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第3章
迷える森に沈む泣き虫少女
しおりを挟む男はミハエル・ザハロフと名乗った。
「私はチェルミ州の領主を代々継いでいるザハロフ家の、現当主だ。ただの見間違いの可能性もあるというのに、遠い所をわざわざ来させてしまって、申し訳ない」
「いえ、事実確認もアストライアの仕事ですから」
緩やかな傾斜の丘を登りながら、ミハエルは隣を歩くレオに「ありがとう」と微笑むと、後ろを振り返り、アミナ達にも「すまないね」と気を配った。
丘の上には青い屋根の豪邸があった。広い庭ではムクゲが白い花を咲かせ、ブーゲンビリアのきっぱりとした赤やオレンジ、ピンクの花達が地面を鮮やかに彩っていた。
夏を謳歌する美しい花々にリナリアは頬をゆるめ、「素敵」と目元を細めさせた。
「妻が植物が好きでね。さあ、入って」
玄関ホールの床に敷き詰められた淡黄色のタイルと柔らかな茶色のタイルが可愛らしい。
白い壁に取り付けられた、同じく白に塗られた格子の上げ下げ窓から見える庭は一つの絵画のように美しく映えていた。
「かわいい家」
カントリー調の気取らない家は、家主の性格を表しているようで、心が和らぐ。
アミナはくるりと広い廊下を見回し、案内されたダイニングルームへと歩を進めた。
「妻は今、風邪をひいていてね。代わりに私のお茶を飲んでくれるかな?」
「あ、ありがとうございます!」
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
慌てるアミナとは対照的に、レオは落ち着いて茶を口に運ぶ。
二つ上の十七歳だと聞いたが、貫禄があるというか....。すごいなぁ。アミナは横目で上品にカップをソーサーへ戻すレオを眺めた。
アミナの知っているダージリンの味より、少し渋味の強い茶で喉を潤す。なんとなくカップの青い線で彩られた模様を目前に掲げると、白地に薄茶の汚れが付いていることに気がついた。
シオンには苦手な味だったようで、一度口にしてから手をつけていない。ソーサーに載せたままのカップの取っ手にも、小さな汚れがあった。
テーブルの中央にある皿に盛られたクッキーにも、食いしん坊のシオンにしては珍しく手を出さなかった。
「吸血鬼を見た、と報告があったのは一週間前。街でミルクアイス屋を営んでいるジェラートさんからの報告だった。見間違いの可能性もあると言ったのは、彼が何十年も前に見た吸血鬼とそっくりな男を見つけた、ということだからなんだ」
「.....なるほど。記憶違いということも有りうる、と」
「ミルクアイス屋のジェラートて。紛らわしい名前やな」
「ははは」
ザハロフ伯爵はシオンの言葉に微笑みを返すと、彫りの深い、少し下に垂れた目元をこすり、「無駄足を踏ませてしまっているかもしれないが、噂を聞いて不安になっている市民がいるんだ。調査だけでもして頂けると、安心できるだろう」とテーブルの上で両手の指を組んだ。
「最初に申し上げた通り、事実確認も私達の仕事です。吸血鬼が目撃された場所というのは?」
レオが促すと、ザハロフはほっとしたように顔付きを弛めた。
「メイズ・ウッズ.....。ここから北北東の方角にある、深い迷路の森だ」
一歩森の中に踏み入ると、空から地上を隠すように密集した葉が光を消し、まるでこの辺りだけ夜になってしまったようだった。
「わっわっ。暗い....!」
真っ暗な視界で、木の根に足がとられてしまう。転びそうになったアミナの腕をシオンが後ろから引き、支えた。
「見えんのか?なら捕まっとけ」
「う、うん。ありがと....シオンは大丈夫なの?」
「もう目、慣れた」
「す、すごい....」
自分よりも固い腕に手を添えると、温かな体温が指先から伝わり、強張らせていた体の緊張がゆるゆると解けていった。
アミナの左腕にリナリアがぎゅっとしがみつく。
「私も捕まっていていい?」
「!う、うん!」
か、かわいい.....!少し心細そうなリナリアの声にきゅん、と胸が高鳴り、アミナの声が上擦る。
普段、気丈に振る舞うリナリアとのギャップに萌えてしまったアミナは、私がリナリアを守る....!とひょろりと細い腕に力を込め、自身を奮い立たせた。
「灯りを」
コトリ、と固い音がした後に拳くらいの灯りがレオの顔を照らした。
彼が掲げたランタンに入れられた石の中で、炎が煌々と揺らめいている。
「わ...石の中に火がある....?どうしてですか?」
ランタンの灯りがアミナの頬を緋色に染めた。
「この石は、言望葉石という。言望葉の力を蓄えることができる特別な石だ」
「言望葉の力を蓄える...?そんなことができるんですか....。これって、誰にでも扱えるものなんですか?」
「ああ」
レオはランタンの蓋を開け、石を裏返しにした。そこには"灯りを"と文字が刻まれている。
「市販の言望葉石には、こうして文字が刻まれている。この文字を唱えれば、誰にでも石の力を引き出すことができるのだ」
「ええ!?市販って....売り物になっているところなんて、見たことないですよ?」
「まあ、そうだろうな。文明の発達が進むごとに、言望葉石の需要は減った。今となっては、営業している店自体も少なくなったらしいから」
ランタンの蓋を閉め、レオは「さあ、進もう。ジェラートという者の話では、吸血鬼は森を登っていったらしい」と森の奥を覗くように両目を細めさせた。
「ぎぃやあああぁぁ!!!」
子供の鋭い叫び声が暗闇に響き渡った。
「なんや!」
シオンとレオは素早く言身を出現させ、闇に目をこらす。
草を激しく踏み荒し、木々の間から這うように抜け出してきたのは、九、十歳くらいの少年だった。
子供は剣を構えるシオンとレオに気がつくと、「助けて!!」と必死の形相で叫んだ。
「なんやあれ!?」
「いやー!!!!」
子供の後ろから姿を表したものにリナリアは両腕を抱き締め、悲鳴を上げた。
およそニメートルはありそうな、全身が黒一色の巨大な蛙が太い太股に力を込め、少年を覆うように飛び掛かった。
「危ない!」
アミナはとっさに子供の腕を引き、抱き締める。ぬめりを帯びた蛙の腕が二人に襲いかかろうと伸ばされた。
「ウラァ!!」
蛙の横腹を蹴り飛ばし、シオンが蛙と二人の間に割り込む。
「なんや!蛙か!?ヌメる!デカ!!」
「もう一匹いる!」
木の影からまたも巨大な蛙が飛び出した。二匹目の蛙の前に今度はレオが立ちはだかる。
青ざめたリナリアが瞳を大きく見開いた。
「っ嘘!!まだいるわ!!!」
高い跳躍で現れた三匹目の蛙がアミナと子供に四本足で駆けていく。
止めようと構えたシオンに一匹目の蛙が張り手をくらわせた。
「ウオ!?」
木の幹にぶつかったシオンは、すぐに地面に下り、アミナと子供の元へ走ろうとした。
しかし、張り手をした蛙がシオンにまたもや腕を振り上げ、迫った。
「邪魔や!!どけぇ!!」
犬が駆けるよりも速いスピードに、アミナは子供を胸に抱き、蛙から庇うように体を反転させた。
刹那、激しい鈍痛が左肩を襲った。
「!!」
痛い!
そう思った時には斜面を転がり落ちていた。
「アミナ!!」
脳がグラグラと回る気持ちの悪い感覚と、ぶつかるごとに体を痛め付ける石や枝に耐え、アミナは必死に子供を離さないように腕に力を込める。
アミナを呼ぶ、シオンの声が聞こえた気がしたが、ようやく坂が終わり、ぐらつく頭をなんとか上に向けた彼女は恐怖のあまり片方の口角を上げ、震える声で笑った。
「……あは、は…」
黒蛙がアミナと子供に楕円の瞳を向け、闇に紛れるように見下ろしていた。
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