菩提樹の猫

無一物

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12章 伯爵令息の夏休暇

3 暴れ牛

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 レネたちは、ジェゼロとポリスタブのちょうど中間地点にあるホズポダ村で、昼食を兼ねた休憩をとり、再びジェゼロに向かって進もうとしていた。
 中心部は馬車の乗り入れができないので、馬車を置いてきた村の端まで少し歩かなければならない。
 
「あそこの女将、今日はやたらと気前がよかったよな」
「お坊ちゃまがおいでとあればな」

 昼食に寄った食堂でヤンとベドジフが、普段団員たちだけで寄る時とのあからさまな対応の違いに愚痴をこぼしていた時だ。

『——暴れ牛だっっ!』

 遠くで村人が叫ぶ声が聞こえたかと思うと、怒涛の足音と共に、一頭の雄牛がこちら向かって突撃してくる。

「レネっ、アンドレイをっ!」

 デニスの叫びに、レネは咄嗟に道の端へとアンドレイを連れ出し、庇いながら抱き込んだ。
 他の男たちは、一斉に得物を抜いて雄牛の暴走を止めるために迎え撃つ。
 
 鋭い角を持った雄牛はそれでも怯むことなく、一番近くにいたデニスに狙いを定めた。

「ぐぁっ……」

 雄牛はいったん低く頭を下げると、突き上げるような動きを見せデニスを襲った。

「デニスっ!」

 急いでデニスに駆け寄ろうとするアンドレイを、レネは羽交い締めにしてその場にとどめる。

「このっ野郎っ!」

 ヤンが雄牛の首めがけて戦斧を振り下ろし、カレルが心臓めがけて槍で止めを刺す。
 血を吹き出し痙攣する雄牛の下からベドジフがデニスを助け出した。

「大丈夫かっ!?」

「デニスっ……」

 レネの腕の中にいるアンドレイの声が震える。

「大丈夫だ。ちょっと角が掠っただけだ」

 アンドレイが心配しないようデニスはなんてことない風に応えるが、太腿の外側をザックリ角で切られていた。

「こりゃけっこう深く行ってるな……ボリスもいないし村の医者にでも診せるか?」

「……いや、このまま留まるとアンドレイが狙われるかもしれない」

 痛さに顔を顰めながらも、デニスはアンドレイの安全を最優先にする。

「確かにそうかもしれねーな……」

 ヤンが斧の血を払いながらデニスの意見に同意する。
 その間にもヴィートは荷物の中から応急処置用の道具を取り出し、デニスの傷を処置しはじめたカレルの手伝いを淡々とこなしていた。
 ただの破落戸の少年が、一年もしない内にここまで成長していることに、レネは改めて自分の判断が間違っていなかったと再確認する。

「まさかっ……この雄牛も僕を狙って……?」

 牛を興奮させて何者かがこちらにけしかけたのかもしれない。
 アンドレイの顔が恐怖に引き攣っている。

「なんとも言えないな……だが、可能性がある限りここにはあまり長居しない方がいいだろう」

 デニスはカレルの応急処置を受けながらも、冷静に状況を判断していく。

「デニス……」

 アンドレイは心配そうにその手を握りしめた。

「すまん。こんなことになってしまって……」

「僕は大丈夫。レネもいるし。デニスは無理をしないで」

 以前だったら、アンドレイは今の状況に泣きだしていたかもしれないが、これ以上デニスに無理をさせないよう、落ち着きを取り戻している。
 レネはこんな細かな所にも、アンドレイの成長を感じた。

「じゃあ処置が済んだら早めにここを出よう」

 ベドジフが御者の所へ行き、出発の準備をするように促す。


「またあいつらが僕のことを狙っているのかな……」

 アンドレイが少しうんざりした顔で、なにを見るでもなく車窓の変わりいく景色を見ていた。

「まあ……なんとも言えんが、ドロステアに帰ってきた途端、危険が迫って来たのだけは確かだ」

 デニスは太腿の傷に巻いた止血のための布に血を滲ませながらも、表情はいつも通りの涼しい顔でアンドレイの質問に答えている。
 そんな姿でさえ、まるで戦場にいる騎士のようだ。

(オレは腕をちょっと縫っただけでも、我慢できずに痛みに叫んでたのに……)

 余裕のない自分との違いが悔しい。


「レネ、なにさっきからデニスばっかり見つめてるんだよ!」

 物思いに耽っていると、いつの間にかアンドレイがムッとした顔をしてこちらを覗き込んでいるが、なにか怒らせるようなことをしただろうか? 

「え……だって、こんな時も落ち着いてさすがだなぁって思って……」

 まさかそんなことを指摘されると思わず、レネは苦笑いする。

(アンドレイってこんな子だったっけ?)
 
「僕だって、あっちへ行ってる間に、乗馬もできるようになったし、剣の稽古だって毎日欠かしてないんだからね」

「へえ、頑張ってるんだね。だからこんなに筋肉が付いたんだ」

 何気にレネは、すぐ隣にある少し逞しくなった太腿を揉んだ。

「……ひゃっ!?」

 アンドレイが変な声を上げるので、レネもイタズラ心が湧いてもっと敏感な太腿の内側をなぞった。

「ちょっ!?」

 アンドレイはびくんと肩を揺らすと、レネの手首を掴んだ。

「おい、こら。ウチの坊ちゃまも難しい年頃なんだぞ」

 デニスがレネに苦言を呈す。

「ごめん。ついつい。団員たちとのノリでやっちゃった」

 レネはなんの悪びれもなくアンドレイに謝るが、アンドレイはますます怪訝な顔をしてレネを横目で睨んだ。

「レネはこんなこと、いつもあの赤毛の奴らとやってんの?」

 前屈みになり自分の膝を両手で抱え込むようにしながら、アンドレイがまた意味不明な質問をしてくる。

「え? だってさ、一緒に風呂入った時とか筋肉を触りあったりとかしない?」

 レネは筋肉が付きにくい体質なので、風呂場で他の団員たちの大胸筋や他の筋肉を触って、羨ましがることなんてしょっちゅうだ。

「一緒に風呂?」

 アンドレイの眉間の皺がいっそう深くなる。
 なんだか雲行きが怪しくなってきた。

(あれ? オレなにか不味いこと言った?)
 
「あのな、貴族は他の人間と一緒に風呂へ入ったりはしない」

 デニスが補足する。

「まさかレネは、いっつも他の団員たちと風呂に入ってるの?」

 まるで信じられないものでも見るように、アンドレイはレネを見つめる。

「一応自分の部屋にも風呂あるけど、本部に大浴場があるから皆で仕事が終わったら一緒に入ることが多いかな……」

「えっ……!?」

 驚きの声と共にますます大きく瞳が見開かれ、今度はレネの方がたじろいでしまう。
 ここに来て初めて、レネはアンドレイとの身分の差を実感した。

(——でもちょっと待て……そんなことないだろ?)

「でも、テプレ・ヤロは貴族も普通に一緒に風呂入ってたよ……?」

「——温泉保養地の?」

 急に出て来た地名に、アンドレイは胡乱な目をして、どこに話が飛んでいくのか様子を窺っている。
 レネはそんな様子を気にもせず、テプレ・ヤロの苦い思い出を口にする。

「そうそう。でもなんであそこ、パンツだけ穿かないといけないのかな? オレなんかぴらっぴらのレースの穿かされてウンザリだったよ……」

 長い付き合いの者たちには周知の事実だが、レネは思ったことがそのまま口に出るタイプだ。
 
「——お……お前、テプレ・ヤロでなんでそんな格好してたんだ?」

 普通、テプレ・ヤロに行ったとしてもレースのぴらっぴらの下着なんて穿かない。だがレネはあの経験がすべてだったので、そんなことも知らない。
 先程の雄牛の襲撃ではまったく動揺を見せなかったデニスが、明らかに驚きの表情をしている。

「え……護衛で愛人のふりしてたんで」

 あの時は護衛対象がハヴェルだったので少し無理な設定でも我慢した。

「——愛人……」

 アンドレイがどこか遠い目をしている。

「……お前……仕事でそんなことまでさせられてるのか?」

 デニスは完全に呆れた顔だ。

「あくまでもふりですし、普段はそんなこと絶対にしませんって」

 二人の顔が真剣にレネのことを心配している。

 実はリンブルク伯爵もテプレ・ヤロで偶然出会って、レオポルトから怪しい薬を飲まされ、デニスの兄のラデクから危機を救ってもらったなんて口が裂けても言えない状況だ。

(つい口を滑らせちゃったな……)

「じゃあ……僕とも一緒にお風呂に入ってって言ったら入ってくれる?」

 いきなり手を握ってアンドレイが真剣な顔で訊いてくる。

「……え? 二人入れるような広い風呂だったら別に構わないけど」

 この少年はなにを言っているのだろうか?

「却下だ」

 デニスがすぐさま、アンドレイのお願いを跳ね除ける。

「どうしてだよっ! 別にいいだろ?」

「男同士で、なんでわざわざ裸になって一緒の風呂に入る必要がある? おかしいだろ」

 確かにデニスの言うように、大浴場ならまだしも、二人だけで一緒に入りたいというアンドレイの意図が掴めない。

「じゃあ男同士じゃなくて女の子とならいいの?」

 これにはデニスも息を詰まらせるが、すぐに言い返す。

「そんなの駄目に決まってるだろっ」

 大事な伯爵家の跡継ぎに、間違いが起こっては困る。
 特にお付きの騎士となれば、その辺は普段から目を光らせているだろう。

「そうだよね。女の子との方が問題だよね。レネはさっき『構わない』って言ってくれたから、男同士だし別になにも問題ないよね?」

「……お前……」

 デニスは次の言葉が出てこない。

「ただ一緒に入浴するだけなのに、なんでそんなに反対するんだよ。だってレネはいつも団員たちと一緒に入浴してるんだよ。ねえ?」

「うん」

 その通りなので、レネは素直に返事をする。

「——じゃあ、構わないよね」

「アンドレイ……」

 どうやらこの勝負、主が勝利したようだ。

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