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30.三日夜
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氷冴尾が目を覚ますと、目の前に丸まって眠る藍太がいた。
「………ああ」
そういえば色々面倒になって貴冬に押し付けて、藍太を腰にぶら下げたまま戻ったんだ、と思い出す。
目を木戸の障子に向けるまでもなく、外は茜色に染まっているのが解った。
「藍太、起きろ」
「ぃう…兄?」
「そろそろ戻れ」
「ぅあい」
くあっと大きな欠伸をしてから藍太は立ち上がる。ほんのさっきまでの寝ぼけなど感じさせぬ跳ねるような軽やかさで、土間に下りると、また、と言って出ていった。
軽く片手を上げて応じてから、氷冴尾はぐっと伸びをする。
(晩飯どうするかな)
用意もせずに寝たので、今すぐ食べられるものは何もない。といって、今から米を炊く気にもならなかった。一食くらい抜いたところで問題は無いが、今の氷冴尾の生活習慣だと、夜に飯を炊かないと必然朝も抜く事になる。
少し億劫ではあったが、飯屋にでも行こうと財布を取った。
「…貴冬?」
開けた木戸の向こうに軽く目を見開いた顔があった。
「その…訊きたい事があって、な」
どうも歯切れの悪い貴冬の泳ぐ視線がちらりと、隠れているつもりがあるのかないのか解らぬ女将連中の上を過ぎって氷冴尾へ戻る。
「何だ?」
「その、三日夜参りの事なんだが」
「は?」
「いや、こういうのはちゃんとした方が良いと言われて。俺も、まぁ、三日夜参りはともかく婚儀についてはきちんとしたいと思ったんだが、氷冴尾はあまり好きではなさそうだし、どうしたいかと尋ねたかったんだ」
どうしたい、と言われたところで、そうだな好きじゃない、としか氷冴尾に答えはない。が、生真面目そうな質の貴冬に付き合えない程不精な訳でもない。
「婚儀くらいは付き合っても良いが、三日夜参りなんざ御免だぞ、今更だろ」
「そうだな。では婚儀を――」
婚儀も面倒だからやりたくないと言われると予想していた貴冬がほっと息を吐いてまとめようとしたのを遮って、ランランと目を輝かせて二人を見ていた女将連中が叫んだ。かと思うと、ばっと出てきてあっというまに彼を囲んだ。
「えぇ?!」
「今更って!」
「ちょっとどういう事だい!」
「見損なったよ貴冬さん! あんたそんな男だったなんて!」
何が何だか解らないが突然責められだした貴冬を氷冴尾は哀れに思いつつも取り持つ方法もなく見つめる。自分達の会話で、貴冬だけが責められるような話をしていただろうか、と何度も考えるが、さっぱり解らない。
「おい、ちょっとちょっと」
こそこそと、自宅の木戸の隙間から、木柴が手招くのに気付いて、氷冴尾はそちらに近付く。
「さっきのありゃどういう意味だ?」
近付くなりそう訊いてきた木柴に氷冴尾は首を傾げる。
「どうって何の話だ」
「三日夜参りが今更って話だよ」
「そりゃ今更だろ」
何を言っているんだという氷冴尾の態度に、木柴はしばし言葉を失くしてから、ふと考え込み、貴冬に声をかけた。
「貴冬」
「何だ?」
「何で三日夜参りが今更なんだ?」
真剣な顔の木柴の問いかけに、貴冬は氷冴尾と同じように怪訝な顔をする。
「何でもなにも、今までだってずっと顔を見て話をしているのに今更だろう」
この貴冬の返答に、氷冴尾はその通りだという顔をしたが、木柴は顔を覆い、女将連中は言葉を失った。
「………」
「………」
「………木柴、お前達の言う三日夜参りっていうのは何なんだ?」
「いや、まぁ、お二人さんの考える古式懐しいのじゃないって事だけは確実かな」
もごもごと言葉を濁す木柴と同じように女将連中も二人から視線を逸らし、さっきまでの勢いのまま今度はさっと貴冬から離れた。
元々、三日夜参りとは都の貴族達が行う婚前儀式だった。彼らにとって、結婚とは家あるいは血筋というものを存続させるための術の一つであり、それは個人の感情などとは無縁のものである。自分の嬬となる相手とは顔を見た事もなければ言葉を交わしたこともない、ともすれば結婚相手であると親に言われて初めてその存在を知ったという事もままあった。しかしながら、実際に結婚するに当たって、本当にどうしようもなく相容れない場合、というものが有り得る事も解っていた。そんな利害と現実をすり合わせるための儀式が三日夜参りである。
一夜目、結婚が決まった嬬達は、互いに文を用意して、取次の手を経て文を交わす。
二夜目、交わした文にどうしようもないものを感じなければ、帳あるいは衝立越しに言葉を交わす。
三夜目、交わした言葉にどうしようもないものを感じなければ、ついに互いの顔を見ながら詩を交わす。
この三夜を経て、どうしようもない不満がなければ結婚となるのだ。この、実に貴族的で、大凡世間では不要な儀式は、どういう訳だが世間に流布した。ただし、普段から顔を見て挨拶を交わす事が普通の暮らしの民達が、そのままに三日夜参りを行った訳ではないし、どこにでも広がった、という訳でもない。
少なくとも、虎猫と犬狼の里において三日夜参りとは、貴族達らしい儀式の原型のまま伝わり、多くの場合、本人達も結婚に乗り気の二人が婚儀準備という忙しさの合間に水入らずで過ごす時間を作る事でしかなかった。
「古式懐しい?」
「で? 結局どういうのなんだよ」
女将連中はすっかり逃げたので、氷冴尾と貴冬からじっと視線を向けられ、木柴はもごもごと口の中で言葉をこもらせる。
「いや、だから、なんつうか、一夜目で飯なんか食べてだな」
「飯?」
「夕餉刻からはじめるのか?」
「食の好みってのは大事だろ」
「………」
「………」
木柴の言葉に二人は、
「大事なのは解るが三日夜参りでわざわざやる事なのか?」
と、でも言いたげな顔をした。
この感覚の差異は、偏に単一族で里を形成してきた彼等と、都や街などと呼ばれる場所で多種族で生活してきた者達の差異である。
氷冴尾や貴冬にとって、結婚相手は生活文化が共通しているというのが大前提にある。が、他種族が集まって生活している事が普通の木柴達のような者達にとって、食をはじめとした生活習慣のすり合わせは重大な要件なのだ。
「二夜目なんかでは、まぁ、金銭的なあれとか、今後の生活についてだとか話したりする」
氷冴尾はもう理解を放棄した、呆れ顔で興味を失くしたように空を見上げる。
貴冬は、多種族が生活する上での大事な事なのだろうと理解はできるが、三日夜参りでやる事なのか、という疑問を変わらず浮かべ続ける。
「で、まぁ、三夜目は、あれだ、色々と相性的なもんを確かめる訳だ」
木柴は『色々と相性』などと言葉を濁したが、他種族での婚姻を行うにあたって、最重要とされているのはこの三日目、肉体的な相性を確認する事なのだ。どれほど嗜好や習慣面で相容れても、乗り越えられない肉体上の壁が、種族が異なる場合には有り得る。
「なるほど…」
木柴がもごもごと続ける言葉を拾って相性の示すところに気付いた貴冬は、自分が何故女将連中に取り囲まれたのかを理解した。
「………ああ」
そういえば色々面倒になって貴冬に押し付けて、藍太を腰にぶら下げたまま戻ったんだ、と思い出す。
目を木戸の障子に向けるまでもなく、外は茜色に染まっているのが解った。
「藍太、起きろ」
「ぃう…兄?」
「そろそろ戻れ」
「ぅあい」
くあっと大きな欠伸をしてから藍太は立ち上がる。ほんのさっきまでの寝ぼけなど感じさせぬ跳ねるような軽やかさで、土間に下りると、また、と言って出ていった。
軽く片手を上げて応じてから、氷冴尾はぐっと伸びをする。
(晩飯どうするかな)
用意もせずに寝たので、今すぐ食べられるものは何もない。といって、今から米を炊く気にもならなかった。一食くらい抜いたところで問題は無いが、今の氷冴尾の生活習慣だと、夜に飯を炊かないと必然朝も抜く事になる。
少し億劫ではあったが、飯屋にでも行こうと財布を取った。
「…貴冬?」
開けた木戸の向こうに軽く目を見開いた顔があった。
「その…訊きたい事があって、な」
どうも歯切れの悪い貴冬の泳ぐ視線がちらりと、隠れているつもりがあるのかないのか解らぬ女将連中の上を過ぎって氷冴尾へ戻る。
「何だ?」
「その、三日夜参りの事なんだが」
「は?」
「いや、こういうのはちゃんとした方が良いと言われて。俺も、まぁ、三日夜参りはともかく婚儀についてはきちんとしたいと思ったんだが、氷冴尾はあまり好きではなさそうだし、どうしたいかと尋ねたかったんだ」
どうしたい、と言われたところで、そうだな好きじゃない、としか氷冴尾に答えはない。が、生真面目そうな質の貴冬に付き合えない程不精な訳でもない。
「婚儀くらいは付き合っても良いが、三日夜参りなんざ御免だぞ、今更だろ」
「そうだな。では婚儀を――」
婚儀も面倒だからやりたくないと言われると予想していた貴冬がほっと息を吐いてまとめようとしたのを遮って、ランランと目を輝かせて二人を見ていた女将連中が叫んだ。かと思うと、ばっと出てきてあっというまに彼を囲んだ。
「えぇ?!」
「今更って!」
「ちょっとどういう事だい!」
「見損なったよ貴冬さん! あんたそんな男だったなんて!」
何が何だか解らないが突然責められだした貴冬を氷冴尾は哀れに思いつつも取り持つ方法もなく見つめる。自分達の会話で、貴冬だけが責められるような話をしていただろうか、と何度も考えるが、さっぱり解らない。
「おい、ちょっとちょっと」
こそこそと、自宅の木戸の隙間から、木柴が手招くのに気付いて、氷冴尾はそちらに近付く。
「さっきのありゃどういう意味だ?」
近付くなりそう訊いてきた木柴に氷冴尾は首を傾げる。
「どうって何の話だ」
「三日夜参りが今更って話だよ」
「そりゃ今更だろ」
何を言っているんだという氷冴尾の態度に、木柴はしばし言葉を失くしてから、ふと考え込み、貴冬に声をかけた。
「貴冬」
「何だ?」
「何で三日夜参りが今更なんだ?」
真剣な顔の木柴の問いかけに、貴冬は氷冴尾と同じように怪訝な顔をする。
「何でもなにも、今までだってずっと顔を見て話をしているのに今更だろう」
この貴冬の返答に、氷冴尾はその通りだという顔をしたが、木柴は顔を覆い、女将連中は言葉を失った。
「………」
「………」
「………木柴、お前達の言う三日夜参りっていうのは何なんだ?」
「いや、まぁ、お二人さんの考える古式懐しいのじゃないって事だけは確実かな」
もごもごと言葉を濁す木柴と同じように女将連中も二人から視線を逸らし、さっきまでの勢いのまま今度はさっと貴冬から離れた。
元々、三日夜参りとは都の貴族達が行う婚前儀式だった。彼らにとって、結婚とは家あるいは血筋というものを存続させるための術の一つであり、それは個人の感情などとは無縁のものである。自分の嬬となる相手とは顔を見た事もなければ言葉を交わしたこともない、ともすれば結婚相手であると親に言われて初めてその存在を知ったという事もままあった。しかしながら、実際に結婚するに当たって、本当にどうしようもなく相容れない場合、というものが有り得る事も解っていた。そんな利害と現実をすり合わせるための儀式が三日夜参りである。
一夜目、結婚が決まった嬬達は、互いに文を用意して、取次の手を経て文を交わす。
二夜目、交わした文にどうしようもないものを感じなければ、帳あるいは衝立越しに言葉を交わす。
三夜目、交わした言葉にどうしようもないものを感じなければ、ついに互いの顔を見ながら詩を交わす。
この三夜を経て、どうしようもない不満がなければ結婚となるのだ。この、実に貴族的で、大凡世間では不要な儀式は、どういう訳だが世間に流布した。ただし、普段から顔を見て挨拶を交わす事が普通の暮らしの民達が、そのままに三日夜参りを行った訳ではないし、どこにでも広がった、という訳でもない。
少なくとも、虎猫と犬狼の里において三日夜参りとは、貴族達らしい儀式の原型のまま伝わり、多くの場合、本人達も結婚に乗り気の二人が婚儀準備という忙しさの合間に水入らずで過ごす時間を作る事でしかなかった。
「古式懐しい?」
「で? 結局どういうのなんだよ」
女将連中はすっかり逃げたので、氷冴尾と貴冬からじっと視線を向けられ、木柴はもごもごと口の中で言葉をこもらせる。
「いや、だから、なんつうか、一夜目で飯なんか食べてだな」
「飯?」
「夕餉刻からはじめるのか?」
「食の好みってのは大事だろ」
「………」
「………」
木柴の言葉に二人は、
「大事なのは解るが三日夜参りでわざわざやる事なのか?」
と、でも言いたげな顔をした。
この感覚の差異は、偏に単一族で里を形成してきた彼等と、都や街などと呼ばれる場所で多種族で生活してきた者達の差異である。
氷冴尾や貴冬にとって、結婚相手は生活文化が共通しているというのが大前提にある。が、他種族が集まって生活している事が普通の木柴達のような者達にとって、食をはじめとした生活習慣のすり合わせは重大な要件なのだ。
「二夜目なんかでは、まぁ、金銭的なあれとか、今後の生活についてだとか話したりする」
氷冴尾はもう理解を放棄した、呆れ顔で興味を失くしたように空を見上げる。
貴冬は、多種族が生活する上での大事な事なのだろうと理解はできるが、三日夜参りでやる事なのか、という疑問を変わらず浮かべ続ける。
「で、まぁ、三夜目は、あれだ、色々と相性的なもんを確かめる訳だ」
木柴は『色々と相性』などと言葉を濁したが、他種族での婚姻を行うにあたって、最重要とされているのはこの三日目、肉体的な相性を確認する事なのだ。どれほど嗜好や習慣面で相容れても、乗り越えられない肉体上の壁が、種族が異なる場合には有り得る。
「なるほど…」
木柴がもごもごと続ける言葉を拾って相性の示すところに気付いた貴冬は、自分が何故女将連中に取り囲まれたのかを理解した。
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