菩提樹の猫

無一物

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12章 伯爵令息の夏休暇

9 なんにも知らない

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「アンドレイって想像してたよりも大変な暮らししてたんだな……」

 部屋に帰ってくると、レネがため息を吐いて呟いた。

 アンドレイは二人っきりになり、改めてレネを見つめる。

 ファロでも容姿に優れた人間はたくさん見た。
 母方の公爵家は美形揃いだったが、目の前にいる青年の美しさには誰も敵わない。
 個性を打ち消すよう御仕着せの服を着ていても、レネの魅力を隠すどころか、中身の場違い感が浮き上がり、よけいに目立ってしまっている。
 だから一周回って、この服が似合っているという、とんでもない状態だ。

(——ここにいる間だけは、レネは僕だけの従者……)

 手の届く所にやっとレネが来てくれた。
 だからどんなことがあろうとも乗り越えてみせる。

 伸び伸びと羽根を伸ばしていた留学先とは違い、がちがちに凝り固まった実家で、望みもしない縁談を受け入れることに、アンドレイの心は荒んでいた。

 父のアルベルトは損得勘定でしか物事を見ない。
 息子の結婚だってそうだ。
 だがそんな父の話に乗ったアンドレイだって一緒だ。
 ヴルビツキー家と、そしてあの女と縁を切るのなら喜んで縁談を受けようと思ったのだから。

 結局、自分も損得勘定で人生を決めている。
 そんな所は父と似ているのかもしれない。

 父の話に答えを出して、口うるさいデニスも今はいない。
 部屋に帰ってきた途端に、重い空気から解放されて、今はレネと二人っきりだ。
 普段は抑圧されてきた一面がむくむくと顔を出す。
 
「それよりもレネ、父上が最初に会った時が強烈だったって仰ってたけど、いったいどういう状況だったの?」

 書斎で話を聞いていた時からずっと気になっていたことだ。

「……えっと……トラブルに巻き込まれていた所を、伯爵とラデクさんに助けられたんだよ。他の貴族のプライバシーにも関わることだし、これ以上は言えない」

 言葉の端々に、アンドレイが知らない、レネの人間関係が垣間見え、なんだか疎外された気持ちになる。

「僕……ちっともレネのこと知らない……」

 自分よりも、あの赤毛の団員の方がレネのことを知っていることが悔しい。

「どうしたんだよ、急に……」

 俯いて視線を反らしたアンドレイに、レネが長椅子隣へ座り身を寄せる。

「オレだって、アンドレイのことぜんぜん知らないし、お互い様だろ? 縁談の話だってびっくりだし、目の前にある、この絵のことだって知らないんだよ?」

 レネが指差す絵に、アンドレイも視線を向ける。

「この絵の中にいる、小さな男の子は君なんだろ?」

 レネはそう言って、アンドレイの肩を抱いた。
 記憶の中でも、再会してからも、華奢でどちらかというと儚い印象のレネだが、こうやって横に並んで話していると、やはり背も高いし五歳の年齢差を感じた。

 最初の時よりも少し言葉がぞんざいになって、年相応の男っぽさがある。
 きっとこの喋り方が素に近いのだろう。
 知れば知るほど、レネの素の部分にもっと触れたくなり、心臓がドキドキした。

「まだ僕が二才の頃に描かれたもので、父上と僕を抱いているのが本当の母上だ。この年に母上は流行病で亡くなった……」

「そうなんだ……綺麗なお母さんだね」

 淡藤色の母の瞳が、絵越しに自分を見つめているようで、アンドレイは何度この絵を見ても不思議な気分になる。

「レネの家族はなにしてるの?」

 アンドレイは自分よりも、レネのことをもっと知りたかった。
 以前訊いた身の上話は、奉公人のふりをしていた時のもので作り話だろう。

「オレの両親は、十歳の頃に目の前で強盗に殺された。その時、たまたま近くを通ったリーパの団長たちにオレと姉ちゃんは助けられたんだ。そしてオレたち姉弟はそのまま団長の養子になった」

 さらりと語られた、壮絶な過去にアンドレイはどう相槌を打っていいのかわからないでいた。

「アンドレイの継母も怖いけど、オレの養父も鬼のように強くて怖いんだぜ。アンドレイも一度会ってみればわかる」

 そう語るレネの顔には、温かい笑みが零れているので、きっとその養父のことを心から信頼しているのだろうというのが伝わってくる。

「会ってみたい気もするけど機会なんてあるかな?」
 
「アンドレイが早く子爵にでもなってリーパに護衛を依頼すればいいじゃん。いつでもオレが護衛を担当するよ」

 レネの言葉を聞いて、アンドレイは瞠目した。

「……そっか、その手があったんだ。僕が伯爵家を継ぐって決めたら、自分で依頼できるんだ……」

 みるみると、真っ暗だった未来が明るく開けてくるような気がした。
 これまでは爵位を継ぐことから逃げることばかり考えていたが、今置かれた状況を打開して、自分の居場所を掴めば、もっとできることが広がっていく。

「じゃあレネは小さい頃から、団長さんに剣を教わったの?」

 まだアンドレイは実際にレネが剣を使っているところは見たことはないが、あのデニスも驚いていたくらいだ、相当な腕を持っているのだけはわかる。
 あのボフミルを蹴り倒し、ナイフでもう一人の男の首を掻っ切った時は、いきなりの豹変にアンドレイも腰を抜かしそうになるほど驚いた記憶がある。

「いや、副団長がオレの師匠。オレにとってはどっちも鬼かな……」

「二人共どんな人たちか想像もつかないな……」

(レネの周りには鬼しかいないのだろうか?)

 団員たちもレネのことをぞんざいに扱っていたし、アンドレイはちょっとだけレネが心配になる。

「オレも口で伝える自信ないし、会ってみてからのお楽しみで」

「そうだね。留学も三年間の約束だし、成人したらとっとと子爵になってレネをばんばん指名するよ」

「その調子で頑張れ!」

 強く肩を抱き直され、髭の存在など一切感じさせないサラサラとした頬を擦り付けられると、アンドレイは思わず、顔が火を吹くほど熱くなるのを感じた。

 レネと話しているだけで、荒んだ心など一気にどこかに吹き飛んでいた。
 
 お付きの騎士が近くにいないのは寂しいが、デニスが医者から怪我の休養を言い渡された三日間、アンドレイはレネと二人っきりの時間を思い残すことなく楽しむことにした。



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