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7章 サーベルを持った猫
5 甘いタバコとベルガモット
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◆◆◆◆◆
「——泣かないで。大丈夫だよ」
レネは隣でシクシクと泣き続ける、金髪の女の子に話しかける。
この部屋に連れて来られてどのくらい経つだろうか。
ハヴェルの家に行っている途中で、変な男に捕まってここへやってきた。
部屋は妙な造りになっていて、手前は普通の部屋なのだが、奥に柵があり牢屋になっていた。
現在レネはその中へ入れられている。
既に同じ年くらいの女の子が入っていて、恐ろしさのためかずっと涙を流し続けている。
手前の部屋の部分で、五、六人の男たちが酒を飲んでいた。
男たちに聞こえないような小声で、レネは女の子に話す。
『大丈夫。バルが来てくれる。バルは騎士様でとっても強いんだよ。前にも僕が殺されそうになった時に助けに来てくれたんだ。今度も助けに来てくれるから泣かないで』
隣で、女の子が泣いていると、レネまで絶望の淵に落とされて泣きたくなってしまうのだ。
家出をした自分をバルが助けに来てくれるなんて虫がよすぎる。
しかしそうでも思っていないと、不安と恐怖で小さな心が押しつぶされそうになる。
だからレネは、小さな希望にすがりついて、なんとか自分を保っていた。
「髪は金髪じゃないけど、恐ろしく上玉だ。ちょっと毛色の変わった猫みたいで、ありゃあ高値が付くぞ」
手前の部屋で酒を飲んでいる男たちが、こちらをジロジロ見ている。
「でも、さっき便所に連れて行ったら、立ってしょんべんしてたぞ?」
「お前、わかってね~な、だから高値が付くんだよ」
「俺にはわからん世界だわ」
「子供に手ぇ出すなんて俺たちから見ても下種だよな」
「はははっ、でもそれで金を稼いでる俺たちも——」
ドンっ。
「おい、外でなにか音がしなかったか?」
「見張りがいるだろ?」
一人が、扉を開けて廊下の様子を確認しようとしたその時——
男が廊下に吸い込まれるように姿を消した。
「グェッ……」
呻き声とともに、床に物が落ちる鈍い音がする。
「おいっ、どうした!?」
男たちは一斉に、腰に差していた剣やナイフに手をかける。
「——迷子の子猫を探してんだけど、あんたたち知ってる?」
なんとも緊張感のない声がした。
とつぜん現れた侵入者に、男たちは驚く。
だらしなく開いたシャツの襟元とほどけた薄茶の長い髪は、まるで遊び人のようだ。
とつぜんの乱入者は、いったい何者なのだろうか?
男たちが、ようやく腰に差した剣へ目が行った時には……もう手遅れだった。
細い、いかにも軟弱そうな若い男が、次々と屈強な男たちを倒していく。
レネはそのあまりにも見事な剣さばきに、圧倒された。
(この人は……なんなの)
サーベルのような片手剣で、まるで舞でも舞っているかのように美しく、そして力強い太刀筋だ。
強い男といえば、『両手剣で力強く戦う屈強な男』というレネの概念を覆す衝撃を与える。
リーパ団の鍛練を見るようになって、レネは片手剣を使う男たちの、どこかちょこまかと戦う姿が好きになれなかった。
臆病者の戦い方にしか見えなかったからだ。
両手剣のズバリと決まる太刀筋の美しさに勝るものはないと思っていた。
だが、この男の片手剣の使い方は違う。
前と後ろ一太刀で同時に攻撃するかと思えば、打撃や蹴りも鮮やかに織り交ぜている。
レネは見ているだけで心躍らされた。
こんなに、伸びやかな美しい片手剣の戦い方があるのか。
あっという間に男たちを倒した侵入者は、柵の所まで来てレネたちの入っている扉を開けようとする。
鍵がかかっていることに気付くと、針金のような物を取り出して、カチャカチャといとも簡単に鍵を開けてしまった。
女の子が、レネに尋ねる。
「あの人がバルなの?」
「いや……知らないひと——」
言いかけた所で、扉を開けて入って来る男と目が合った。
青と茶の混じった独特の色の瞳。
(どこかで見たことある……)
「あっ……!?」
「なにが知らない人だよ……」
男が髪を搔き上げながらこちらを見下ろす。
「……る……ルカーシュ?」
いつもは髪をきっちりと結び、リーパのサーコート着込んだ姿しか、レネは知らない。
レネの知っているルカーシュは、こんな喋り方もしない。
まるで別人みたいな危険な香りのする男に、レネはたじろぐ。
「ほらっ、早くここを出るぞ」
ルカーシュは二人の子供の手を引いて歩き出そうとするが、レネは顔をしかめて前に進めない。
「どうした?」
「……足が」
ここに連れてこられた時に、男から逃げて転んで足を捻ってしまったのだ。
「なんだ、怪我してるのか?」
ルカーシュは仕方ないという顔をして、レネの前に屈む。
「えっ……」
「ほら、なにやってんだ早くおぶされ」
これ以上待たせたら、このまま置いて行かれそうなので、レネは恐る恐るルカーシュの後ろから首に手を回す。
ルカーシュは勢いを付けて立ち上がると、片方の手で女の子と手をつなぎ、三人で建物の外へと出た。
外では『赤い奴等』が入り口を固めて待機していた。
「子供はこの通り無事だ。奴らは中で伸びてるから早く捕まえてくれ。ほら、帰るぞ。」
女の子を『赤い奴等』に預けると、ルカーシュはレネを背負ったまま、宿屋通りを北に向かって歩きはじめた。
ルカーシュが来たってことは……ある答えにたどりつき、レネは一気に絶望の淵へと突き落とされた。
がんばって耐えていたものが、堰を切ってあふれだす。
(——やっぱり僕は、バルに見捨てられたんだ……)
滝のように涙が流れ、垂れた鼻水をすする。
「おい……いま人の髪に鼻水付けたろ、クソガキが……」
ルカーシュに文句を言われても、レネは泣き止むことができなかった。
助けに来たのが赤の他人だったらよかった。
ルカーシュが来たということは、バルもぜったいこのことを知っている。
(それなのに……バルは僕を助けに来てくれなかった……)
「……お前捨てられたと思ってんのか?」
戦っている時はかっこよかったのに、確信を突いてくるこの男はやっぱり嫌いだ。
「だって……」
「お前が弱いままだと、バルは見向きもしてくれないままだぞ」
普段は団長と呼んでいるくせに、どうして自分と同じ『バル』呼びなのだ。
「だって……」
「だってばっかり言うんじゃねぇよっ! お前は本当に強くなりたいのかっ!」
泣いていようが、この男は容赦なく怒鳴りつける。
「……うっ……強くっなりたい……」
街の光が、涙で滲む視界に尾を引いて……ルカーシュが揺れる度にジグザグと黄色い線を描く。
なにもかもが思ったとおりにならない。
今は自分を助けてくれた……この背中さえ憎かった。
『お前は俺が強くしてやる』
あの夜にバルが言った言葉を思い出し、自分の身の上に起こる不条理に、レネはわんわんと声を上げて泣いた。
(——嘘つき……)
レネはずっと、バルみたいに強い男になりたいと思っていた。
両親が殺されるのを黙って見ているしかできなかったのは、自分が弱かったからだ。
大切な人を守ることができる強さが欲しい。
しかし……バルはもう自分に剣を教えてはくれない。
目の前に突きつけられた現実は、厳しいものだった。
(——でも、僕はどうしても強くなるんだっ!)
この思いだけは、心の支えにしてきたバルに見限られようとも、変わらなかった。
「お前、俺になにかお願いすることがあるだろ?」
大声を出す気力もなくなり、ひっくひっくとしゃくり上げていると、背中を通して淡々とした声がレネの身体に直接響いてくる。
(そうだ、僕は強くなりたい)
強くなるためには——
「……ルカーシュ」
「ルカーシュは本当の名前じゃない。俺の名前はルカだ」
この男について、今日初めて知ることがたくさんある。
「——ルカ、……僕に……僕に剣を教えて下さい」
「虫がいい話だな」
逃げ出しておいて、自分勝手なことを言っている自覚はある。
でも、今のレネには他に頼る人なんていなかった。
「お願いします……僕は……強くなりたいんですっ!」
「言っとくけど、俺は厳しいからな。もう逃げ出しても無駄だぞ」
(ルカは逃げ出しても見捨てたりはしないんだ……)
裏を返せば恐ろしい言葉のはずなのに、謎の安心感に包まれる。
そう感じるほどに、バルに見限られたレネの心は傷ついていた。
今はこの背中にすがるしかない。
「——よろしくお願いします」
薄茶色の髪から香る甘い煙草とベルガモットの香りは、レネにとって両親が殺された時と同じくらい、忘れられない夜の思い出となった。
「——泣かないで。大丈夫だよ」
レネは隣でシクシクと泣き続ける、金髪の女の子に話しかける。
この部屋に連れて来られてどのくらい経つだろうか。
ハヴェルの家に行っている途中で、変な男に捕まってここへやってきた。
部屋は妙な造りになっていて、手前は普通の部屋なのだが、奥に柵があり牢屋になっていた。
現在レネはその中へ入れられている。
既に同じ年くらいの女の子が入っていて、恐ろしさのためかずっと涙を流し続けている。
手前の部屋の部分で、五、六人の男たちが酒を飲んでいた。
男たちに聞こえないような小声で、レネは女の子に話す。
『大丈夫。バルが来てくれる。バルは騎士様でとっても強いんだよ。前にも僕が殺されそうになった時に助けに来てくれたんだ。今度も助けに来てくれるから泣かないで』
隣で、女の子が泣いていると、レネまで絶望の淵に落とされて泣きたくなってしまうのだ。
家出をした自分をバルが助けに来てくれるなんて虫がよすぎる。
しかしそうでも思っていないと、不安と恐怖で小さな心が押しつぶされそうになる。
だからレネは、小さな希望にすがりついて、なんとか自分を保っていた。
「髪は金髪じゃないけど、恐ろしく上玉だ。ちょっと毛色の変わった猫みたいで、ありゃあ高値が付くぞ」
手前の部屋で酒を飲んでいる男たちが、こちらをジロジロ見ている。
「でも、さっき便所に連れて行ったら、立ってしょんべんしてたぞ?」
「お前、わかってね~な、だから高値が付くんだよ」
「俺にはわからん世界だわ」
「子供に手ぇ出すなんて俺たちから見ても下種だよな」
「はははっ、でもそれで金を稼いでる俺たちも——」
ドンっ。
「おい、外でなにか音がしなかったか?」
「見張りがいるだろ?」
一人が、扉を開けて廊下の様子を確認しようとしたその時——
男が廊下に吸い込まれるように姿を消した。
「グェッ……」
呻き声とともに、床に物が落ちる鈍い音がする。
「おいっ、どうした!?」
男たちは一斉に、腰に差していた剣やナイフに手をかける。
「——迷子の子猫を探してんだけど、あんたたち知ってる?」
なんとも緊張感のない声がした。
とつぜん現れた侵入者に、男たちは驚く。
だらしなく開いたシャツの襟元とほどけた薄茶の長い髪は、まるで遊び人のようだ。
とつぜんの乱入者は、いったい何者なのだろうか?
男たちが、ようやく腰に差した剣へ目が行った時には……もう手遅れだった。
細い、いかにも軟弱そうな若い男が、次々と屈強な男たちを倒していく。
レネはそのあまりにも見事な剣さばきに、圧倒された。
(この人は……なんなの)
サーベルのような片手剣で、まるで舞でも舞っているかのように美しく、そして力強い太刀筋だ。
強い男といえば、『両手剣で力強く戦う屈強な男』というレネの概念を覆す衝撃を与える。
リーパ団の鍛練を見るようになって、レネは片手剣を使う男たちの、どこかちょこまかと戦う姿が好きになれなかった。
臆病者の戦い方にしか見えなかったからだ。
両手剣のズバリと決まる太刀筋の美しさに勝るものはないと思っていた。
だが、この男の片手剣の使い方は違う。
前と後ろ一太刀で同時に攻撃するかと思えば、打撃や蹴りも鮮やかに織り交ぜている。
レネは見ているだけで心躍らされた。
こんなに、伸びやかな美しい片手剣の戦い方があるのか。
あっという間に男たちを倒した侵入者は、柵の所まで来てレネたちの入っている扉を開けようとする。
鍵がかかっていることに気付くと、針金のような物を取り出して、カチャカチャといとも簡単に鍵を開けてしまった。
女の子が、レネに尋ねる。
「あの人がバルなの?」
「いや……知らないひと——」
言いかけた所で、扉を開けて入って来る男と目が合った。
青と茶の混じった独特の色の瞳。
(どこかで見たことある……)
「あっ……!?」
「なにが知らない人だよ……」
男が髪を搔き上げながらこちらを見下ろす。
「……る……ルカーシュ?」
いつもは髪をきっちりと結び、リーパのサーコート着込んだ姿しか、レネは知らない。
レネの知っているルカーシュは、こんな喋り方もしない。
まるで別人みたいな危険な香りのする男に、レネはたじろぐ。
「ほらっ、早くここを出るぞ」
ルカーシュは二人の子供の手を引いて歩き出そうとするが、レネは顔をしかめて前に進めない。
「どうした?」
「……足が」
ここに連れてこられた時に、男から逃げて転んで足を捻ってしまったのだ。
「なんだ、怪我してるのか?」
ルカーシュは仕方ないという顔をして、レネの前に屈む。
「えっ……」
「ほら、なにやってんだ早くおぶされ」
これ以上待たせたら、このまま置いて行かれそうなので、レネは恐る恐るルカーシュの後ろから首に手を回す。
ルカーシュは勢いを付けて立ち上がると、片方の手で女の子と手をつなぎ、三人で建物の外へと出た。
外では『赤い奴等』が入り口を固めて待機していた。
「子供はこの通り無事だ。奴らは中で伸びてるから早く捕まえてくれ。ほら、帰るぞ。」
女の子を『赤い奴等』に預けると、ルカーシュはレネを背負ったまま、宿屋通りを北に向かって歩きはじめた。
ルカーシュが来たってことは……ある答えにたどりつき、レネは一気に絶望の淵へと突き落とされた。
がんばって耐えていたものが、堰を切ってあふれだす。
(——やっぱり僕は、バルに見捨てられたんだ……)
滝のように涙が流れ、垂れた鼻水をすする。
「おい……いま人の髪に鼻水付けたろ、クソガキが……」
ルカーシュに文句を言われても、レネは泣き止むことができなかった。
助けに来たのが赤の他人だったらよかった。
ルカーシュが来たということは、バルもぜったいこのことを知っている。
(それなのに……バルは僕を助けに来てくれなかった……)
「……お前捨てられたと思ってんのか?」
戦っている時はかっこよかったのに、確信を突いてくるこの男はやっぱり嫌いだ。
「だって……」
「お前が弱いままだと、バルは見向きもしてくれないままだぞ」
普段は団長と呼んでいるくせに、どうして自分と同じ『バル』呼びなのだ。
「だって……」
「だってばっかり言うんじゃねぇよっ! お前は本当に強くなりたいのかっ!」
泣いていようが、この男は容赦なく怒鳴りつける。
「……うっ……強くっなりたい……」
街の光が、涙で滲む視界に尾を引いて……ルカーシュが揺れる度にジグザグと黄色い線を描く。
なにもかもが思ったとおりにならない。
今は自分を助けてくれた……この背中さえ憎かった。
『お前は俺が強くしてやる』
あの夜にバルが言った言葉を思い出し、自分の身の上に起こる不条理に、レネはわんわんと声を上げて泣いた。
(——嘘つき……)
レネはずっと、バルみたいに強い男になりたいと思っていた。
両親が殺されるのを黙って見ているしかできなかったのは、自分が弱かったからだ。
大切な人を守ることができる強さが欲しい。
しかし……バルはもう自分に剣を教えてはくれない。
目の前に突きつけられた現実は、厳しいものだった。
(——でも、僕はどうしても強くなるんだっ!)
この思いだけは、心の支えにしてきたバルに見限られようとも、変わらなかった。
「お前、俺になにかお願いすることがあるだろ?」
大声を出す気力もなくなり、ひっくひっくとしゃくり上げていると、背中を通して淡々とした声がレネの身体に直接響いてくる。
(そうだ、僕は強くなりたい)
強くなるためには——
「……ルカーシュ」
「ルカーシュは本当の名前じゃない。俺の名前はルカだ」
この男について、今日初めて知ることがたくさんある。
「——ルカ、……僕に……僕に剣を教えて下さい」
「虫がいい話だな」
逃げ出しておいて、自分勝手なことを言っている自覚はある。
でも、今のレネには他に頼る人なんていなかった。
「お願いします……僕は……強くなりたいんですっ!」
「言っとくけど、俺は厳しいからな。もう逃げ出しても無駄だぞ」
(ルカは逃げ出しても見捨てたりはしないんだ……)
裏を返せば恐ろしい言葉のはずなのに、謎の安心感に包まれる。
そう感じるほどに、バルに見限られたレネの心は傷ついていた。
今はこの背中にすがるしかない。
「——よろしくお願いします」
薄茶色の髪から香る甘い煙草とベルガモットの香りは、レネにとって両親が殺された時と同じくらい、忘れられない夜の思い出となった。
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