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29.末に
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「何だ?」
青年達の声を完全に無視して、貴冬は氷冴尾に向き合う。
「お前、阿呆だな」
氷冴尾の言葉に、貴冬は気にした様子もなく頷いた。むしろ傍で聞いていた青年達の方が驚き不愉快そうに顔をしかめている。
「自覚はある」
氷冴尾が言う阿呆とは違う認識だが、貴冬は自分が阿呆だと思っている。そのため、苦く笑いながら首をさすった。
そんな貴冬を僅かに見上げて、目を合わせ、木戸に軽く肩を付けて立った氷冴尾は、
「返事は諾だ」
と、言った。
そして、
「だから里に帰れ」
と、続けた。
「…ん?」
諾、という返事に思考が停止した貴冬は、続いた言葉が理解できなかった。一瞬『諾』という言葉には己の知らぬ意味、つまりは否定の意味が有ったのだろうか、と背筋が凍り付いたほどだ。
「諾…と聞こえたが」
「そう言った」
「里に帰れというのは…?」
氷冴尾は近付いて来る貴冬から横に視線を逸らしつつ、呟く。
「母親がいるといっていただろう。挨拶くらいしないとっおい」
話の途中でのしかかるように抱き締められ、氷冴尾は怒鳴った。ついでに強かに肩を叩いたが、貴冬は腕を緩めなかった。
ひたすら平行を行くやりとりを見ていて、青年達が憐れになったのか、自分が意地を張っていると思ったのか。どちらにしろ、諾の返事は自分の知る意味の通りで問題なかったと知って、貴冬は心の底から安堵した。
「そういう事か」
深々と息を吐いて、貴冬はようやく身を離した。青年達を振り返る。
「お前達はとにかくその文を持って帰れ。俺も、一度は戻ると伝えろ」
「でも」
「気が変わらぬ内に返事を持って帰った方が良いぞ」
「はい!」
青年達は貴冬の脅しのような言葉に慌てて土間へ降り、再び草鞋を履いた。
歩き通しで疲れているだろうに躊躇いなく再びの旅路へ踏み出す青年達の明るい背を見送って、氷冴尾は、自分の家に向かって歩き出す。
貴冬は、その手を掴んで引き止めた。
「一つ、聞いていいか」
「何?」
「俺を里に帰したくて、諾と言った訳ではないよな…?」
おずおずとした貴冬の問いかけに、氷冴尾は僅かに笑った。
「俺がそこまでお人好しに見えるか?」
「…まぁ、見えなくもない」
「そりゃどうも。でもそんなつもりで言った訳じゃない。俺だってお前が欲しいから諾ったんだ」
かさりと地面に落ちていた葉が飛んだ。貴冬の尾が左右に振れているせいである。
「そうか」
氷冴尾がその嬉しそうな顔を見ていると、腰のあたりに覚えのある衝撃がぶつかった。
「藍太?」
見下ろせば、やはり藍太の頭が見える。
「こりゃ藍太」
「戻りなさい」
木戸の隙間から祖母と母が藍太を手招くが、藍太はぎゅっと氷冴尾の足に抱きついて離れない。そして、一瞬だけきっと貴冬を睨みつけた。
「お前なんか嫌いだ!」
きっぱりとそう言うと、さっと氷冴尾の後ろに身を隠す。
どうしたんだ、と氷冴尾が藍太の頭を撫でるが、藍太はぎゅっと抱き付くばかりで答えない。
「………」
そんな藍太を見下ろして、貴冬は呆然としていた。
兄のように慕っている氷冴尾を取られるような感覚でいるのだろう、と予想はできる。しかしながら、幼い頃から年下には慕われてきた記憶しかない貴冬にとって、面と向かって子供に『嫌い』と言われた事は、思いがけぬ衝撃だった。なんなら泣けそうなほど悲しい。
「子供に嫌われるのは堪えるものだな…」
貴冬は、子供、という表現によって更に藍太から嫌われた事にも気付かぬまま呆然と呟いた。
「何言ってんだ」
氷冴尾の返事が否だったら、身も世もなく泣いていただろうな、と思って呆れ顔の氷冴尾に笑ってみせる。
「いや。できれば仲良くなりたいだろう」
「…ほら、藍太。仲良くなりたいってよ」
「嫌だぃ!」
「残念だな。本気で嫌われたみたいだぞ」
「まぁ、仕方がない。今は氷冴尾に好かれただけで満足する」
「好かれたって…」
「…ん?」
その、好きだと言った覚えはないけど、とでも言いそうな沈黙に、貴冬の笑みが凍りつく。
氷冴尾としては、もともと犬狼の里にいた折から好いてはいたが、という言葉だったが。
「………努力する」
「あ…? ああ」
何を、と問いかけたが、妙に思いつめた貴冬の顔を見ていたら面倒になり、氷冴尾はとりあえず頷いた。なんとなく、また阿呆だなと思う事になるだけのような気がしたのだ。
「ねぇちょっと、さっきの邪魔者帰ってったん…え? あらやだ、なんかまとまってる?」
「嘘やん。ええとこ見逃したわ!」
貴冬に手を放させて、ついでに藍太をひっぺがそうと氷冴尾が考えている内に、駆けていった犬狼の青年達に気付いた長屋の住民が集まってくる。
藍太をくっつけた己とその手を掴んだ貴冬、という姿をどう見れば、まとまったという答えが導かれるのか。氷冴尾には全く解らないが、事実まとまっているので、否定もできない。
「ふぅ…」
氷冴尾は小さく息を吐くと、貴冬の肩を押した。
「俺は寝る」
後は任せた、とは口に出さず、藍太をくっつけたまま自身の家へ戻る。
「元々解ってたけんど貴冬さん頭上がらんなぁ」
「氷冴尾さん気ままだからねぇ」
「ええやんなぁ。貴冬さんは好きで言うなりなんやもんなぁ」
歯に衣着せぬ女将連中に囲まれて、貴冬は苦く笑う他なかった。
青年達の声を完全に無視して、貴冬は氷冴尾に向き合う。
「お前、阿呆だな」
氷冴尾の言葉に、貴冬は気にした様子もなく頷いた。むしろ傍で聞いていた青年達の方が驚き不愉快そうに顔をしかめている。
「自覚はある」
氷冴尾が言う阿呆とは違う認識だが、貴冬は自分が阿呆だと思っている。そのため、苦く笑いながら首をさすった。
そんな貴冬を僅かに見上げて、目を合わせ、木戸に軽く肩を付けて立った氷冴尾は、
「返事は諾だ」
と、言った。
そして、
「だから里に帰れ」
と、続けた。
「…ん?」
諾、という返事に思考が停止した貴冬は、続いた言葉が理解できなかった。一瞬『諾』という言葉には己の知らぬ意味、つまりは否定の意味が有ったのだろうか、と背筋が凍り付いたほどだ。
「諾…と聞こえたが」
「そう言った」
「里に帰れというのは…?」
氷冴尾は近付いて来る貴冬から横に視線を逸らしつつ、呟く。
「母親がいるといっていただろう。挨拶くらいしないとっおい」
話の途中でのしかかるように抱き締められ、氷冴尾は怒鳴った。ついでに強かに肩を叩いたが、貴冬は腕を緩めなかった。
ひたすら平行を行くやりとりを見ていて、青年達が憐れになったのか、自分が意地を張っていると思ったのか。どちらにしろ、諾の返事は自分の知る意味の通りで問題なかったと知って、貴冬は心の底から安堵した。
「そういう事か」
深々と息を吐いて、貴冬はようやく身を離した。青年達を振り返る。
「お前達はとにかくその文を持って帰れ。俺も、一度は戻ると伝えろ」
「でも」
「気が変わらぬ内に返事を持って帰った方が良いぞ」
「はい!」
青年達は貴冬の脅しのような言葉に慌てて土間へ降り、再び草鞋を履いた。
歩き通しで疲れているだろうに躊躇いなく再びの旅路へ踏み出す青年達の明るい背を見送って、氷冴尾は、自分の家に向かって歩き出す。
貴冬は、その手を掴んで引き止めた。
「一つ、聞いていいか」
「何?」
「俺を里に帰したくて、諾と言った訳ではないよな…?」
おずおずとした貴冬の問いかけに、氷冴尾は僅かに笑った。
「俺がそこまでお人好しに見えるか?」
「…まぁ、見えなくもない」
「そりゃどうも。でもそんなつもりで言った訳じゃない。俺だってお前が欲しいから諾ったんだ」
かさりと地面に落ちていた葉が飛んだ。貴冬の尾が左右に振れているせいである。
「そうか」
氷冴尾がその嬉しそうな顔を見ていると、腰のあたりに覚えのある衝撃がぶつかった。
「藍太?」
見下ろせば、やはり藍太の頭が見える。
「こりゃ藍太」
「戻りなさい」
木戸の隙間から祖母と母が藍太を手招くが、藍太はぎゅっと氷冴尾の足に抱きついて離れない。そして、一瞬だけきっと貴冬を睨みつけた。
「お前なんか嫌いだ!」
きっぱりとそう言うと、さっと氷冴尾の後ろに身を隠す。
どうしたんだ、と氷冴尾が藍太の頭を撫でるが、藍太はぎゅっと抱き付くばかりで答えない。
「………」
そんな藍太を見下ろして、貴冬は呆然としていた。
兄のように慕っている氷冴尾を取られるような感覚でいるのだろう、と予想はできる。しかしながら、幼い頃から年下には慕われてきた記憶しかない貴冬にとって、面と向かって子供に『嫌い』と言われた事は、思いがけぬ衝撃だった。なんなら泣けそうなほど悲しい。
「子供に嫌われるのは堪えるものだな…」
貴冬は、子供、という表現によって更に藍太から嫌われた事にも気付かぬまま呆然と呟いた。
「何言ってんだ」
氷冴尾の返事が否だったら、身も世もなく泣いていただろうな、と思って呆れ顔の氷冴尾に笑ってみせる。
「いや。できれば仲良くなりたいだろう」
「…ほら、藍太。仲良くなりたいってよ」
「嫌だぃ!」
「残念だな。本気で嫌われたみたいだぞ」
「まぁ、仕方がない。今は氷冴尾に好かれただけで満足する」
「好かれたって…」
「…ん?」
その、好きだと言った覚えはないけど、とでも言いそうな沈黙に、貴冬の笑みが凍りつく。
氷冴尾としては、もともと犬狼の里にいた折から好いてはいたが、という言葉だったが。
「………努力する」
「あ…? ああ」
何を、と問いかけたが、妙に思いつめた貴冬の顔を見ていたら面倒になり、氷冴尾はとりあえず頷いた。なんとなく、また阿呆だなと思う事になるだけのような気がしたのだ。
「ねぇちょっと、さっきの邪魔者帰ってったん…え? あらやだ、なんかまとまってる?」
「嘘やん。ええとこ見逃したわ!」
貴冬に手を放させて、ついでに藍太をひっぺがそうと氷冴尾が考えている内に、駆けていった犬狼の青年達に気付いた長屋の住民が集まってくる。
藍太をくっつけた己とその手を掴んだ貴冬、という姿をどう見れば、まとまったという答えが導かれるのか。氷冴尾には全く解らないが、事実まとまっているので、否定もできない。
「ふぅ…」
氷冴尾は小さく息を吐くと、貴冬の肩を押した。
「俺は寝る」
後は任せた、とは口に出さず、藍太をくっつけたまま自身の家へ戻る。
「元々解ってたけんど貴冬さん頭上がらんなぁ」
「氷冴尾さん気ままだからねぇ」
「ええやんなぁ。貴冬さんは好きで言うなりなんやもんなぁ」
歯に衣着せぬ女将連中に囲まれて、貴冬は苦く笑う他なかった。
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