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3.雪景色の印象
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一人自室に戻って、犬狼族の次期族長である海春(みはる)は詰めていた息を吐いた。
(愛想の無い奴だ…)
駕籠から出てきた時、見慣れない白い毛色に目が惹かれた。が、こちらを向いた目の見慣れない空のような色に気付いて、もっとよく見たいと思った時にはもう視線はすっと逸らされていた。結局その後もろくに目は合わなかった。
常に柔らかな微笑みを浮かべているような、穏やかな気性の弟の表情が過る。
「何故あのように高慢な態度の虎猫の代わりに春陽(はるひ)様が嫁がねばならないのでしょう」
そんな自分の心を見透かしたような言葉に、僅かに驚きと怯えを感じながら海春は床を睨みつけていた顔を上げる。
産まれてからずっと、身の回りの世話をしてくれている小富士(さふじ)という媼が苦々しい顔で立っていた。
「小富士…」
「虎猫はそもそも自己愛が強く傲慢です。そのような者達がひしめく里に春陽様が追いやられ…さぞご苦労をなさっているに違いありません」
嗚呼嘆かわしい、と小富士は袂で涙を拭った。
海春は、そこまで酷い事になっていはいないだろうとは思っていたが、小富士が心配する気持ちも十分に理解できた。弟は、心根の優しい質だ。誰かの為ならば自分が黙って我慢をするような所もある。相争っていた記憶は、昔と言えるほどではあれど消えたと言える程ではない。虎猫の里は敵地と言えなくもないのだ。
もはや何時何があってもおかしくない祖母よりも年上の小富士の細い肩に手を置き、海春は慰めるように撫でる。
「あの虎猫…側仕えは要らぬと申しました」
ややあって、ようやく涙を止めた小富士は、ぼそりと呟いた。
「ああ」
海春はその言葉に何気なく頷いた。
虎猫族には元々個人主義なところがあるというし、氷冴尾の質として数多という状況を好まないとも伝えられていた。だからこそ、彼には慣れるまでは、と離れで寝起きをしてもらう事になっているし、特定の側仕えも置いていない。
「…良からぬ企みがあるのではないでしょうか」
「ん?」
低く押し込められた言葉は、海春にとって予想外過ぎたせいもあって、一瞬彼の耳を通り過ぎた。
「あの虎猫の者です! 犬狼の者を遠ざけ、何か良からぬ企みを持っているのではありますまいか」
「まさか。気にし過ぎだ小富士」
海春は苦笑を浮かべた。まだ乗せていた手で、小富士の肩を掴み、元気付ける様に笑いかける。正しく老婆心で、彼女はよく随分念の入った心配をする事がある。大概の事は気にし過ぎの考え過ぎだ。とはいえ、自分の事を慮っての事だとは理解している。
「大丈夫だから心配するな」
愛想の無い押し付けられた嫁。海春にとっても望まぬ存在で、決して好意的に受け入れられる者ではないが、これは里同士の婚姻なのだ。事態の重要さは、あちらも理解しているはずだろう。望んではいなくとも仕方が無いと飲み込む他はないのだ。
(何もない…そもそもさせるものか)
犬狼族を遠ざけたと言っても、虎猫族もまた氷冴尾の側には居ない。族長屋敷は出入りも目も多く、何か動きがあればすぐに知れる。
海春は小富士の憤りに震える肩を宥めつつ、自分の中の疑惑と憤りも宥めにかかったのだが、虎猫族そのものに悪印象を抱いている彼女を宥めるのは並大抵の事ではなかった。
軽々にこれからは虎猫族とも仲良くしていかねば、などと言おうものなら、懇々切々と虎猫族との争いの歴史を語られる。心配はもっともだが俺が対処するから大丈夫だ、と請け合おうものなら、次期族長たる御身を危機に晒すなどもっての外だと長々説教をされる。もうとにかく良い加減にしてくれ忙しい、と話を切り上げようものなら、海春様は小富士をお嫌いになってしまわれたとはらはら泣かれる。
結局どんな反応反論も、小富士の心配に辛抱強く付き合う以外の方法は無駄だった。
「はぁ…」
気疲れから溜息を吐き出して、夕餉に向かう海春は、膳の間付近の廊下で族長である父に呼び止められた。
「海春」
「はい」
「氷冴尾殿と話したか?」
僅かに問い詰めるような父の言葉に、気まずく視線を逸らしながら海春は首を横に振った。
「………いえ」
諸々の儀式を前に、話をするよう言われていたのを忘れていた訳ではない。ただ、小富士の相手をしていたら時間と気力を失くしてしまっていた。
「ふぅ…氷冴尾殿は儀式の準備もあって夕餉はとらん。だから前もって話しておけと言ったのに」
呆れたというような父の溜息に、海春はむっとする。式次第くらい彼とて心得ている。話をする機会が限られているという事くらい解っていたから小富士をあれこれと説得しようとしたのだ。それなのに、そんな事情も知らずに、ただ呆れられては、何だか腹が立った。
「まぁ良い。夜は長いからな」
ゆっくりと話をしろ、と言って膳の間に入っていった父の背を見送って、海春は拳を握りしめた。
(話す事など…)
何故自分がこんな思いをしなければならないのか。何故弟が遠く嫁がされねばならないのか。顔も知らぬ先祖が始めた争いのために、どうして今、己達が犠牲を強いられねばならないのだろう。
美しい顔をしていたがにこりともしない、白い髪に縁どられた横顔が頭を過った。
(愛想の無い奴だ…)
駕籠から出てきた時、見慣れない白い毛色に目が惹かれた。が、こちらを向いた目の見慣れない空のような色に気付いて、もっとよく見たいと思った時にはもう視線はすっと逸らされていた。結局その後もろくに目は合わなかった。
常に柔らかな微笑みを浮かべているような、穏やかな気性の弟の表情が過る。
「何故あのように高慢な態度の虎猫の代わりに春陽(はるひ)様が嫁がねばならないのでしょう」
そんな自分の心を見透かしたような言葉に、僅かに驚きと怯えを感じながら海春は床を睨みつけていた顔を上げる。
産まれてからずっと、身の回りの世話をしてくれている小富士(さふじ)という媼が苦々しい顔で立っていた。
「小富士…」
「虎猫はそもそも自己愛が強く傲慢です。そのような者達がひしめく里に春陽様が追いやられ…さぞご苦労をなさっているに違いありません」
嗚呼嘆かわしい、と小富士は袂で涙を拭った。
海春は、そこまで酷い事になっていはいないだろうとは思っていたが、小富士が心配する気持ちも十分に理解できた。弟は、心根の優しい質だ。誰かの為ならば自分が黙って我慢をするような所もある。相争っていた記憶は、昔と言えるほどではあれど消えたと言える程ではない。虎猫の里は敵地と言えなくもないのだ。
もはや何時何があってもおかしくない祖母よりも年上の小富士の細い肩に手を置き、海春は慰めるように撫でる。
「あの虎猫…側仕えは要らぬと申しました」
ややあって、ようやく涙を止めた小富士は、ぼそりと呟いた。
「ああ」
海春はその言葉に何気なく頷いた。
虎猫族には元々個人主義なところがあるというし、氷冴尾の質として数多という状況を好まないとも伝えられていた。だからこそ、彼には慣れるまでは、と離れで寝起きをしてもらう事になっているし、特定の側仕えも置いていない。
「…良からぬ企みがあるのではないでしょうか」
「ん?」
低く押し込められた言葉は、海春にとって予想外過ぎたせいもあって、一瞬彼の耳を通り過ぎた。
「あの虎猫の者です! 犬狼の者を遠ざけ、何か良からぬ企みを持っているのではありますまいか」
「まさか。気にし過ぎだ小富士」
海春は苦笑を浮かべた。まだ乗せていた手で、小富士の肩を掴み、元気付ける様に笑いかける。正しく老婆心で、彼女はよく随分念の入った心配をする事がある。大概の事は気にし過ぎの考え過ぎだ。とはいえ、自分の事を慮っての事だとは理解している。
「大丈夫だから心配するな」
愛想の無い押し付けられた嫁。海春にとっても望まぬ存在で、決して好意的に受け入れられる者ではないが、これは里同士の婚姻なのだ。事態の重要さは、あちらも理解しているはずだろう。望んではいなくとも仕方が無いと飲み込む他はないのだ。
(何もない…そもそもさせるものか)
犬狼族を遠ざけたと言っても、虎猫族もまた氷冴尾の側には居ない。族長屋敷は出入りも目も多く、何か動きがあればすぐに知れる。
海春は小富士の憤りに震える肩を宥めつつ、自分の中の疑惑と憤りも宥めにかかったのだが、虎猫族そのものに悪印象を抱いている彼女を宥めるのは並大抵の事ではなかった。
軽々にこれからは虎猫族とも仲良くしていかねば、などと言おうものなら、懇々切々と虎猫族との争いの歴史を語られる。心配はもっともだが俺が対処するから大丈夫だ、と請け合おうものなら、次期族長たる御身を危機に晒すなどもっての外だと長々説教をされる。もうとにかく良い加減にしてくれ忙しい、と話を切り上げようものなら、海春様は小富士をお嫌いになってしまわれたとはらはら泣かれる。
結局どんな反応反論も、小富士の心配に辛抱強く付き合う以外の方法は無駄だった。
「はぁ…」
気疲れから溜息を吐き出して、夕餉に向かう海春は、膳の間付近の廊下で族長である父に呼び止められた。
「海春」
「はい」
「氷冴尾殿と話したか?」
僅かに問い詰めるような父の言葉に、気まずく視線を逸らしながら海春は首を横に振った。
「………いえ」
諸々の儀式を前に、話をするよう言われていたのを忘れていた訳ではない。ただ、小富士の相手をしていたら時間と気力を失くしてしまっていた。
「ふぅ…氷冴尾殿は儀式の準備もあって夕餉はとらん。だから前もって話しておけと言ったのに」
呆れたというような父の溜息に、海春はむっとする。式次第くらい彼とて心得ている。話をする機会が限られているという事くらい解っていたから小富士をあれこれと説得しようとしたのだ。それなのに、そんな事情も知らずに、ただ呆れられては、何だか腹が立った。
「まぁ良い。夜は長いからな」
ゆっくりと話をしろ、と言って膳の間に入っていった父の背を見送って、海春は拳を握りしめた。
(話す事など…)
何故自分がこんな思いをしなければならないのか。何故弟が遠く嫁がされねばならないのか。顔も知らぬ先祖が始めた争いのために、どうして今、己達が犠牲を強いられねばならないのだろう。
美しい顔をしていたがにこりともしない、白い髪に縁どられた横顔が頭を過った。
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