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一章

ついていない日

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 夢を見た。
 虹葉と初めて会った時の夢。
 
 あれは小学3年生の時だった。
 
 学校終わり、校庭の隅で。
 彼女は誰にも見つからないようにしゃがみ込んで。小さく小さく丸まって。
 
 一人で、泣いていた。
 
 「どうしたの?」と聞くと、彼女は「だいじょうぶだから」と笑った
 
 苦しそうな本心を無理矢理笑顔で上塗りしたような。見ているこっちが痛ましくなる様な笑顔だった。
 
 そんな彼女をどうしても放って置けなくて。僕の家に呼んだ。
 
 彼女は大丈夫だと断ったけど、「遊ぶ人を探してた」と嘘をついて、無理矢理家へと手を引いていった。
 
 きっと同じ学年の子だ。同じクラスになった事はないし、喋った事もないが、顔は何度か見た事があった。
 
 名前を聞くと、「加古川かこがわ虹葉ななは」と言うそうだ。「ななは、キレイな名前!」と僕は言ったが、彼女は何とも言えないような顔をしていた。
 
 それから一緒に対戦ゲームをやって、疲れたらお菓子を食べて、お絵描きをして。
 なんて事のない、普通の遊びを沢山した。
 
 楽しい時間はあっという間で。気がつけば彼女が帰らないといけない時間になっていた。
 
 虹葉ちゃんはボソリと「帰りたくない」と言った。
 「何で?」と聞くと、「お母さんとお父さん、ずっとケンカしてるから」と、僕に教えてくれた。
 
 僕が「仲直りしないの?」と聞くと、「しても、すぐにまたケンカしてる。りこん? してやるって、怒鳴ってる」といい、泣き出した。
 
 僕は慌てて、「またおいでよ」と言った。彼女は涙を拭いながら、「いいの?」と聞くから。「うん。まだできてないおもちゃも、ゲームも。いっぱいあるから」だから、またおいでよ、と言うと彼女は笑ってくれた。
 
 泣いている顔より、笑った顔の方が素敵だと思った。
 
 
 その日、俺は初めて両親の仲が悪い家庭がある事を知った。
 
 
    *    *    *
 
 
「最悪だ」
 
 俺は家に帰って早々、宿題のプリントが無いことに気付いた。どうやらノートに挟んだまま机の中に忘れたらしい。
 
 今朝はあんな夢を見るし。本当、今日はついていない。
 
「数学の先生、怖いんだよなー」
 
 明日プリントの答え合わせをするそうなので、早めに終わらせておきたいのが正直な所である。
 明日の朝やるという手も考え、明日の時間割表を確認した。
 
 不幸な事に、一限目は数学だった。
 
「ほんと、ついてない」
 
 俺はそう一人ごち、すでにハンガーにかけた制服をもう一度ふんだくり、袖を通した。
 
 
    *    *    *
    
 
 
 教室前。
 
 もうほとんど人のいない時間にも関わらず、中から何やら話し声が聞こえた。
 
 気付いた俺は、扉にかけていた手を咄嗟とっさに放し、様子を見ることにした。
 
 扉に付いている小窓から、気取られないように目だけで覗き込む。
 
 教室の中には、二人がいた。
 
(あれは……)
 
 同じクラスの男子、高見たかみと……。
 虹葉もどきの二人だった。
 
(あー、そういう……)
 
 ノートを挟んだプリントは、俺の机の中だ。
 
 なんとなく察した俺は、入る訳にもいかないので大人しく待つことにした。扉に背を預け、しゃがみ込む。
 
 そのうち中から会話が聞こえてきた。別に、盗み聞きをしている訳ではない。扉にくっ付いて待っていたら、たまたまハッキリと聞こえてしまっていただけだ。他意は無い。
 
「何でだ? あんなに僕といる時、楽しそうにしていたじゃないか」
 
(ははん、高見、さては断られたな?)
 
「ごめんね、私、みんなに好かれなくちゃいけなくて……みんなの事が好きだから……」
 
 虹葉もどきもこれは想定していなかったのか、オドオドと声を震わせながら説明している。
 
 とはいえ、現状虹葉の正体を知っているのは俺だけである。高見のような何も知らない奴は、なんで断られたのか見当もつかないだろう。
 
 案の定、高見はタダでは食い下がらない様であった。
 
「どういう意味だ? たちばなさんは俺の事が好きなんじゃないのか?」
 
「そう、なんだけど……。それだけ、というか……」
 
「じゃあ、何で?」
 
 高見はどうしても腑に落ちないようだ。当然だろう。お互いに好意があるのなら、付き合うのが自然な流れである。事情を知らなければ、俺だって理解できないだろう。
 
(神崎、あんたの理想は崇高だが、どうやら人類の方がよっぽど崇高ではないみたいだぞ?)
 
 まぁ、そんなんだから、全人類から愛される事なんて、人間には不可能なんだろうけど。
 
 俺は苦笑した。
 
「僕と橘さんは両思いのはずだろう? 何で? どうして?」
 
「やめて、放して!」
 
 突然の叫び声に、俺は慌てて小窓を覗き込む。
 高見が虹葉もどきの手首を握りしめていた。
 
 俺は勢いよくドアを開ける。
 ものすごい速さでスライドしたドアは、端までぶつかると、壊れそうなくらいの大きな音を立てた。
 
 教室が静まり返る。
 
 二人の目は突然の闖入者ちんにゅうしゃに釘付けになっていた。
 
「あー」
 
 勢いで入ってしまった為、なんと言ったらいいか分からず、俺はただただ立ち尽くした。
 
今野いまの、くん?」
 
 虹葉もどきは目をパチパチとさせる。そりゃそうだ。俺だってなんでここに居るのか分からない。
 
 高見は相変わらず、虹葉の手首を握りながら微動だにしない。
 
「えーと、とりあえず高見。手、放したら?」
 
「えっ? あ、あぁ」
 
 高見は大人しく虹葉もどきを解放した。相当強く握られていたのだろう。虹葉もどきの手首には、赤く痕が残っていた。
 
「俺はあんまり良くないと思うぞ? こいつ、嫌がってただろ」
 
「何なんだよ。いきなり横から出てきて。これは僕と橘さんの話なんだぞ?」
 
「はぁ、これだから男は。ちょっと優しくしただけで、勝手に勘違いして自分が一番好かれてると思い込んで。さっきちゃんと断られたの、忘れたの?」
 
「だって橘さんは、僕の事好きだって」
 
「高見だけじゃない。みんなの事が好きなんだよ。ちゃんと聞いてた?」
 
「でも、でも、僕は、橘さんが……」
 
「そのへんにしておきなって。ねちっこいのは嫌われるよ?」
 
 そう言い返すと、高見の顔がみるみる赤くなっていった。
 
「お前に何が分かるってんだ。彼氏でもない癖に彼氏面しやがって」
 
 高見は俺を睨みつけた。
 はー、怖いねぇ。
 
「そうだね、俺は彼氏でも何でもない。でも……」
 
 そして高見を正面から見据え、俺はこう言い放った。
 
「俺はこいつを傷付けようとする奴は、容赦しないって決めてるんだ」
 
(そう、それが例え、虹葉と姿が同じなだけの別人だとしても)
 
 虹葉の影法師を傷付けようとする事は、俺が許さない。
 
「行くぞ、虹葉」
 
 俺は虹葉もどきの手を取り、夕陽に赤く染まる教室を後にした。
 
 
    *    *    *
    
 
 虹葉の手を握り、急いで校門を後にする。
 
 ここまで来れば大丈夫だろう。俺は虹葉の手を離した。
 
 六月に入り日もだいぶ長くなったとはいえ、空は段々と夜へと移ろい始める。
 西日の空は紅く染まり、伸びた光が虹葉もどきの顔を紅く照らし出していた。
 
 ……勢いで、虹葉もどきを連れ出してしまった。
 
 あのまま見ている訳にはいかなかったとは言え、我ながら思い切った事をしたものだ。
 
 おかげでもう体も心も疲れ切っている。今すぐ帰ってベッドに飛び込みたい。
 
 そう思い、ある疑問が浮かんだ。
 
 この虹葉もどきは、やっぱり虹葉の家に住んでいるのだろうか?
 
「なぁ、そういえばお前。虹葉の家に住んでんの?」
 
「うん」
 
 あいつは静かに頷いた。
 
「大丈夫? 親御さんとか……」
 
「うん」
 
 あいつは変わらずに頷く。
 どこかぼんやりとしているようで、何を考えているのかは俺には読み取れなかった。
 
「じゃあ、帰り道は一緒か」
 
「うん」
 
「……帰ろうか」
 
「……うん」
 
 あいつは嬉しそうに微笑みながら頷いた。
 
 そういえば、こいつと二人きりで帰るのは初めてだ。虹葉と帰るのも中学生の時が最後だったから、何だか随分懐かしく感じる。
 
 何を話していいか分からず、お互い無言で歩く。
 
 こういう時、何を話していたっけ。今日の学校の話? 最近ハマっている漫画とか? 明日の授業がめんどいとか?
 
 そこで、思い出した。
 
 そもそもなんで学校に戻ったのかを。
 
 ——俺、ノート取ってきてないじゃん。
 
「うわぁぁあ」
 
「⁈ どうしたの」
 
 突然うめき出した俺に、あいつは驚きながらも、そう聞き返した。
 
「俺、宿題取りに学校行ったのに」
 
「のに?」
 
「忘れた」
 
 天を仰ぐ俺。
 
 束の間の沈黙。
 
 そして。
 
「——ふふ、あはは、あっははは」
 
 あいつは笑い出した。最初は堪えるように笑っていたが、だんだん堪えきれなくなったのだろう。今では腹を抱えて笑っていた。
 
「……なんだよ」
 
「いや、ね。そっか。その為にわざわざ戻ってきたんだよね? ごめんね? 私のせいで」
 
「いや、お前のせいじゃないよ。元はと言えば初めに持って帰らなかった俺のせいだし……」
  
 あいつはまだ笑っている。そんなに大爆笑されるのは少しだけ不服ではあったが、致し方ない。
 
 それに、こうなってしまっては仕方ない。今更もう一度取りに帰る気にもならなかったし、ここはもう最終手段に出よう。
 
 諦めた俺は、渋々ながら切り出した。
 
「なぁ、提案があるんだが」

「なぁに?」
 
「俺、さっきお前を助けたじゃん?」
 
「うん」
 
「だから、今度は俺を助けてくれ」
 
「って、言うと?」
 
「宿題。明日、見せて……下さ……い」
 
 はぁ。言ってしまった。なんだよ。非常にかっこ悪いな、俺。
 
 言っている最中にそんな思いが湧いて、思わずどもってしまったし、中途半端に敬語だし。そのせいで益々ますますかっこ悪くなったなと、直ぐに自己嫌悪に陥った。
 
「なんだ、それくらい良いよ。今野くんになら、何回だって見せてあげる」
 
 あいつは眩しい笑顔と共にそう答えた。
 
「それと、今野くん。さっきはありがとう。助けてくれて」
 
 あいつは微笑んだ。それは好感度とか関係無くて。心の底から喜んでいるように見えて。
 
 ——いや、きっと見間違いだろう。
 
 それよりも、嬉しそうに笑うあいつを見ていたら、俺のかっこ悪さなんて段々どうでも良くなってきて。俺もつられて笑ってしまった。
 
(本当、流れとは言えこいつを助けるハメになるなんて)
 
 今日は、本当に、ついていない。
 
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