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13.思い出
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翌朝。
朝餉をとる前に爪刃は虎猫の里への帰路に着くこととなった。
「氷冴尾」
「何?」
見送りの場で名を呼ばれ、氷冴尾は小言でも言いたいのかと思いながら返事をした。
「海春殿と仲良うな」
「…何それ、惚気?」
「おう」
「さっさと帰れよ。鬱陶しいな」
「はは、言われんでも帰るさ。帰りたくない気もするがな」
春陽と目を合わせて、爪刃が微笑む。
「あーはいはい御馳走さん」
軽口を叩いて送り出し、さほど行かない内に離れに戻ろうと踵を返した。
だが、
「あの」
と、春陽に呼び止められて、氷冴尾は歩みを止めた。
「よろしければ、朝餉は一緒にとりませんか?」
氷冴尾はその誘いに乗っても良いと思ったが、春陽の背後で睨むようにこちらを見ていた海春に気付いて首を横に振った。
「俺はこれから一眠りするから」
「そうですか…では昼餉は是非」
「うん。まぁ、起きてたら」
はっきりとは答えずに離れに戻って、特にする事もないので、本当に一眠りする。夜にはちゃんと寝ていたし、それほど眠るつもりではなかったのだが、目を覚ますと昼が間近という陽の昇り具合だった。
(どうするかな)
少し迷って、氷冴尾は昼餉を春陽と一緒にとろうと思った。直接は言い難いので、貴冬を探しに離れを出る。いつも飯時の前後は厨にいると聞いているから、行けば会えるだろうと考えたのだ。
厨に行った事はないが、大体の場所は聞いていた。いつも貴冬が来る裏手から回っていけばすぐだろう、と屋敷全体の裏に回り込む。庭の木陰を選んで歩いたのは、ただ強まっている陽を避けようと思っただけで他意は無かった。母屋から見え難い場所を選んだというつもりは全くなかったのだが、結果的に氷冴尾はこの後心から良かったと思う事になる。
水の流れが眩しい滝があり、障子を開けて庭を見れば涼がとれるのだろうな、と感心しながら脇を行く。
「本気で言っているのですか?」
水音にもかき消されず、氷冴尾の耳にするりとその声は届いた。
「春陽と爪刃殿の子がいれば、里の結び付きは強固だ。いつまでもあいつをこの家に置いておく意味がない」
「それは…」
族長の嬬と海春の、母子の会話だった。
氷冴尾は止めてしまった足を、再び動かす。会話はすぐに遠くなった。瑞々しい緑の匂いに満ちた庭を歩きながら、一度、深く呼吸をする。聞こえた『あいつ』が誰なのか解らないような会話ではなかった。もし、そうでなかったとしても、この屋敷で海春が憎々しげに口にする誰かの事は、漏れなく自分だろうと弁えている。
(そのうち出て行けって言われるって事か)
子が産まれるまではあと半年ほどだっただろうか。確か、そう聞いた。では猶予はそれくらいか、と考えている内に、厨が見える所に着く。既に湯気を上げている格子窓を見るともなしに見ていると、視界の端に近付いて来る者がいるのに気付いた。
視線を向けると、襷を外しながら、貴冬が駆け寄って来ていた。
「どうした? こんなところで」
「…別に」
どうしたのかと問いかけられて、初めて、何もどうともしていない、と解った。
(始めからそうだったな)
視線を伏せながら、ここに来ようとした目的を思い出す。
「昼餉は…離れで食べる」
「え、ああ」
「じゃあ」
氷冴尾は踵を返して来た道を戻り始めた。
「…!」
わざわざここまで言いに来たのかと、不思議に思いながら見送る貴冬の目に、木漏れ日の中で緑色に染まる氷冴尾の姿が、景色に溶けるように見えた。
「貴冬さん」
だが、声を上げるよりも、自分が呼ばれる方が早く。一瞬そちらに目をやり、視線を戻した時には、はっきりとした後姿があった。後髪を引かれつつ呼ばれた方へ向かう。
貴冬に声をかけたのは厨の女中だったが、呼んでいたのは春陽だった。
「どうした?」
「実は、貴冬兄さんにお願いがあって」
春陽の頼みに、快く頷いて、貴冬は自分の目が見た幻を振り払った。
自分が去った後で行われているやりとりの事など知らずに離れに戻った氷冴尾は、庭から広間へ回り込み、縁側に身を投げ出した。
色々とこれから考えなければならない事はあるが、いくつかはっきりしている事もある。期限は春陽が子どもを産むまで、そして虎猫の里には戻れないだろうという事、屋敷を出て、犬狼の里にもいられないだろう。何処に行けば良いか。
(…しまった)
まだまとまりそうもない考えをつらつらと続けている内に日向で丸くなっていた氷冴尾は、足音に気付いて目を覚ました。顔を上げれば予想通り、昼餉の膳を持った貴冬が立っている。ただし、その後ろに同じく膳を持った春陽が続いていた事は予想外だった。
「こちらでご一緒した方が、爪刃様のお話も聞き易いと思って」
「そうか…」
戸惑いはあったが、決して嫌ではなく。氷冴尾は、広間で春陽と膳を並べて昼を過ごした。
そして、その日以降、昼になると、春陽が膳を持って現れるようになった。
(まぁいいか…)
更に数日経って、
「そういえば貴冬兄さんはいつも控えているけど、一緒に食べてしまえば?」
と、提案したため、今は三人で昼餉をとっている。
僅かずつ、だが確実に強さを増す陽の光を避け、広間の涼やかな場所で昼餉をとりながら、どうしてこんなに穏やかな時を過ごしているのか不思議に思った時もあった。
(もう少しの事だ)
だが、この先どう過ごしていくのかについての考えもそれなりにまとまった今は、春陽達と過ごす時は、良い思い出だと思っている。虎猫の里を出て、爪刃と離れてから、もう触れる機会もないだろうと考えていた温かな優しい時間があれば、今後に怯む事もない。氷冴尾は、海春には申し訳ないが、春陽と貴冬と過ごせて良かったな、としみじみ思った。
朝餉をとる前に爪刃は虎猫の里への帰路に着くこととなった。
「氷冴尾」
「何?」
見送りの場で名を呼ばれ、氷冴尾は小言でも言いたいのかと思いながら返事をした。
「海春殿と仲良うな」
「…何それ、惚気?」
「おう」
「さっさと帰れよ。鬱陶しいな」
「はは、言われんでも帰るさ。帰りたくない気もするがな」
春陽と目を合わせて、爪刃が微笑む。
「あーはいはい御馳走さん」
軽口を叩いて送り出し、さほど行かない内に離れに戻ろうと踵を返した。
だが、
「あの」
と、春陽に呼び止められて、氷冴尾は歩みを止めた。
「よろしければ、朝餉は一緒にとりませんか?」
氷冴尾はその誘いに乗っても良いと思ったが、春陽の背後で睨むようにこちらを見ていた海春に気付いて首を横に振った。
「俺はこれから一眠りするから」
「そうですか…では昼餉は是非」
「うん。まぁ、起きてたら」
はっきりとは答えずに離れに戻って、特にする事もないので、本当に一眠りする。夜にはちゃんと寝ていたし、それほど眠るつもりではなかったのだが、目を覚ますと昼が間近という陽の昇り具合だった。
(どうするかな)
少し迷って、氷冴尾は昼餉を春陽と一緒にとろうと思った。直接は言い難いので、貴冬を探しに離れを出る。いつも飯時の前後は厨にいると聞いているから、行けば会えるだろうと考えたのだ。
厨に行った事はないが、大体の場所は聞いていた。いつも貴冬が来る裏手から回っていけばすぐだろう、と屋敷全体の裏に回り込む。庭の木陰を選んで歩いたのは、ただ強まっている陽を避けようと思っただけで他意は無かった。母屋から見え難い場所を選んだというつもりは全くなかったのだが、結果的に氷冴尾はこの後心から良かったと思う事になる。
水の流れが眩しい滝があり、障子を開けて庭を見れば涼がとれるのだろうな、と感心しながら脇を行く。
「本気で言っているのですか?」
水音にもかき消されず、氷冴尾の耳にするりとその声は届いた。
「春陽と爪刃殿の子がいれば、里の結び付きは強固だ。いつまでもあいつをこの家に置いておく意味がない」
「それは…」
族長の嬬と海春の、母子の会話だった。
氷冴尾は止めてしまった足を、再び動かす。会話はすぐに遠くなった。瑞々しい緑の匂いに満ちた庭を歩きながら、一度、深く呼吸をする。聞こえた『あいつ』が誰なのか解らないような会話ではなかった。もし、そうでなかったとしても、この屋敷で海春が憎々しげに口にする誰かの事は、漏れなく自分だろうと弁えている。
(そのうち出て行けって言われるって事か)
子が産まれるまではあと半年ほどだっただろうか。確か、そう聞いた。では猶予はそれくらいか、と考えている内に、厨が見える所に着く。既に湯気を上げている格子窓を見るともなしに見ていると、視界の端に近付いて来る者がいるのに気付いた。
視線を向けると、襷を外しながら、貴冬が駆け寄って来ていた。
「どうした? こんなところで」
「…別に」
どうしたのかと問いかけられて、初めて、何もどうともしていない、と解った。
(始めからそうだったな)
視線を伏せながら、ここに来ようとした目的を思い出す。
「昼餉は…離れで食べる」
「え、ああ」
「じゃあ」
氷冴尾は踵を返して来た道を戻り始めた。
「…!」
わざわざここまで言いに来たのかと、不思議に思いながら見送る貴冬の目に、木漏れ日の中で緑色に染まる氷冴尾の姿が、景色に溶けるように見えた。
「貴冬さん」
だが、声を上げるよりも、自分が呼ばれる方が早く。一瞬そちらに目をやり、視線を戻した時には、はっきりとした後姿があった。後髪を引かれつつ呼ばれた方へ向かう。
貴冬に声をかけたのは厨の女中だったが、呼んでいたのは春陽だった。
「どうした?」
「実は、貴冬兄さんにお願いがあって」
春陽の頼みに、快く頷いて、貴冬は自分の目が見た幻を振り払った。
自分が去った後で行われているやりとりの事など知らずに離れに戻った氷冴尾は、庭から広間へ回り込み、縁側に身を投げ出した。
色々とこれから考えなければならない事はあるが、いくつかはっきりしている事もある。期限は春陽が子どもを産むまで、そして虎猫の里には戻れないだろうという事、屋敷を出て、犬狼の里にもいられないだろう。何処に行けば良いか。
(…しまった)
まだまとまりそうもない考えをつらつらと続けている内に日向で丸くなっていた氷冴尾は、足音に気付いて目を覚ました。顔を上げれば予想通り、昼餉の膳を持った貴冬が立っている。ただし、その後ろに同じく膳を持った春陽が続いていた事は予想外だった。
「こちらでご一緒した方が、爪刃様のお話も聞き易いと思って」
「そうか…」
戸惑いはあったが、決して嫌ではなく。氷冴尾は、広間で春陽と膳を並べて昼を過ごした。
そして、その日以降、昼になると、春陽が膳を持って現れるようになった。
(まぁいいか…)
更に数日経って、
「そういえば貴冬兄さんはいつも控えているけど、一緒に食べてしまえば?」
と、提案したため、今は三人で昼餉をとっている。
僅かずつ、だが確実に強さを増す陽の光を避け、広間の涼やかな場所で昼餉をとりながら、どうしてこんなに穏やかな時を過ごしているのか不思議に思った時もあった。
(もう少しの事だ)
だが、この先どう過ごしていくのかについての考えもそれなりにまとまった今は、春陽達と過ごす時は、良い思い出だと思っている。虎猫の里を出て、爪刃と離れてから、もう触れる機会もないだろうと考えていた温かな優しい時間があれば、今後に怯む事もない。氷冴尾は、海春には申し訳ないが、春陽と貴冬と過ごせて良かったな、としみじみ思った。
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