菩提樹の猫

無一物

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1章 伯爵令息を護衛せよ

19 幕がはがれ……

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「レネっ! 怪我してるの?」

 デニスに大人しく抱えられたレネを見つけ、アンドレイが駆け寄ってきた。

「大丈夫だよ。脇腹を掠っただけだから。デニスさんが大げさなんだよ」

「——血が……」

 レネは笑って安心させようとするが、地面に点々と落ちる血を見て、アンドレイの表情が凍り付く。
 様子を嗅ぎつけて、カレルも走り寄ってきた。あんなにレネのことを気にかけていたので、さぞかし心配するだろう。

 しかし、デニスの腕の中にいるレネを見ても顔色を変える様子はない。

(レネが怪我してるんだぞ?)

 逆にデニスが動揺する。もっと大騒ぎすると思っていたのに、アンドレイも肩透かしを食らった顔をしている。

「チッ、猫が一人で美味しいとこ取りかよ」

 カレルは奥に転がっている死体を一瞥し、面白くなさそうにレネの頭をクシャクシャとかき回した。
 まるで獲物を横取りされたと、悔しがっているみたいだ。

「カレル、後ろにボフミルが伸びてる。あとは殺ったからあいつに全部吐かせないと……」

 レネは必死に訴える。
 苦し気に……血の気を失った唇から紡ぎだされた酷薄な言葉に、デニスはまるで別人が喋っているかのような違和感を感じた。

「やっぱり一人で殺ったのか」

 カレルは小声で悔しそうにつぶやく。

「……早くしないと目を覚まして逃げる……」

「はいはい、わかったから。お前はあそこでじっとしてろ」

 そう言うとカレルは幌馬車の方を指さした。

(——なんだ? この二人の会話は……)

 幌馬車まで行くと、ちょうどロランドが岩壁の隙間に隠れていた御者を捕まえて、こっちに連れて来ているところだった。
 レネを一瞥すると、冷たく言い放つ。

「早く幌の中に入って。……ったく、怪我なんかしやがって。ポリスタブにボリスがいるからそこまで我慢しろ」

 怪我人の頭を軽く叩くと、ロランドは近くにあった毛織物を敷いて人を一人寝かせられるスペースを作る。
 ロランドの素の姿を垣間見てデニスは目を白黒させるが、言葉の内容はそれ以上にデニスを悩ませた。

 確かボリスはレネに書置きをしていた知人だ。なぜロランドが知っているのだ?

 デニスは先ほどから三人の会話に、違和感を覚えていた。
 舞台の幕がぱらりと剥がれ、隠していた舞台裏がいきなり目に入ってきたような……そんな錯覚に眩暈を感じた。

「ぼーっとしてないで、レネをそこに寝かせて」

 ロランドに注意され、はっとデニスは我に返ると、敷物の上に壊れモノを扱うかのようにそっとレネを横たえる。
 手早くレネのシャツを捲ると、ロランドは脇腹の傷を確認した。

「内臓はいってないけど……出血が酷いな……デニスさん消毒するから、両足押さえてもらってていい? 坊ちゃんは、レネを足で挟んで頭を抱えて……そう。こいつ足グセ悪いから蹴られないように気を付けて」

 テキパキと指示すると、荷物から度数の高い酒を出してきて、水のようにバシャバシャとかけて傷口を開いて洗った。

「ぐッ……ううッッ」

 激しい痛みのため、レネがくぐもった声を上げながら暴れるので、デニスとアンドレイは二人がかりで身体を押さえ付けた。

 アンドレイをふと見ると、まるで自分が痛みを受けているように顔を歪めてボロボロと泣いている。涙がレネの頬にぱたぱたと落ちて、薄っすらと開いた瞳の目尻に溜まりこめかみへと流れる。まるでレネが泣いているみたいだ。

「どうだ、大丈夫そうか?」

 幌の後ろからカレルが入ってきた。縛り上げ、猿轡に目隠しまでしたボフミルをまるで物のように、ごとりと荷台の隅に転がす。

「致命傷じゃないけど早くボリスに診せた方がいい。俺がカスタンに乗って先にボリスを呼んで来るから、カレルはここを頼む。御者もいるしお前たちもこの馬車でポリスタブに向かえ。デニスさん、この布で傷口を押さえて止血して。ああ、やっぱり震えがきてるか……おい、そっちに毛布があっただろ?」

 まるで戦場の軍医のように、ロランドは的確にそれぞれに指示を出していく。
 失血でこれ以上身体が冷えないように、血濡れた服を脱がせカレルが持ってきた二枚の毛布にすっぽりと包む。

 デニスは指示に従いながらも、頭の中でロランドの言葉がぐるぐると回っていた。

(カスタン? どうしてレネの馬の名前を……)

「膝を立てさせて、この態勢の方が腹が楽だから。坊ちゃんは身体を冷やさないように、上半身を包んで温めてやってください。じゃあ、俺は先に行くから、後は頼んだぞ」

 動こうとしたロランドを、レネが掠れた声で呼び止めた。

「……ロランド、アネタには……オレのこと黙ってて……」

 ロランドは「はぁ」と呆れたように溜息をつく。

「わかったよ……ボリスだけ上手く連れ出してくるから、大人しく寝てろ」

 そう言い残し、ロランドは自分の荷物を持ちひらりと外へと飛び降りた。

「——さて、俺たちも出発するか」

 カレルは御者に合図を出すと、馬車を出発させた。
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