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第2章
踏み出した先
しおりを挟む教室の扉を開くと、さきほどまでのざわめきが嘘のようにシン....と静まり返った。
もうおさげも眼鏡もする必要がないというのに、今までの習慣でうっかりいつも通りにしてしまっていた。毛先をつまむように持ち上げ、自分に呆れながら教室に入ったら、これだ。
クス、と笑う声がした。
窓際でメアリーとベルがこそこそと耳打ちしながら笑うのを堪えるように口許に手を当てている。
先ほどまで談笑していたクラスメイト達はリナリアと視線を合わせないように顔を反らせ、けれど彼女がどんな反応をするのか興味を隠せない様子でちらちらと伺っていた。
なるほど。
自分の机にリナリアの教科書が切り刻まれて置かれていた。
池に沈められていた教科書達を乾かす為に自室で開いて置いていたのだが、ドライヤーで乾かした方がいいだろうと自分の持っている物より性能の良い入浴室のドライヤーを借りに行き、戻った時には教科書が二冊盗まれていた。
ダイアナは実家で療養しているし、私をどうにかしようなんてもう考えていないことは分かっていたから、油断してしまった。
誰の心にも闇はある。
ダイアナだけではなかったのだ。
リナリアは無惨な姿の教科書を手に取り、メアリーとベルを同情の目で見た。
しかし、彼女達はその視線の意味を勘違いしたのか、もう堪えきれないというように笑いだした。
他のクラスメイトが何人か、賛同するようにクスクスと笑う。「ちょっと....」とたしなめる者もいるが、この教室にできた空気はなかなか覆りそうもなかった。
リナリアは席に座り、窓を眺めた。硝子を滑り落ちていく水の跡を目で追いながら、昨晩のランドンとの会話に思いを馳せた。
ダイアナの家から戻り、しばらく自室でぼんやりとしていた時、ランドンが扉をノックしリナリアを呼んだ。
「リナリア。夕飯だよ」
「うん」
食卓に並ぶ料理にリナリアは驚いた。
「あさりの煮込みスープ?お父さん、これは....」
「まあ、食べよう」
「.....いただきます」
スプーンを手に取り、リナリアは臨むような気分であさりを口に運んだ。じゃり、と砂の感触がしてランドンに冷たい眼差しを向ける。
「ははは。レシピ通りに作っても、私だとこうなってしまうようだね」
「期待してたわけじゃないけど....。やっぱりね。....どうして急にこれを作ったのよ?だって、お父さん」
白い器のスープに視線を落とす。これは生前の母が唯一残した料理のレシピだ。
レシピといっても、ただ忘れないようにと母が自分用に書いていたメモ程度のものだが。あさりの旨味がぎゅっと入ったクリームスープは、家族で定番の料理だった。
誕生日やクリスマスなどの、特別な日の定番料理。
しかし、レシピがあるにも関わらずこれまでランドンはこの料理を作ることができなかった。
キッチンに立ち、レシピを開くと愛しい人の筆跡がそこにある。
「弱火でじっくり二十分!これは大事」
「玉ねぎはうすーくスライス」
走り書きの文字を読み進めていくと、まるで妻が隣で笑ってくれているような気がして、涙が止まらなくなってしまう。
ランドンはこの料理を作ることをやめてしまった。
リナリアの問う瞳にランドンは「どうしたら君の力になれるかなと、思って」と、娘と同じ緑の瞳で見つめ返した。
「.....君は、修道院に入ってから....いや、よくよく思い返せばそれよりも前から、様子がおかしかったね。思春期の娘に男親が無理矢理話を聞こうとするなんて、と思っていたが」
ランドンは首を一度振り、「違うね。いなくなってしまってからでは遅すぎることを私は知っていたのにね」と話す声は掠れていた。膝に添えていた手に力が入る。
「....君は母さんが亡くなってからわがままを言わなくなったね。いつのまにか、君が何をして喜ぶのか私には分からなくなってしまっていたよ。....これしか思いつかなかったんだ。情けないね」
力なく眉を下げるランドンに娘は父の思いを初めて知り、そんなことないわ、と言いたげに唇をもたつかせた。
「聞かせてくれないか。母さんのように、上手にできないかもしれないが。聞きたいんだ」
親子でも、自分の娘でも、自分の本心を伝えるのは緊張するものだな、とランドンは心の中で情けない自分に笑った。目の前の娘の強ばった肩から緊張した様子が伝わる。
リナリアは胸に手をあて、震える肺で空気を鼻から吸った。
「.....ちっともいい子じゃないの。格好悪くて、情けない...お父さんはがっかりするかもしれない...」
「....あのね...」
リナリアは父親にすべてを話した。
ダイアナの事。アイザックの事。修道院での日々。自分を助けようとしたアミナを傷つけたこと。そして、諦めていた夢のこと。
「私、うまく生きていくことにばかり気をとられて、大切な夢を置いてきてしまった...。いじめられているのが恥ずかしくて、自分の道をまっすぐ進もうとしているあの子が羨ましくて、ひどい事を言った...。本当は、もっと話してみたかったのに...!」
「見栄っ張りで、弱くて、素直じゃなくて、こんな娘でごめんなさい...。お父さんを幸せにできるような娘じゃなくて、ごめんね...」
揺れる娘の声に瞼を伏せ、ランドンは妻が亡くなった頃を思い出していた。
幼いなりに欠けた家族の穴を埋めようとしていたのだろう。
妻が亡くなって肩を落とす私をこれ以上悲しませまいと。
幼かった君は懸命に背伸びして。
母親がいなくなって、寂しかっただろうに。辛かっただろうに。
君は自分より私を気遣った。
なんて健気でいじらしいのだろう。
ランドンの眼鏡の奥の瞳がじわりと潤んだ。
「馬鹿だね。君が生きているだけで私はこんなにも幸福なのに」
馬鹿だね。私は。
君がこんなに思い詰めていたことに気付かなかった。
伝えよう。私達には言葉があるのだから。
遅すぎることなどきっとない。
水色の髪の女の子が教えてくれた。
「いい子じゃなくてもいい。弱くても、ずるくても、君が君というだけで、とても愛おしいんだ。リナリア。親はね、自分の子供が笑ってくれたらそれだけで世界一幸せ者になれる。そんな愚かな生き物なんだよ」
ランドンは身をのり出し節くれだった大きな手でリナリアの両手を包み込んだ。父の親指に水滴が一つ、落ちた。
「だから、自分にだけは嘘をついてはいけないよ。リナリアが笑顔になれる道を選んでもいいんだ」
「なんですかこの教科書は!!」
シスター・ルーシーがリナリアの机にあったボロボロの教科書を手に持ち、金切り声で叫んだ。
「ノウレッジさん!最近のあなたはどこかおかしいですよ!優等生のあなたが宿題を忘れたり、授業に参加しなかったり....!」
メアリーとベルは前方の席で目配せをしあって笑っている。
先生。優等生の私が頻繁に宿題を忘れたり、授業に参加しないことが増えて、おかしいと思っていたのね。
でも、何も聞いてこなかった。
ふと、窓を見上げた。水滴が日差しを受けてきらりと光った。
ああ、雨があがったんだわ。
「聞いているのですか!あなたにはこんなお説教では効かないようですから、お父様をお呼びして」
「先生」
リナリアの落ち着いた声にルーシーが声を詰まらせたじろいだ。
「な、なんです」
「これやったの、メアリーとベルです」
「な!?」
「え!?」
まさかあの大人しいリナリアがこんなことを言うとは思ってもいなかったのだろう。メアリーとベルは激しく動揺し、ガタッと大きな音をたて席を立った。二人はルーシーの見開かれた視線に耐えられないとでもいうように声を荒げた。
「ち、ちがいます!!」
「私たちじゃありません!」
「だって、私達友達ですもの!ねえ?どうしたのよリナリア!」
「たしかに...あなた達はいつも一緒にいましたね」
「そうですよ先生!むしろ、私達は彼女が最近あまりにも怠慢だから、なんとかしてあげないとって、思ってたんです!」
「....まあ」
授業に出ない、宿題もやってこない生徒よりも普段からきちんとしている生徒の話に天秤が傾くのは当然のことなのかもしれない。
感心したように頷くルーシーを見ていられなくてリナリアは唇をかんだ。
表面さえ整えていれば、何をやっても良いというのか。
悔しさで震える拳に少し冷えた手がそっと触れた。その時、ある生徒の言葉が教室のざわめきを止めた。
「先生、私見ました。メアリーとベルがこの教科書を笑いながら机に置いてるところ」
混沌とした水の中に一石を投じる揺るぎない声だった。
リナリアは驚き、後ろを振り返った。声の主はリナリアが苦手だと思っていたくるみ色の瞳を変わらずきらめかせ、口角を上げた。
「エマ!」
咎めるように叫んだメアリーの声は全てを物語っていた。
その瞬間、教室の風向きが変わった。
「....ずっと思ってたんだけど、最近ひどいよね」
「先生、私も見ました」
「私も」
他の生徒達がさわさわと訴え始めるとそれは徐々に大きなさざめきに変わり教室中を埋め尽くした。
「....、こ、これは!一体どういうことなのですか!!」
「ひい!」
「だ、だってぇ!」
ルーシーの鋭い目付きにベルとメアリーは震え上がり、その二人をクラスメイト達は軽蔑の眼差しで責め始めた。
「.......大衆はいつだって都合の良い方につくものよね」
エマは机に頬杖をつき、他人事のようにクラスメイトの様子を眺めていた。ふくよかな頬が手の平におされて左目が細くなる。
なぜ自分を助けてくれたのか、と自分を凝視し続けるリナリアにエマはにっかりと笑った。
「あなたやるじゃない。....教室入って来た時の顔、いつもと違ってた。ここを辞めるのね」
「....ええ」
「いいと思うわ。あなた始めからつまらなそうだったし」
「.....よく見てるのね」
「まあね。夢を追う人間にはわかるのよねー。なーんかこの人、ぎらぎらしたやつ持ってるぞって」
「ぎらぎらって....」
「ふふ」
「.......ふ」
騒がしい教室の中でエマとリナリアは静かに見つめ合った。
この人のこの瞳が大嫌いだった。
自分をしっかり持っている、決して誰にも流されない、この人の強さが。
「いまさらだけど、もっと話していればよかったわ」
リナリアの言葉にエマは瞳をきょとんと丸くし、口角を挑戦的に引き上げた。
「すぐにまた会えるわ。だって私、アストライアで武具師になる予定だもの。あなたがいずれ身に付ける服を、私が作るのよ」
今度はリナリアが目を丸くする番だった。
「目標は同じ場所ってわけね。じゃあ、私が一歩リードね」
腰に手を当てて少し気取ったような仕草をするリナリアにエマは「すぐ追い付くわ」と負けじと言い返した。
本当に、もっと早く話してみればよかった。
リナリアはメアリーとベルの襟を掴んで指導室に連れていこうとしているルーシーに笑顔で手を振った。
「先生!私、ここ辞めます!さようなら!!」
「ちょ、え、待ちなさい!!ノウレッジさん!待ちなさーい!!」
リナリアは走り出した。
息苦しい教室から抜け出し、階段を駆け降りて、修道院の門から外へ。
すっかり晴れた青空を見上げながら走ると、水溜まりにブーツが浸かり、泥水がスカートに跳ねた。
全速力で街を駆け抜ける少女を通行人は驚いたように凝視する。
「.......あははっ!」
汚れたって、変な目で見られたって、もういいや。
空気がおいしい。
風が気持ちいい。
雨上がりの煉瓦道は滑りやすく、リナリアの足は簡単に滑り、転んだ。
「だ、大丈夫かい!?お嬢ちゃん!」
「いたたた。あはは、大丈夫よ。....よっと!」
すぐに立ち上がり、また走ろうとする彼女を自転車を押していた男が慌てて止めようとする。
「肘と膝から血が出てるじゃないか!」
「ああ、大丈夫よこれくらい。それより私、急いでるの。すぐに行かなきゃいけないのよ!」
颯爽と走って行ってしまったリナリアの背中を呆然と見つめていた男にお腹を大きくした妊婦が話しかける。
「あなた、こんな所でどうしたの?」
「あ、ああ。自転車の修理の依頼で...依頼主がおばあさんだったからこっちまで引き取りに来たんだ」
「そうなの。お疲れ様。あなたって本当に優しいのね」
「い、いやあ。そうだ、今夜はグレタさんに呼ばれているんだ。君も是非って」
「まあ、なあに?」
「ピーノさんが新作を作ったらしくてね、試食ついでに久しぶりにゆっくりお喋りしようってさ。あ、プリンも新しい味を作ってみたんだって」
「まあ!嬉しい!それは絶対、行かないとね」
はにかんで笑い合う夫婦からリナリアはどんどん足を運んで離れていく。
転倒でヒビが入った眼鏡は道を歪にゆがませる。
また転ぶかもしれない。でも、自分を抑えていた年数が囁くのだ。
もう止まるなと。
"居場所"ってなんだろう?
"友達"ってなんだろう?
じくじく痛む胸を抱えながら、背中を丸めて過ごすなら。
そこにいる為に自分を削る手段しか残されていないとするなら。
苦しくて苦しくて、途方にくれるしかなくて。そんな人が他の場所を望むのは弱さなのかな?
耐えなきゃいけないこともあるってこと、知ってる。逃げてばかりじゃ駄目だって。
でも、それって一体何の為に耐えるのだろう。
どうして自分が我慢しなきゃいけないのだろう?
そこに価値はあるのか。
そこで一体、何を得られるのか。
ここなら耐えてでも得たいものがある。
そう思えたなら、歯を食い縛ってでも私は耐えてみせる。
でも、あそこにはなかった。
私の道はあそこから先には繋がっていなかった。
これはあくまで私の話で、もしかしたら他の誰かだったらあそこから私の目標の場所に辿り着けるかもしれない。
けれどこれは私の話。
私の見た景色、得た経験と感情で決めたこと。
生きている人の数だけ、道がある。
ただそれだけのこと。
足がもつれ始め、呼吸も乱れ始めた。
苦しい。
でも、無理に笑う方がもっと苦しい。
ねえ、もしも。
この世界のどこかで今この瞬間、息をするのさえ脅えて。
朝が嫌いで、"そこ"に行くことを考えるだけで辛くて仕方なくて。
周りがすべて自分を嫌いなのだと思ってしまう場所にいるとしたら。
そこから離れてもいい。
そう思ってもいいんじゃないかな。
あなたが駄目だったわけじゃない。
あなただけが苦しい世界なんてあって良いはずがないから。
どうかその手で自分を撫でてあげてほしい。
優しく、優しく。
そして、少しでも心があたたかさで揺れたなら。
幼かった頃の自分に問いかけてみて。
好きだったものはなんですか?
夢中で拾った綺麗な色の石かな。
水の中から見上げる照明の光かな。
思い出したなら、好きの欠片を集めに行こう。
少しずつ、歪な形になっても、完璧じゃなくても、手の平いっぱいになるくらいに集めたら、それが今のあなたの形になる。
そうしたら、笑いかけてあげて。
「やっと会えたね」って。
「.....っはっ....はっ...」
歩道の脇に植えられた紫陽花の横をすり抜け、見え始めた図書館を目指す。
放たれたヒビだらけの眼鏡は水溜まりに映る虹に溶け、解放された金の髪は自由な風に身を任せていた。
図書館の扉の前に立ち、リナリアは自分の姿を見下ろした。泥まみれのブーツにスカート。髪は汗で濡れた頬にべったり張り付いていた。
この姿で中に入ったら、きっと注目の的だろう。
賢く、うまく立ち回ろうとしていた私が、なんて格好をしているのだろう。
でも。とリナリアは胸に手を当て、緊張でドクドクと響く心臓を整えようと深く深呼吸をする。心臓はまったく大人しくならなかった。
きっと緊張しやすくて、弱気なあの子は、何度も私に手を差しのべてくれた。
「友達になりたい」と言った彼女は頬を真っ赤に染めて、精一杯の勇気を出してくれたのだろう、体が震えていた。
私はそんな彼女を傷つけた。
だからもう、遅いかもしれない。
でも行かなくちゃ。
リナリアは扉を開け、中に入った。
受付にいたアミナがリナリアの姿を見て驚き立ち上がる。それをリナリアは片手を突き出して止めた。
「そのまま!」
「えっ」
「、そのままで、聞いて、ほしい....。お願い...」
「う、うん...。どうしたの....?」
アミナは何が何だか分からず、緊張した面持ちでこちらを見るリナリアにおろおろと困惑の表情を浮かべる。
リナリアは手を身体の横に戻すと、震える唇を一度噛んで、鼻から息を吸った。
「この前は、ごめんなさい!!」
頭を下げるとアミナが息を呑んだのが分かった。「なになに?」「修道院の子か?」と図書館の利用者から注目を集めてしまっていることにも気がついていた。
リナリアは恥ずかしさと緊張から真っ赤に染まる顔を隠しもせずに、口を真一文字にしてアミナと目を合わせた。
謝ることと、もう一つ。
これを伝えにきたの。
言葉にするよりも前にリナリアの双眸から大粒の涙が溢れだしていた。
「わ、私と、友達になって....!!」
緊張と恐れから涙が次から次へと果てしなく溢れてくる。
アミナがどんな顔をしているのか、ぼやけてしまってよく分からない。
気持ちを伝えるのって、こんなに怖いものなのね。
こんなに、勇気がいるものなのね。
あなたは凄いわ。
一拍も置かずに、リナリアに柔らかいものがぶつかり、それはぎゅうっと彼女を抱き締めた。
「.......うん、」
リナリアの肩をアミナの涙が濡らしていく。迷いなく自分を受け入れた彼女をリナリアは感謝と尊敬、傷つけた後悔、そして舞上の喜びが一緒くたになった感情のままに強く抱き締め返した。
傷つき、悩んだ日々があった。
でもすべては無駄ではなかった。
今の私でなければ、きっとこの子に出会うことはなかったのだから。
アイザックは緊張した面持ちでダイアナの部屋に入った。
ダイアナはソファーに腰掛け、柔らかく笑うのに、先日の闇の呪いにかかった彼女が脳裏をよぎり、青年は頬をひきつらせた。
「忙しいのに呼び出してごめんなさい」
「い、いやぁ...」
「さっそくだけど。婚約、解消しておいたわ」
「い、いやぁ....は!?ええ!?」
垂れた目を大きく見開いたアイザックは、けれど次第にほっとしたように口許がにやついた。それを慌てて隠そうと彼は口に手をやり、大袈裟に咳払いをする。
「ごほっ。ごほん。ん、んー、そうなんだ。それはまた、どうして?」
下手な演技にダイアナは眉を下げて苦笑した。
「もとから、私のお父様とあなたのお父様との口約束のようなものだったしね。それに、闇に操られた娘が嫁に来るなんて縁起が悪いでしょう?そちらからでは断りにくいだろうから、私からお父様に頼んでおいたわ」
「へ、へえ。それはそれは....」
願ってもない話だったのだろう。アイザックの口許はついにだらしなく緩んだ。
「.......覚えてないだろうけど、あの時、私も連れていってくれると言ってくれて、本当に嬉しかった」
「あの時?」
きょとんとしたアイザックはやはりダイアナの思った通り、何も覚えていなかった。
それは少しだけ、悲しかった。
「それより、君すごい噂だよ。市長の娘が修道院でいじめをしていたって。もちろん、辞めるんだろ?」
「辞めないわ」
「すごい根性...げふんげふん、いや、なんでもない」
窓から部屋に光が差し込んでいるのに気がつき、ダイアナはゆっくりと明るい方へ近づいて行く。
「ほら、だってさ、辛いことが待っているかもしれないよ?僕としては心配だな~なんて、あはは」腰に下げた剣をかちゃかちゃと鳴らしながら表面を繕うのに必死なアイザックの声を背に、ダイアナは青い空に目を細めた。
「そうね。行ったら、やっぱり後悔するかも。怖いわ」
「だよね。じゃあ」
「でも、行くわ」
「え?」
レースのカーテンに指を添え、ダイアナはゆっくりと横に引いた。
「自分のやったことのけじめは自分でつけなくちゃ」
窓を開けると澄んだ風が部屋中の空気を外に追い出し、新しい空気を運んでくれた。
窓から顔を出すダイアナの顔が空の中心でさんさんと輝く日に照らされる。
「じゃないと、あの子に追い付けない」
「なにか言ったかい?」
ダイアナは静かに首を振り、彼を振り返った。
「そもそもが違ったのよ」
「....え?」
「どうして他の人に自分の幸せを託していたのかしら。全然違っていたわ」
ダイアナは腕を組み、口角を上げた。
「自分の幸せは、自分で手に入れるものよ。行きたい場所には、自分の足で辿り着いてみせるわ」
殻を破り強くなった彼女の溌剌とした笑顔にアイザックは目を見開いた。
そんな彼を置いてダイアナは部屋を出る。
階段の下ではメイド長が心配そうに彼女を見上げていた。
くすぐったそうに笑った彼女は玄関の扉を開け、外に踏み出した。
青い草の匂いと太陽の香りを吸い込み、ダイアナは空を見上げる。
「もう夏ね」
幼い頃と同じ笑顔で、彼女は笑った。
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