花交わし

nionea

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24.近くて遠い

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 早朝の気配に目を覚まし、氷冴尾は身を起こして軽く伸びをした。
 今日も南だったな、と考えながら手拭いを肩に木戸を開ける。
「…」
 ちょうど、水の入った木桶を手にした貴冬が居た。
「おはよう」
 少し驚いたような貴冬の挨拶に頷いて、入れ違うように井戸へ向かう。どこの長屋にも井戸が有るという訳ではないので、氷冴尾は本当にここに口をきいてもらえて良かったと思っている。特に今のような時季は汲んでおいた水では虫が湧くし、温くなる。冷たい水が湧いている井戸の重宝なことといったらない。
 量はいらないので、軽めに水が入ったところで上げ、手拭いを濡らして顔を拭った。ついでに諸肌を脱いで汗をかいた体を軽く拭う。虎猫の里は今頃もう秋めいているだろうが、丹野は内陸であり、盆地であるためか未だ残暑が去らずにいる。それは、厳しいというほどの暑さではないが、やはり寝ている間にそれなりに汗をかくので、井戸水の冷たさが心地良い。
「氷冴尾兄ちゃん!」
 湿ったままの手拭いを首にかけ、袖を通したところで、藍太のはしゃいだ声が聞こえた。視線を上げると、木桶を手に立ち尽くしていた貴冬の横を軽く走りながら通り過ぎる。
「どうだった?」
「女の子だった!」
「そうか」
 本当は子供の性別ではなく、お産の状況そのもののを尋ねたのだが、藍太はしゃぎように母子共に無事だったのだろうと解ったので、氷冴尾は軽く頷いて飛びついてきた頭を撫でた。
「朝から元気だねぇ」
 欠伸混じりにそんな事を言いながら、木柴も長屋を出てきた。貴冬が木桶の水を渡すと、気を遣わなくていいのに悪いね、と言いながら顔を洗う。
 藍太をくっつけたままそちらに歩み寄ると、木桶で顔を洗うためにしゃがんでいた木柴が、
「おはようさん」
と、藍太に向かって挨拶をした。
「うん」
 ささっと氷冴尾の後ろに隠れながらの返事に、割と子供には好かれる質だと思ってきた木柴が苦笑を浮かべる。
「やっぱ俺みたいにデカいのは怖いかねぇ」
 挨拶をするようになって数日経つのに一向に懐いてもらえない事が、地味に悲しかった。
「怖くなんかないやい」
 嘆息混じりの木柴の言葉に藍太はすぐに反論したが、相変わらず氷冴尾の後ろに隠れたままだ。
 木柴としては苦笑するしかない。
「目を合わせようとするからだ」
 取り持つような事は得意ではなかったが、怖がられていると木柴が思い込むのも、弱虫だと思われていると藍太が拗ねるのも、どうにかできるならするべきだろうと、氷冴尾は口を開いた。
「目?」
「猫族は目を合わせるのが嫌いなんだ」
「えぇ? あ、そういう…へぇ」
 言われてみれば、藍太だけではなくその家族や氷冴尾とも目が合わないなと思い出して木柴は得心がいった。しかしながら、全く目が合わないわけではないはずだと首を捻る。
「でも、目見て話すよなぁ?」
 そう氷冴尾に訊けば、
「顔を見て話す事はあるが、目は見てない」
と、返された。
「顔を見る………」
 氷冴尾の後ろから少し顔を出した藍太の、額のあたりを注視してみる。
「こんな感じか?」
 ひょこっと藍太が氷冴尾の後ろから出て来たので、こういう感じで良いのかと解りかけた木柴だったが、つい視線をずらして目を覗き込んでしまう。さっ、と再び隠れられてしまった。
「結構難しいなぁ」
 木柴が頭を掻きつつ立ち上がれば、不審そうな顔の貴冬が目に入る。
「どうしたよ?」
「いや…」
 首を捻る木芝に首を振って、貴冬は氷冴尾に声をかける。
「爪刃殿とは目が合っていたように思ったのだが」
「爪兄は族長だから、自分から目を逸らすとかはない」
「…なるほど」
 言われて思い返せば、氷冴尾と目が合った事はない気がした。普段向かい合って会話をする機会もそもそもあまりなかったので気にしていなかったが、春陽との昼餉の刻も視線を合わせていなかった事がまざまざと思い出せた。
 そうした一連が猫族の習性なのだと考えれば、氷冴尾のそっけないような態度にも納得がいく。はじめは、性格的なものかと思っていたが、春陽との昼餉の際も自分との会話の際も、存外すらすらと言葉は出ていた。ただ視線を逸らす動作が多かったり、目が合わないというだけで、会話はとんとんと調子良く続いていたものだ。
 話合えば、すぐに解った誤解。
「大切だな」
 話し合う事。互いに、まず怒るのではなく、何故なのか、問いかける事。
「何が?」
「互いを知る事が」
 貴冬の呟きの意味が解らず問いかけた氷冴尾だったが、答えに再び眉を寄せた。
「まぁ、質の違いは色々あるしなぁ」
 木芝の言葉に、それとなく納得して、氷冴尾は藍太の背を叩いて家に戻るよう促す。
 促された藍太が元気な声で、ただいま、と言う声を合図にしたかのように長屋全体も動き始めた。
 陽のある内が仕事時間である。氷冴尾は夜に握り飯にしておいた物を咥えつつ着替えた。二つ目を咥えたまま表に出る。朝餉の準備に忙しくしている者からの挨拶に軽く手で答えつつ通りに向かっていると、
「氷冴尾!」
 少し慌てた様子の貴冬に呼び止められた。
「ん?」
「一緒に行って良いか」
 咥えていた握り飯を手に持って、氷冴尾は首を捻る。
「何で?」
「木柴から聞いたが、今は大工仕事の手伝いをしていると」
「ああ」
 氷冴尾は頷きかけて、逆に顔を上げる。
「材木の件か」
 貴冬は頷いてから、できるだけ目を覗き込む事を避けようと、眉間のあたりを見つめて話す。 
「棟梁なり、まとめ役なりに紹介してもらえるとありがたい」
「解った。とりあえず今日俺が行く南の作事場の棟梁に、っても俺も働き始めたばっかだからな、口添えにはならないだろうけど」
「それはこちらできちんと話をするつもりだ。爪刃殿に聞いた限り、虎猫の材木はしっかりとしているし、ここまで運ぶのも酷く手間だという事もないから。そうした事を伝えれば問題なく取引できるだろう」
「あの木がなぁ」
 売り物になるものなのか、と氷冴尾は数度瞬きをした。
 虎猫の里では、昔から山の木を定期的に伐り出している。家を建てるとか、橋をかけるとか、そういう計画が無くともだ。そして、戦もしなくなり、生活が安定的になると、この材木は消費され不足するのではなく余り始めたのである。氷冴尾が里を出る直前は、もう材木を収めて置く場所がないから今年は切り出しを止めるか否かと話をしていたはずだ。
 今は大工仕事の手伝いをしているし、里では自分で家の修繕もしていたから、氷冴尾だって材木が貴重な事は解っている。
 この国はざっと見回して山が無い場所を探すのが一苦労なほど山だらけだ。なので、丹野だけを見ても、いくらでも周りに良い木はある。しかしながら、良い材木は、一朝一夕で作れるものではない。作事方が一時的に寝起きする荒屋ならば、切り出してすぐの生木でも良いだろう。だが、これから何年、何十年と人が暮らす家となれば、しっかりと乾燥させた材木でなくてはならない。大きくしっかりとした柱であろうと切った板だろうと、腐らせずに寝かせるには手間がかかるのだ。
 だから、この日毎大きくなっていく丹野には、いくら材木があっても困らない。
(思いつきもしなかったな)
 氷冴尾は知っていた。虎猫の里に材木が余っている事も、この丹野が材木を必要としている事も、だが、里から材木を持ってきて売るという事は考えなかった。
 やはり爪刃が族長で良かった、と微笑んだ氷冴尾に貴冬が問いかけた。
「どうした」
「面白いなと思っただけだ」
 残暑の終わりを思わせるような、涼しい風が一陣、吹き抜けた。
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