菩提樹の猫

無一物

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12章 伯爵令息の夏休暇

11 仮面の下に光る涙

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 ひとしきり、賑やかな曲を唄い上げると、今度は物悲しい東国の曲をツィホニー語で唄いはじめた。
 打って変わって、シン……と辺りが沈まりかえる。

 レネはツィホニー語の聞き取りだけはできるので、その歌詞の意味までよくわかる。
 それは子守唄で、英雄に因んだ名を持つ我が子を、大きくなると戦に送り出し、母は悲しみに暮れるであろうと唄った、なんとも切ない歌だった。

 その歌声の中に、たった数日間だが、戦争の爪痕を根深く残したオゼロの国が浮かび上がり、手足を失いそれでも力強く生きていたチェレボニー村の人々の顔が浮かんでくる。

 目の前で唄うこの男も、乳飲み子の時に母親の歌を聴いて眠ったのだろうか?
 美しく着飾り、戦いとは無縁に見えるこの妖艶なバードでさえ、背中には醜い傷跡を隠している。
 
 レネはやるせない気持ちになり、鼻の奥がジンと熱くなる。
 吟遊詩人の近くですっかり歌に聴き入っていた仮面の男爵の目も、涙に濡れていた。

「——男爵もツィホニー語が……?」

 思わず声に出して呟いた。
 あの歌の悲しい歌詞がわかるから、男爵は泣いているのだ。
 レネの呟きを隣で聞いていたアンドレイが答えをくれる。

「男爵は東国の戦争で顔に傷を負い、それ以来、あの仮面が手放せなくなったそうだ……」

 アンドレイがレネにだけ聴こえるように耳元で囁いた。

「……そうだったんだ……」

 一連の黒幕とされる人物の意外な過去を知り、レネは複雑な気分になる。

(あの男爵も、東国で癒えない傷を負っていたんだ……)

 もしかしたら東国に行っている間に、あの子守唄を聴いたことがあるのかもしれない。
 そうでなかったとしても、この子守唄の歌詞は、戦争に行ったことのある男たちの心を打つ歌詞であることに間違いない。

(だからさっき……コジャーツカの剣を見て、急に様子が変わったんだ)

 そうしている間にも、吟遊詩人はしんみりしてしまった会場をとりなすかのように、再び明るい華やかな曲を一曲歌い上げ、観衆の盛大な拍手と共にステージから下りて行った。

 その様子を見守っていたアンドレイが、脇へと消えて行く吟遊詩人へと向かって走りはじめた。

「おいっ!? アンドレイっ!!」

 レネも慌てて後を追いかける。
 
 仕事を終えたバードは、乾いた喉をグラスに注いだワインで潤し、懐から取り出した茶色い巻きたばこに火を付け一服していた。
 朱色に彩られた唇から、今度は歌声の代わりに紫煙が吐き出される。
 目の前に突如として現れた少年に、バードが一瞬驚いた仕草を見せるが、すぐに口元に妖艶な笑みを浮かべると、優雅にお辞儀をした。

「これはこれは、リンブルク伯爵家の若君。私になにか御用でしょうか?」

「どうして、僕のことを知ってるんですか?」

 アンドレイは初対面の人間に、身元を言い当てられ、驚きに目を見開く。

「貴方のことは風の噂でよく耳にするのです」

 そう言いながらバードは、アンドレイに気付かれないように、後ろに立つレネを一瞥した。

「そうなんですか。先ほどの素敵な歌声に感銘を受けました。あなたの歌声を聴いただけで、気の進まなかった夜会が一気に意義のあるものに感じられました」

 まるで女性でも口説くかのように、スラスラと称賛の言葉が出てくるアンドレイに、レネは内心呆れた。

(アンドレイってこんな子だったっけ?)

「若君からお褒めの言葉を頂けるとは光栄です」

 微笑むと、改めてバードはお辞儀をした。 
 その優雅な物腰は、日頃から貴族と接することに慣れている様子だ。

「それに衣装も素晴らしい。あなたの美しい髪と瞳の色によく映えている。よろしければその素敵なショール、どこで作られたものか教えて頂けませんか? 私の亡くなった母もそれにそっくりの物を持っていたので、ずっと気になっていたのです。——あの東国の子守唄で、亡き母のことを思い出したのでつい……」


(アンドレイもツィホニー語がわかるんだ……)

 また改めてアンドレイの新たな一面を発見して、素直で子供らしい少年のイメージは、自分が勝手に作り上げていた幻想であったことを思い知る。

「こちらですか? ジェゼロレースのショールです」

 羽織っていたショールを手に取ると、アンドレイに差し出した。

「わぁっ!? 軽いっ!」

 まるで蜘蛛の糸のような繊細な細い羊毛で編み上げられた、孔雀青をしたショールの軽さに、アンドレイが驚きの声を上げる。

「でも羊毛で編まれているから、羽織るだけで温かいんですよ。夏の間でも、ここは日が沈むと急に肌寒くなってきますからね。そんな時には重宝します」

「そうなんだ……」

 母親のことでも思い出しているのだろうか、アンドレイは憧憬の眼差しで、繊細で複雑な模様を描くレースの編地を眺めていた。

「お気に召されましたか? そのショールは懇意にしている編物工房の若い職人が編み上げたものです。ここからも遠くはないので、一度足を運ばれて見てはいかがでしょうか。きっとご母堂様のお持ちになっていた物に、より近い品があるはずです」

 性別を超越した慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、バードはアンドレイの質問に答えていく。

「その工房の名前は?」

「プレテニ編物工房といって、ジェゼロに昔からある王家御用達の老舗です」

「そんな凄い工房なんですね」

 ショールをバードに返しながら、アンドレイの顔がぱっと明るくなる。
 だが工房の名を聞いて、レネは複雑な表情を浮かべていた。

(途中からもしかしてと思ってたけど……)
 
「さっそく明日にでも足を運んでみます。今夜は素敵な歌をありがとうごさいました。もしよろしければお名前をお伺いしても?」

「——ルカと申します。リンブルクの若君、またどこかでお会いできることを楽しみにしています。ご機嫌よう」

 吟遊詩人は踊るようにお辞儀をすると、サァっと風のように立ち去っていった。
 
「不思議な人だったね……」

 アンドレイはまるで、幻でも見るかのようにぼうっとその様子を眺めていた。

 いま話していた人物が、先日話題にした鬼のように恐ろしい剣の師だと言っても、きっとアンドレイは信じてくれないだろう。
 だが、レネが近くにいようともまるで知らぬ顔をしていたので、今はきっとレネとの繋がりを知られたくないのだ。

(今回ルカは、リーパとは違う要件で動いている……)

 以前見せられた記章を思い出し、レネは自分が与り知らぬ所で、大きく物事が動いていることを感じた。



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