菩提樹の猫

無一物

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8章 全てを捨てて救出せよ

4 避難場所に選んだのは

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◆◆◆◆◆

 
 何度目かのノックの後に、扉の奥から物音がした。

(よかった……留守じゃなかった)

 レネは思わず安堵の溜息を漏らす。
 なぜ閑静な住宅街に部屋を借りれるのかはわからない。
 だが今は、それを利用させてもらうしかない。

「誰だ……」

 怪訝な目が、扉の奥から覗く。
 なんだか物凄く機嫌が悪そうなので、レネは小声でそっと答える。

「オレ……」

「——おい、なんでお前がここにいるんだ……」

 静かだが、猛吹雪が吹き荒れてるかのような低く冷たい声が聞こえる。

「……もしよかったら……泊めてもらえないかな……?」

 レネはすっかり気圧されて、最後の方は蚊の鳴くような声になる。

「…………」

 部屋の主は無言で考え込んでいる。

「ロランド……誰か来てるの? あら、綺麗な子」

 後ろからガウンを着た女が覗いてる。

(——あ……もしかして、イイところで邪魔しちゃった……)

 そうだったら、誰だって不機嫌になる。

「ごめんだけどクリスチーナ、弟が大事な話をしたいって訪ねて来たんだ。埋め合わせは必ずするから今日は帰ってくれないか?」

 レネとロランドは灰色とアッシュブロンド、黄緑と翡翠、と言った風に髪と瞳の色が若干似ている。
 そして団では珍しくロランドは(外見だけは)優男なので、兄弟と言っても通用しないこともない。

「えーーー……」

「すまない」

 しばらくして、クリスチーナは着替えをすませて、不機嫌な素振りを隠しもせずに帰って行った。
 扉の横でずっとその様子を見ていたレネは、なんだか申しわけない気持ちでいっぱいだった。

「ほら、入れよ」

 ロランドが扉を開けて室内へと招き入れる。
 先ほどは恐ろしくて直視できなかったが、ロランドもガウンを着てくつろいだ格好だ。
 本当に自分はお邪魔だったようだ、とレネは再認識する。

「お邪魔します……」

 初めて入る部屋に、きょろきょろと周りを見回す。
 部屋は綺麗に整えられ、いかにもロランドの好みそうな派手ではないが品のある家具で統一されていた。
 居間に通されるとソファに座るよう促される。

「なんだよ? 家出か?」

 ロランドは、ひじ掛けのある猫足の椅子に優雅に足を組んで座ると、サイドテーブルにあるクリスタルの瓶から、琥珀色の酒を注いでグイっと呷った。

「あんたは今日のこと聞いてる?」

 レネは身体を縮こまらせたまま、上目遣いでそっとロランドを窺う。

「あれか? 団長の実の息子が訪ねて来たってやつか」

 長い髪を搔き上げながら、ロランドはもう一杯酒をグラスに注いだ。

「うん。あんたが抜けた仕事にオレが行くことになって執務室で打ち合わせしてたんだ。そこで息子に遭遇したんだけど……たまたまその息子は最近知り合いになった奴だったんだ。そいつは凄くいい奴で……」

「それと、お前の家出になにか関係あんのかよ?」

 だんだんとロランドがイラついて来ている。
 レネの喋り方がウジウジしてじれったいのだ。

「実の息子が見つかったんだし……オレはもういいかなって……」

 じっと見据えられる。
 冷たい灰色がかった翡翠色の目が、レネの心の中を覗き込んでくるようだ。

「お前、馬鹿だろ? お前が生きていく場所はあそこだろ?」

「わかってるよ。リーパを辞めるつもりはない。でも……オレもう成人したし、団長の養子である必要はないかなって……」

「そんなの俺に言うことじゃねーだろ。団長に直接言って来いよ」

 やはり、この男らしい反応だ。
 でもこれくらい正論をズバリと言われた方がレネにとっても気が楽だ。

「うん、だから直接言ったら、『出て行け』って言われた……」

「…………」

 しばらく考え込んだ後、ロランドは立ち上がり奥の寝室へと入り、なにやら腕に抱えて来た。

「俺はな、猫は寝室に入れない主義なんだ。ほら、寝るならそこだ」

 そう言うと、手に抱えたブランケットをレネの方へと放り投げる。
 ロランドが仕事で使っているものより上等な作りのそれは、この男のプライベートの部分にまで踏み込んでしまったという実感をレネに湧かせた。

「ありがとう」

「ほとぼりが冷めるまでしばらくここにいればいい」

 そう言い残し、ロランドは寝室へと消えて行った。

「……ありがとう……」


◆◆◆◆◆


 バルナバーシュは久しぶりにハヴェルの屋敷を訪ねた。
 お屋敷通りから少し入った、金持ちの邸宅が並ぶいわゆる高級住宅街にハヴェルの屋敷はあった。
 以前はもっと小さな家に住んでいたが、今は数年前に親戚からの相続で、一人で暮らすには持て余すような広さの屋敷で暮らしている。

 だが、なかなかこの男は身を固めることをしない。
 バルナバーシュも人に言えた身ではないが。

「お前がこっちに来るって珍しいな……」

「ふん。あそこにいたくない時もあるんだ」

 レネとはあれから顔を合わせていない。
 周りの団員たちも、自分そっくりの青年が訪ねてきて、事情を察したようで妙によそよそしい。

「どうしたよいったい?」

「今日、実の息子が本部を訪ねて来た」

「——は?」

 やはり、期待通りのリアクションをしてくれるこの親友を、バルナバーシュは愛しく思う。

「恐ろしいくらい、俺の若いころにそっくりだったぞ。ただ、俺の顔を一度見ておきたいと思っただけみたいだ。悪い奴じゃなかったが、特別感慨も湧かなかったな……」

 あんなに会いたがっていた子供が自ら訪ねて来たというのに、親友から飛び出した言葉はそっけないものだった。
 それだけバルナバーシュの心に空いた穴を、レネが埋めていたともいえる。

「レネは? あいつなにも知らなかったろ?」

 その時の様子をバルナバーシュは、親友に詳しく話して聞かせる。

「お前……流石に『出て行け』はないだろ。実の息子が出てきた時に養子のレネに言う言葉か?」

 親友は案の定、開いた口が塞がらないような顔をしている。

(俺だって言い分があるんだ……)

 バルナバーシュは今でも心に刺さった、あの言葉を思い出す。

『自分が十一のとき、団長が副団長を師に選んでくれたことは、今では感謝しかありません。本当にありがとうございました』

 これを言われた時、バルナバーシュは……嬉しさとは違う気持ちがこみ上げてきていた。
 苦渋の決断をして自分は身を引き、結果ルカーシュが剣の師匠として、レネを強い男へと育て上げた。
 この決断は今でも間違っていなかったと思う。
 だが……寂しい心だけが自分の中に残った。

(じゃあ、俺はあいつのなんなんだ?)

 ただの団長と団員の関係でしかない。
 もう自分の入る余地はどこにもないじゃないか。
 そこに今日の極めつけだ。

『実の息子がいるのに、オレ邪魔じゃないですか?』

「俺の気も知らないで……」

 レネの中に、自分の居場所は完全になくなった。

「お前、馬鹿かよ。なんでお前ら親子はそんなすれ違ってばっかりいるんだよ。色恋沙汰じゃないんだから、ウジウジすんじゃねーよ気持ち悪ぃ……団員たちがお前のこんな姿見たら失望するぞ……」

 一人で物思いに耽るバルナバーシュへ、心底呆れた顔をしてハヴェルは説教する。
 そんなことを言われても仕方ない。おっさんになったってウジウジする。

 おまけに年を取ってから妙に涙もろくなってしまった。
 この前だって、私邸の方に預かっていたヴィートの妹ミルシェの引受先が決まった時に、たまたまバルナバーシュは兄妹が別れる場面を目撃してしまい、物陰に隠れてそっと涙した。
 鬼のようだと団員たちから恐れられるバルナバーシュとて、人の子なのだ。


 翌日になって、バルナバーシュは自分の失言を後悔した。

「あいつ本当に出て行きやがった……」

 昨日、レネは自分の部屋に帰って来なかった。
 自分が『出て行け』と言ったのだから当たり前か。

(成人過ぎた野郎の心配をしてどうする……)

「そりゃあそうでしょうよ。ハヴェルさんの家は?」

 九年前のできごとを思い出したのだろう、ルカーシュはそう訊き返した。

「それが来てないらしい」

 そこへコンコンと扉を叩く音がする。
 執務室にロランドが訪れ、開口一番にこんなことを言った。

「ご報告があります。昨日から迷い猫が一匹、ウチに居付いていますが……」

「なんだ……お前のとこにいたのか……すまんが、しばらく面倒見てやってくれ」

 レネがロランドの所に身を寄せているということにバルナバーシュは一瞬おどろくが、追い出したのは自分だと思い出すと、再び苦い顔になる。

(まだ把握できる所にいてくれるだけマシだ……)

「私はかまわないですが、けっこう悩んでるみたいですよ」

 なにやらもの言いたげに翡翠色の目がこちらを見つめてくる。

「わかってる」

(ああ、俺のせいだよ……)

 でも……あれは思わず出た言葉で、本意ではなかった。
 昨日ハヴェルに説教されたばかりだ、これ以上ウジウジしている姿を他人に見せたら駄目だ。
 バルナバーシュぐっと腹筋に力を入れ、気を引き締める。

「——それともう一つ、団長たちのお耳に入れておいた方がいいと思って……」

 そう言うと、ロランドはなにやら話を始めた。

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