花交わし

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35.婚儀の夜

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 秋が深まった頃。
 藤島一灯長屋の大家、壮太郎の戸で、氷冴尾と貴冬の婚儀が執り行われた。
 婚儀と言っても、借り物の晴れ着で盃を交わすだけの簡素な儀式は、一刻もかからずに終わり、長屋と二人に関わりの深い者が集まってくれた宴会も、一刻ほどで酔いつぶれた数人を残してお開きとなった。
「ああもう本当に感慨無量ですこと」
 じわりと滲む涙をそっと袖に吸わせて、貴冬の母かさねは微笑んだ。
 温かくはないが冷たくもない手で、そっと氷冴尾の手をとり、
「どうぞ今後はわたくしを母と思って頼みになさってくださいね」
と、告げた結果。
「母上」
 氷冴尾にそう呼ばれたのがよほど嬉しかったらしい。
 遠い記憶でしか母という存在が解らない氷冴尾としては、目の前の貴冬や雪蓏の母としては小柄な婦人の温和な空気に、むずむずと腹の中が落ち着かなくなっている。
(そうか…婚姻を結んだのだから、この人は俺の母にもなったのか)
 犬狼族の里への嫁入りの際は、始終離れでの生活に終わったため、あまり意識しなかった。だから、家族が増えるという事を、今初めて体感している。
(増えるんだな、これからも)
 減る事しか知らなかった氷冴尾にとって、それは嬉しい驚きだった。
「あらいやだ」
 できれば早々に二人きりになりたいのだが、母のみならず氷冴尾が嬉しそうにしているため口を挟めず、所在なさげに立ち尽くしていた息子に、ようやくかさねは気が付いた。
「ごめんなさいね。いつまでも居たらお邪魔だったわね」
 かさねの言葉に、氷冴尾は首を横に振る。
 頑是無い子供のような仕草に愛しさが込上がったかさねだが、氷冴尾の手をもう一度強くきゅっと握ってから、離した。
「おやすみなさい。また明日」
「…おやすみ、なさい」
 また明日、という言葉に頷きながら大人しく去っていく背を見送る。
 氷冴尾と貴冬の新居は、今まで氷冴尾が使っていた戸だ。
 誰かが気を効かせたのかただの事故か、藍太は宴会の席でうっかり飲んだ酒に酔いつぶれて寝ている。
 飾り行灯にうっすらと照らされた一間には枕を並べた床が設えられていた。
「氷冴尾」
 木戸を閉めたまま立ち尽くす背に声をかける。
 はじかれたように振り返り、氷冴尾は貴冬の胸へ飛び込んだ。
 いつだったか無理矢理腕の中に抱き締めた体は、ひどく頼りなげなものに思えた。そんな事を思い出しながら、貴冬は氷冴尾の体を抱き締めた。脆くはないし、細くもない、しなやかで強かな体だ。
「なあ」
「うん」
「何の匂いがする?」
「ん?」
 貴冬は氷冴尾の肩口に埋めた鼻先に感じていた匂いを答える。
「山薔薇だな」
「へえ」
 やっぱり自分には解らない匂いの答えに笑って、氷冴尾は腕を緩めた。額同士を当ててその目を覗き込む。見覚えのない熱が映るのが物珍しい。
「好きなのか、山薔薇」
「そうだな…昔、一度だけ見た」
 雪の中で深い緑に守られて、白い花は隠れるように咲いていたのに、匂いは遠くまで甘く漂っていた。
 匂いに惹かれて探す内に言いつけを破って山の奥まった場所に入り込み、後からひどく叱られた。母からあれほど叱られたのは後にも先にもなく、生涯を通じてその一度きりだった。
 しかしながら、嫌な思い出にする事は出来ないほどあの甘やかな香は覚えている。
 貴冬の中で、最も心を縛る花だ。
「ずっと忘れられずに覚えている」
「そうか」
 鼻先が触れ、吐息が交じる。
 わざわざ床の上で押し倒した時はまともに触れもしなかったのになとおかしさがこみ上げて、氷冴尾は思わず笑った。
「おかしいか?」
「山薔薇の話じゃないぞ」
 せっかく設えてもらったのに床が空いているのが間抜けで笑えたのだと言う氷冴尾に、貴冬も笑い返した。
「全くだな」
 密やかに笑って、ふたり揃って床へ移動する。
 真新しい分厚い布団に倒れこむと、ふと思い出して氷冴尾は貴冬の腹を跨いだ。
「氷冴尾?」
「いつぞやは、わざわざ据えてやった膳を粗末にしてくれたよな」
 楽しそうな笑みが記憶と重なって、貴冬は笑みを苦くした。
「その節は大変申し訳なく」
「なんだそれ」
 阿呆と笑うのに合わせて煌く髪に手を伸ばした。
「綺麗だな」
「手入れしてるのお前だからな」
 自分では一度だってこんな長さにした事はない髪を愛しそうに撫でる手に触れる。髪も頭も、耳も頬も、この手に撫でられるのが心地良い。そう思い始めたのがいつからか。氷冴尾は、手にとった貴冬の指を甘く噛む。
「器用だよな」
「料理はろくにできないがな」
「うん。ま、それは俺がやるからいい」
 右手が氷冴尾に捕まっているので左手を伸ばした。裾から露になっている足に触れると、白い尾の先が甲を擽るように撫でる。
「片付けは得意だ」
「そうか」
 腰に手を沿えながら身を起こす。
「まるで三日夜参りだな」
 貴冬の言葉に氷冴尾が笑う。
 二人で、鼻先を合わせて、見つめ合う。
「古式懐しくいくか?」
「冗談だろう」
 からかうような氷冴尾の言葉に目を細める。
「これ以上待つのは無理だ」
 貴冬の言葉に今度は氷冴尾が目を細める。
「こっちの台詞だな」
 気が長い方でもないのによくもったなと自分でも感心する。氷冴尾は、自棄を起こして手放そうとした事を思い出して貴冬の首に触れた。
「いらないとか言うつもりはないからな、逃げるなよ」
 首に当てた爪に拍動を感じながら、氷冴尾が囁く脅しに、
「大丈夫だ」
と、貴冬も脅し返す。
「もういらないと言われても図々しく居座る覚悟を決めた」
 新手枕の夜に、もっと他に交わす言葉があるような気もしたが、二人とも笑って脅し合った。
 秋の終わりを告げるような冷えた颪が戸外に吹いていた。

□fin
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