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17.去りゆくもの
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氷冴尾がいなくなった離れの広間の縁側に、腰掛けて、春陽は、まだ名もない吾子を抱いて物思いに沈んでいた。
(何処に行ってしまったのだろう)
お世辞にも言葉遣いが丁寧とは言えない氷冴尾との、だが決して悪口をきくわけではない会話を思い出しながら、春陽はもう何度目かの溜息を吐いた。
氷冴尾と昼餉を共にする日々の中で、いくつか気が付いた事がある。
一人しか知らない、と爪刃が言った言葉の通り、氷冴尾はいつも自分が一人でいる事が普通で、それ以外を例外的な状態だと思っているようだった。自分だけが離れに残り、今まで会話をしていた者が去っていくのを見送る際、名残惜しそうにする事は一度もなかった。
(もっと、話したい事があったのに…)
氷冴尾との会話は、決して弾むというわけではなかった。だが、単に爪刃の話を聞かせてもらえるからというだけではなく、氷冴尾自身の物の考え方や感じ方を知れるのはとても楽しく、その刻を過ごせる事を春陽は嬉しく思っていた。嫌がられない範囲で、できる限りこの離れにやって来たかったし、できれば母屋に移ってもらいたいと考えていた。
しかしながら、急に、氷冴尾にとって例外的な状況をこちらの希望で長々と続けていいものか解らず。また、海春が妙に腹を立て、何故か氷冴尾の事を悪く言うのが気になって、結局昼餉の間以外は離れに近づく事は遠慮していた。
その内に、海春が氷冴尾の元に全く近付かない事に気付いた。本人に問いかけても、ムッとした顔で黙り込むだけで、理由は解らず、それとなく父母に問いかけても、夫婦の事は傍からは解らぬものだからとはぐらかされた。かといって、氷冴尾に尋ねる事もできない。結局、貴冬に何かあったのかと問いかけた。
そして、何か有った、というよりも、何も無い、のだと知った。
「でも…海春と氷冴尾さんは七夜参りを終えているはずでしょう?」
そう聞き返した際の貴冬の表情に、春陽は初めてこの兄のような相手に恐怖を覚えた。思わずぎくりと体が強張り、背を冷や汗が流れたのだ。
見た事もない暗い表情の目には、深く重い怒りが在った。この正に瞬き一つで消えたその怒りは、氷冴尾を探すために爪刃が去った部屋へやって来た際の彼に再び灯っていた。
『虎猫の族長と共に行く事をお許し下さい』
そう頭を下げた貴冬に、族長は安心したように許しを出した。
立場上、犬狼の里の者が探しに出ない訳にはいかない。本当は海春がするべき役目を代わりに申し出てくれて良かった、と父がそういう思いで安堵したのだろうと解って、春陽は歯痒さが募った。それとは別に、貴冬の怒りが伝わって、何か言わなければと思うのに何を言えば良いのか解らなかった。
あの刻。貴冬は一度も、その場の誰とも目を合わせずに去っていった。
(貴冬兄さん…もう)
「どうしてこんな所にいるんだ」
思考の中から引き上げた声の主の方を向いて、春陽は僅かに眉を寄せた。
海春が、離れを睨むように立っていた。
「………」
春陽は、この双子の兄をずっと慕ってきた。自分とは違い族長になる事を幼い頃から定められ、窮屈そうにでも頑張っている姿を尊敬さえしていた。だからこそ、何故氷冴尾との仲がこんな結果になったのか、理解できなかった。
氷冴尾と関わるほど、兄とはきっと仲良くなれると感じた。ただ、互いに交流が足りていないだけなのだと思い、何度も、ときに貴冬と一緒に、言葉を尽くした。だが、海春は、一度も氷冴尾の元に足を運ぶ事はなかった。
「赤子には日差しが強いだろう。母屋に戻ったらどうだ」
気遣いの言葉に、感謝よりも、疑問が湧く。
どうして、この兄は、氷冴尾には同じ事をできなかったのだろうか、と。
「…兄様は、少しでも氷冴尾さんにお心を砕かれましたか?」
思わず、口にしていた。
駕籠の中で膨れ上がった不安を抱えて、虎猫の里へと着いた日。柔らかな笑みで迎えられた、ただそれだけの事が、どれほど心を軽くしてくれたか。習慣の違いに戸惑いただ立ち尽くすだけだった己を、責める事もなくまず問いかけてくれた事で、どれほど救われたか。気遣われる度に、自分に関心を向けられているのだと知る度に、歩み寄っても良いのだと信じられる日々の積み重ねが、今離れていても笑えるだけの絆を結んでくれた。
春陽がそんな日々を過ごす間、このふるさとで氷冴尾の過ごした日々を思うと、責めるような口調で言葉を口にするのを止められなかった。
「何を」
「爪刃様は、私が里に赴いて一月。物慣れぬ私が里に馴染むまで、ただ寄り添い、手ずからお忙しい合間を縫って案内などをしてくださいました」
無理に急ぐ事はないと、七夜参りも婚儀も落ち着くまではと延ばしてくれた。
「兄様は氷冴尾さんのお気持ちを、慮りましたか?」
貴冬が言葉を濁した裏に、何があったのかは判然としない。それでも、事が性急に進んだという事実ははっきりしている。
「それは…お前とあいつは違う」
あいつ、という同じ言葉なのに、どうして爪刃の口から聞く響きとこれほど違うのだろうか。春陽は、自分でも何故こんなに腹が立つのかよく解らなくなりつつも、言葉を止める事はなかった。
「何が違ったのでしょうか。私は虎猫の里へと嫁ぐ事を喜んではいませんでした。それは、氷冴尾さんも同じでしょう」
「っ!」
「立場が有るからこそ飲み込んだのです。そんな決意を、兄様は…次期族長であるあなたは、踏み躙ったのですよ」
口に出して初めて、そうか、と春陽は納得した。
「違う! 夫としての義務は――」
「果たしていたと? では何故このような事態となったのですか? 私は、氷冴尾さんに申し訳がありません」
悔しいのだ。爪刃と兄を比べて嘆く己が。氷冴尾に見限られた里が。自分の誇るものが汚されたような気がするのに、原因が当の誇っているものであるという行き場の無い悲しさ。そういうものが全て、憤りになって、悔しくて堪らない。
「お前がそんな事を思う必要など」
「ない、とお考えになる事が、間違いです」
「………春陽」
「立場がおありですから、兄様はやがて新たな嫁御をお迎えになるでしょう。その際は同じ轍を踏まぬよう、どうぞご留意下さい」
春陽は、冷たい物言いをしている事を自覚しながらも、それ以外の態度をとれなかった。
(何処に行ってしまったのだろう)
お世辞にも言葉遣いが丁寧とは言えない氷冴尾との、だが決して悪口をきくわけではない会話を思い出しながら、春陽はもう何度目かの溜息を吐いた。
氷冴尾と昼餉を共にする日々の中で、いくつか気が付いた事がある。
一人しか知らない、と爪刃が言った言葉の通り、氷冴尾はいつも自分が一人でいる事が普通で、それ以外を例外的な状態だと思っているようだった。自分だけが離れに残り、今まで会話をしていた者が去っていくのを見送る際、名残惜しそうにする事は一度もなかった。
(もっと、話したい事があったのに…)
氷冴尾との会話は、決して弾むというわけではなかった。だが、単に爪刃の話を聞かせてもらえるからというだけではなく、氷冴尾自身の物の考え方や感じ方を知れるのはとても楽しく、その刻を過ごせる事を春陽は嬉しく思っていた。嫌がられない範囲で、できる限りこの離れにやって来たかったし、できれば母屋に移ってもらいたいと考えていた。
しかしながら、急に、氷冴尾にとって例外的な状況をこちらの希望で長々と続けていいものか解らず。また、海春が妙に腹を立て、何故か氷冴尾の事を悪く言うのが気になって、結局昼餉の間以外は離れに近づく事は遠慮していた。
その内に、海春が氷冴尾の元に全く近付かない事に気付いた。本人に問いかけても、ムッとした顔で黙り込むだけで、理由は解らず、それとなく父母に問いかけても、夫婦の事は傍からは解らぬものだからとはぐらかされた。かといって、氷冴尾に尋ねる事もできない。結局、貴冬に何かあったのかと問いかけた。
そして、何か有った、というよりも、何も無い、のだと知った。
「でも…海春と氷冴尾さんは七夜参りを終えているはずでしょう?」
そう聞き返した際の貴冬の表情に、春陽は初めてこの兄のような相手に恐怖を覚えた。思わずぎくりと体が強張り、背を冷や汗が流れたのだ。
見た事もない暗い表情の目には、深く重い怒りが在った。この正に瞬き一つで消えたその怒りは、氷冴尾を探すために爪刃が去った部屋へやって来た際の彼に再び灯っていた。
『虎猫の族長と共に行く事をお許し下さい』
そう頭を下げた貴冬に、族長は安心したように許しを出した。
立場上、犬狼の里の者が探しに出ない訳にはいかない。本当は海春がするべき役目を代わりに申し出てくれて良かった、と父がそういう思いで安堵したのだろうと解って、春陽は歯痒さが募った。それとは別に、貴冬の怒りが伝わって、何か言わなければと思うのに何を言えば良いのか解らなかった。
あの刻。貴冬は一度も、その場の誰とも目を合わせずに去っていった。
(貴冬兄さん…もう)
「どうしてこんな所にいるんだ」
思考の中から引き上げた声の主の方を向いて、春陽は僅かに眉を寄せた。
海春が、離れを睨むように立っていた。
「………」
春陽は、この双子の兄をずっと慕ってきた。自分とは違い族長になる事を幼い頃から定められ、窮屈そうにでも頑張っている姿を尊敬さえしていた。だからこそ、何故氷冴尾との仲がこんな結果になったのか、理解できなかった。
氷冴尾と関わるほど、兄とはきっと仲良くなれると感じた。ただ、互いに交流が足りていないだけなのだと思い、何度も、ときに貴冬と一緒に、言葉を尽くした。だが、海春は、一度も氷冴尾の元に足を運ぶ事はなかった。
「赤子には日差しが強いだろう。母屋に戻ったらどうだ」
気遣いの言葉に、感謝よりも、疑問が湧く。
どうして、この兄は、氷冴尾には同じ事をできなかったのだろうか、と。
「…兄様は、少しでも氷冴尾さんにお心を砕かれましたか?」
思わず、口にしていた。
駕籠の中で膨れ上がった不安を抱えて、虎猫の里へと着いた日。柔らかな笑みで迎えられた、ただそれだけの事が、どれほど心を軽くしてくれたか。習慣の違いに戸惑いただ立ち尽くすだけだった己を、責める事もなくまず問いかけてくれた事で、どれほど救われたか。気遣われる度に、自分に関心を向けられているのだと知る度に、歩み寄っても良いのだと信じられる日々の積み重ねが、今離れていても笑えるだけの絆を結んでくれた。
春陽がそんな日々を過ごす間、このふるさとで氷冴尾の過ごした日々を思うと、責めるような口調で言葉を口にするのを止められなかった。
「何を」
「爪刃様は、私が里に赴いて一月。物慣れぬ私が里に馴染むまで、ただ寄り添い、手ずからお忙しい合間を縫って案内などをしてくださいました」
無理に急ぐ事はないと、七夜参りも婚儀も落ち着くまではと延ばしてくれた。
「兄様は氷冴尾さんのお気持ちを、慮りましたか?」
貴冬が言葉を濁した裏に、何があったのかは判然としない。それでも、事が性急に進んだという事実ははっきりしている。
「それは…お前とあいつは違う」
あいつ、という同じ言葉なのに、どうして爪刃の口から聞く響きとこれほど違うのだろうか。春陽は、自分でも何故こんなに腹が立つのかよく解らなくなりつつも、言葉を止める事はなかった。
「何が違ったのでしょうか。私は虎猫の里へと嫁ぐ事を喜んではいませんでした。それは、氷冴尾さんも同じでしょう」
「っ!」
「立場が有るからこそ飲み込んだのです。そんな決意を、兄様は…次期族長であるあなたは、踏み躙ったのですよ」
口に出して初めて、そうか、と春陽は納得した。
「違う! 夫としての義務は――」
「果たしていたと? では何故このような事態となったのですか? 私は、氷冴尾さんに申し訳がありません」
悔しいのだ。爪刃と兄を比べて嘆く己が。氷冴尾に見限られた里が。自分の誇るものが汚されたような気がするのに、原因が当の誇っているものであるという行き場の無い悲しさ。そういうものが全て、憤りになって、悔しくて堪らない。
「お前がそんな事を思う必要など」
「ない、とお考えになる事が、間違いです」
「………春陽」
「立場がおありですから、兄様はやがて新たな嫁御をお迎えになるでしょう。その際は同じ轍を踏まぬよう、どうぞご留意下さい」
春陽は、冷たい物言いをしている事を自覚しながらも、それ以外の態度をとれなかった。
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