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25.自覚

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 ひたすら走った。とにかく足を止めたくなかった。必死に目を逸らそうとしているものが、わたしを追いかけてきているような気分だった。
 人通りの多い道を避けているうちに小さな橋に出た。緩やかな川のせせらぎだけが聞こえる。居住地区なのか建物は所狭しと並んでいるけれど、幸いにも人通りが全くなかった。

「(良かった…誰もいない)」

 今は誰にも会いたくなかった。知り合いはもちろん、知らない人にすらも見られたくない。それくらい今の自分がおかしいという自覚があった。
 全速力で走ったことであがっている息を整えるついでに、橋の欄干に手を添える。レンガがひんやりとしていて気持ち良い。

「(絶対変に思われたよね…でもあれ以上あの場にいたら、余計な事口走りそうだったし…)」

 頭を冷やそう。次に顔を合わせたときに、いつも通り振舞えるように。ちょうど静かな場所だし、落ち着くには都合が良い―――「アシェラ!」
 聞こえてきた声は幻聴だと思いたかったが、こちらに駆けてくる足音と気配を同時に捉えてしまった。一瞬また走って逃げようかと思ったが、間違いなく向こうの方が早さも持久力もある。身体強化の『魔道具』を使おうか本気で迷ったけれど、その間に声の主――リオスさんが隣に立ってしまった。さすがにこの状況で逃げる選択は取れない。

「急にどうしたんだ」
「えっと、今日回りたいところがたくさんあって…」
「それならオレが案内するって言ったはずだけど?」
「リオスさんは、その、あれです、クロエちゃんと話していましたし」
「世間話だろ? 今日急ぎの用事はなかったし、言ってくれればオレもすぐ出たよ」
「すみません、警備隊としてはわたしは部外者なので、おふたりの会話を邪魔するのは良くないかと思って…」

 嘘ではない。確かにそういった気持ちもあった。でもとにかく今はこの場を誤魔化さなければという一心だった。
 リオスさんは苦笑して、「気を遣わせて悪かったな」と苦笑した。その反応に罪悪感を抱いたけれど、訂正することはできない。だって、わたしの本心は…

「それでどこに行きたいんだ?」
「え?」

 驚いて顔を上げた。相変わらず綺麗なエメラルドグリーンが柔らかく細められている。陽の光の下だからか、いつもより一層煌めいて見えた。今日初めて彼としっかり目を合わせたと、その時気付く。

「回りたいところがたくさんあるんだろ? 連れていくからさ」

 決して褒められた態度ではなかったのに、リオスさんは全く責める様子もなく笑った。その混じりけのない善意に、そっと目を逸らした。そんなに真っ直ぐ言われたのでは、断ることができない。これ以上彼をないがしろにするのは自分の良心が許せなかった。

「じゃあ…まずは時計台に行きたいです。街のシンボルだって聞いたので」
「了解。じゃあこっちから行こうか」

 お願いしますと頭を下げた。そうするとリオスさんはただにこりと微笑んでくれる。罪悪感は胸の奥にしまいこんで、何とかその笑みに返すよう口角を上げた。



「この時計台はレフィルト建国と同時に建てられた。非常に歴史のある建物だから昔からのやり方を尊重して、ウチでは珍しく基本魔法は使わずに整備士が管理している」
「間近で見ると大きいですね」
「建物の中も途中までなら入れるよ。さすがに時計がある最上階とかは基本立ち入り禁止だけど。オレも一応この近くは飛ばないように気を付けているしな」


「ここは中央広場。見ての通り住民たちの憩いの場だ。基本緑と噴水とベンチくらいしかないが、祭事には出店が並んだりして賑わう」
「おお、最初に通った正面玄関の門があんな小さく…」
「門と王城のちょうど真ん中くらいにあるからな」
「出店って次いつ頃並びますか? ぜひ見てみたいのですが」
「ちょうど十日後に即位記念祭があるから、その日に見られると思うぞ」
「それって今の王が即位した記念のお祭りってことですか? 何とタイミングの良い…」
「ああ。まあその日は街をあげての祭りになるから、この広場に限らず街中でいろいろ店が出ていると思うけど」
「わあ、楽しそう。それはわたしも見て回っても良いものですか?」
「もちろん。ただ当日はいつもより外部の人間が多く入るし、警備隊も総出で街の警護に出る。もし見る場合は念のため、いつもより警戒するようにな」
「リオスさんわたしの保護者ですか」
「今は似たようなものだろ」


「これは図書館。ウチではここが一番大きいし、規模通り蔵書数も一番だ。ライリット国には冊数も種類も勝てないと思うが、アシェラが調べたがっていた魔法についての資料はたくさん見つかると思う」
「わたしまだ手続きしていないので正式なレフィルトの住人じゃないんですが、使えるんですか?」
「アシェラはライリット国の身分証明書があるだろ? あれがあれば大丈夫だ」
「ようやく真っ当に日の目を見る時が…!」



 その後もいくつか案内してもらった。リオスさんは有名どころはもちろん、街の主要なお店だとか、『魔道具』を扱うお店も細かく説明してくれて。
 いろいろ歩き回って、ひと段落した頃にはすっかり空が茜色に染まっていた。さすがに疲れたからと、今は中央広場に戻ってベンチにふたりで腰かけている。

「今日案内できるのはここまでが限界かな。首都以外にも見せたい場所は色々あるんだけど、そこまで行くとさすがに旅行みたいになるし」
「充分ですよ。どうもありがとうございます」

 生活の拠点となるこの街のことをひとまず知りたかっただけですし。そう言えば、リオスさんは「それなら良かった」とフードの向こうで笑った。
 彼は案内を始めてくれてからすぐに初めて会ったときと同じように黒いフードを目深に被っていた。曰く「割と顔が知られているから見つかると面倒」とのこと。警備隊の隊長という立場ならさもありなん。

「良かった。アシェラ、元気になったな」
「え…」
「クリンゲル店で会ってから、何かよそよそしかっただろ」

 気付かれて当然だろう。何も答えられずにいると、「まあ色々あったからな」とこれで終わりだというように前を向いた。

「…なんで、何も聞かないんですか?」

 無意識に呟いていた。慌てて口を抑えるがもう遅い。
 リオスさんの顔の向きがこちらに戻ってきている。フードの向こうから感じる視線から逃れるように俯いた。いざ聞かれたら困るくせに、自分で自分の感情を整理できていないくせに、何余計なことを言っているんだ。

「アシェラが話したいなら聞くけど。何も言わないってことは、たぶんそうじゃないんだろ? だったら別に聞かないよ。誰にだって話したくないことくらいあるものだし」

 リオスさんの口元が緩く弧を描いて、微笑んでいるのが見て取れた。今は見えていないエメラルドグリーンの瞳も、きっとフードの向こうで優しく細められているのだろう。
 本当に優しい人だ。俯いた視線の先、両手をきつく握りしめていたことに気づいた。意識的に指先から力を抜く。爪が掌に食い込んでいたのか少し痛かった。

「…わたし、たぶんクロエちゃんに嫉妬していたんだと思います」
「へ?」
「わたしは警備隊のお話もはっきり返事をしていないし、これからどうするかも決まっていないし、何もかも中途半端な状態で。そんな中おふたりがすごく仲良さそうで、場違いにも疎外感を感じたんだと思います。この国で唯一頼りにできるリオスさんに見捨てられたらどうしようって漠然とした不安もあったかもしれません」
「………」
「変な態度を取ってしまってすみませんでした。あと、今日は楽しかったです。ありがとうございます」

 今のわたしが口にできる精いっぱいだった。
 フードのせいでリオスさんがどう思っているのか正確にはわからないけれど、彼はやはり緩やかに口元を上にあげて「どういたしまして」と柔らかく応えてくれた。

「あ、疎外感ついでにリオスさん。なんでクロエちゃんからルカ様って呼ばれているんですか?」
「あ、あー…そうだな、そろそろちゃんと言っておくべきだな」
「はい?」
「オレの名前、正確にはルクリオスって言うんだ。近しい人にはだいたいルカって呼ばれている」

 なるほど、と思いつつ同時に首を傾げた。

「それならどうしてわたしには『リオス』って名乗ったんですか?」

 はじめて会ったとき、リオスさんはそう呼ぶように言った。だからこそわたしは彼の名前が違う―名前の並びではあるのだし、違うとは言わないかもしれない―など思いもしなかった。
 夕暮れだからか少し冷たい風が頬を撫でていった。風がリオスさんのフードを揺らす。その拍子にフードが少し浮かんで、僅かに彼の瞳が覗いた。確かに目が合っているはずなのに、その緑はわたしではない、どこか遠くを見つめている。

「…アシェラにはそう呼んでほしいって、何となく思ったんだ」

 ともすれば勘違いをしてしまいそうな言葉だったけれど、リオスさんの纏う雰囲気は甘やかなものなど欠片もなかった。むしろ物悲しいとすら感じる。
 何でそんな顔をしているんですか。そう聞きたかったけれど、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。「誰にだって話したくないことくらいある」、その通りだ。

「じゃあわたしはこれからもリオスさんって呼んで良いですか?」
「ああ、そうしてくれ」

 先ほどどこか遠くに感じたリオスさんだったけれど、そんな気配すらも感じさせないくらいいつも通りの笑みを浮かべてくれた。あのセントラムでの空と同じ表情だ。

「(うん。やっぱりわたし…)」

 必死に目を逸らそうとした。気のせいだと言い聞かせればまだ間に合うと思ったし、実際そうしようと思っていた。彼は恩人で、この国の偉い人で、わたしなど関わることすらおこがましいような人。
 でも今日、一緒に過ごしてみて分かった。これはもう手遅れだと。

「(この笑顔が好きだなぁ)」





「クロエ! いつもいつも言っているでしょう! ルクリオス様に馴れ馴れしくしすぎるなって!」
「馴れ馴れしくなんてしてない! ただ挨拶しただけよ!」
「抱き着くなんて馴れ馴れしい以外の何だっていうの!?」

 クリンゲル店のリビングで、母と娘の怒声が響き渡っていた。残念ながら唯一仲裁できる父は店に出ている。ひとりお店の方で、僅かに漏れ聞こえるふたりの声にハラハラとしながら接客中だ。

「ルカ様は許してくれるもん!」
「あの人の優しさにつけ込むのはやめなさい!」
「何よ、あたしが誰を好きになろうと自由でしょ!?」
「クロシェットっ!」

 鋭いシャラの声に、さすがにクロエが肩を震わせた。涙目のクロエを見て、シャラはため息をついて娘の肩に優しく触れる。

「…怒鳴ってごめんね。ルクリオス様があたしたち家族をレフィルト国に誘ってくれたときから、あんたがあの人を想っているのは知っているよ。それまでライリット国では息を殺しながら生きていたからね、世界を変えてくれたあの人を特別に思うのは仕方がないと思う」
「なら!」
「でもねクロエ、あんたのそれは憧れのままにしておきなさい。今のままね」
「何でよ!? それにあたしは憧れじゃなくて本当にルカ様のこと好きだもん!」
「…ルクリオス様がどういう立場の人か分かっているでしょう。 叶わない想いは抱くものじゃない」

 クロエが唇を歪ませた。シャラは彼女を悲しそうに見つめる。本当は娘も理解していることを、母も分かっているのだ。
 せめてとシャラはクロエの背中を優しく撫でた。

「ルクリオス様はこの国の第二王子であるお方よ。…あんたに辛い思いをさせたくないの、分かってちょうだい」


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