話す。

「では、あの話は本当だったんだね」

 男から話を聞き終わると、アルベルトはなんともいえない罪悪感に苛まれる。

「お坊ちゃまはそんなおつもりではなかったのでしょうが、皮肉にも決定的な証拠となってしまいました」

 自分がこれから行うことは本当に間違っていないのだろうか?
 アルベルトの中にまだ迷いがある。

 しかし、このままではアンドレイは間違いなく命を狙われ続ける。これだけは疑いようのない事実だ。
 ここまでやられっぱなしで黙っておくわけにはいかない。

 災いの種は徹底的に潰すしかない。
 苦渋の決断だったが、自分の選択ミスが招いた結果だ。

(——ヘルミーナと結婚しなければ……)

 これについては、今まで何度も後悔の念に駆られた。
 しかしヘルミーナとの結婚で、タデアーシュという可愛い息子が生まれたのも事実だ。
 アンドレイとタデアーシュは、アルベルトにとってはどちらも愛おしい我が子に変わりない。

「あの子にはこの事実を伏せておくよ。——君の提案通り実行しよう」

 責任は自身で負わなければいけない。
 
「承知しました」

 そう言い残すと、男は最初に入って来た窓からサッと姿を消した。

「……!? ここ二階ですよ?」

 ラデクがすぐに仮面の男が出て行った窓から外を覗き、目を瞬かせている。
 突然やって来て、風のように消えていった。
 

 もうすぐ、すべてが終わる。

 やっとアンドレイが命の危険から解放されるという安堵感と、人を陥れる憂鬱が交ぜになる。
 まるで年代物の美酒のように、言葉では言い表せない複雑な気持ちだ。



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