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序章

四話

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「困りますよ弾左衛門の旦那……」
 紫煙が揺蕩う。置屋の屋敷の中、弾左衛門と呼ばれた焔硝の頭が太々しくあぐらをかいていた。その後ろで小さな体をさらに縮こまらせた一ミが正座していた。
「何が困んだ。おめえらは長吏を人とも思ってねえんだろ。その金で別のでも買やァいい」
 弾左衛門と置屋の間には三盆に置かれた小判があった。置屋は指と目線をその小判に向けてそわつかせながら、薄ら笑いを浮かべている。
「いえいえ、最近は一丁前に連中も高くなってきてますから……。その上、ソレはまあ……役に立つやつでしてね? ソイツの代わりとあっちゃあ、金に糸目つけちまったらアタシが遊女に殺されまさァ」
 弾左衛門の頭巾の隙間から紫煙が細引く。頭巾と角度のせいでその表情はわからない。一ミは少しだけ船を漕いでいた。
 煙管の灰が畳に落ちる。弾左衛門が落としたのだ。置屋は未だじくじくと焦れる灰を見て、眉間をぴくりと痙攣させた。
「あいや、すまねえ。どうにもこうにも、最近吸い始めたもんで作法がわからねえや」
 新しい刻んだ煙草を煙管の皿に乗せながら、弾左衛門が白々しく声を上げる。火打石で器用に火を点け、もう一度紫煙を長く吐き出した。
「ところでよう、旦那。人も家も、燃えっちまったら、小判なんざいくらあっても無駄だと思わねえかい」
 置屋の顔が引き攣る。
「まあなんにせよ。俺が出せるのはここまでだ。でも一ミは連れて行く。あとは旦那が増やしてくれや」
 行くぞ、と一ミに声をかけ、弾左衛門は立ち上がった。一ミは一度置屋に深々と頭を下げたあと、弾左衛門の後を追った。

 一ミと弾左衛門は並んで歩いていた。一ミの足取りはふらつき、対照的に弾左衛門の足取りはしっかりしていた。弾左衛門は慣れた手つきで灰を道に捨てながら、頭巾の隙間越しに一ミを見下ろす。一ミは地面に落ちた灰を目端で追った。
「今、俺はおめえを安く値切ったんだぜ? なんとも思わねえのか」
「……あれは安いって言わねえです」
 長い前髪の影、一ミの顔は卑屈に歪んでいた。弾左衛門はその一ミの頭を無造作に鷲掴んで撫でた。
 弾左衛門は一ミを金で買った。下人として売られる人間は、大抵二貫文ほどで取引されていた。これは銀三十匁ほどの価値であり、小判に換算して半両程である。弾左衛門はその所を金十両と引き換えに、一ミを個人的に雇い入れていた置屋から全く全てを買い取ってしまったのだ。
「おめえはこれから、百両でも二百両でも稼ぐンだ。気ィ張れよ」
 ばし、と一ミの小さな背中を大きな手が叩く。息と爪先がつんのめり、一ミが軽く咳き込んだ。百両と言う言葉に、一ミは少し視線を落とした。
「そんなに稼げますかね……」
「稼げるね。俺が断言する」
「はァ……」
 一ミは背中を卑屈にまるめて弾左衛門を盗み見た。胸を張り、迷いのない足取りで歩く弾左衛門を見て、一ミは再び視線を落とした。
 昨夜、一ミは一通りの否定の言葉を吐いた。
 自分には無理だ、余計なことはしたくない、今のままで満足してる、アンタの元で働きたくない、ここを離れたくない、己の絵にそのような価値はない。それらの言葉は丁寧に一つずつねじ伏せられ、夜が明ける頃には一ミから出る言葉は「もう寝かせてくれ」だけだった。
 そうして、二刻程眠った寝不足の一ミを引きずって弾左衛門はその足で置屋屋敷に突撃したのだった。
 夜通し押し問答を繰り返した一ミはすでに疲弊しきり、顔色もどことなく悪い。弾左衛門はそれに気づいているのか、少しだけ歩調が緩やかだった。
 しばらく歩いたあと、街の外れにある一ミの家がある長屋に着く。弾左衛門を珍しがって非番の長吏たちがちらほらと顔を出した。
「荷物まとめて門の前に来い。お前が着き次第出発だ」
 視線を嫌ってか、弾左衛門は一ミにそう言うと不機嫌そうな大股でさっさとその場を後にした。一ミはぼんやりとその背中を見送り、覚束ない手つきで引き戸を引いた。
 一ミの家はものが少ない。父の形見の火縄銃、少しの絵の具と筆、和紙、作りかけの草鞋と穴の開いた着替え。拾い物だった短刀と火打石を懐に納め、一ミの荷造りはあまりにあっさりと終了した。
 ふと、一ミの手が止まる。昨日の出来事がさらさらと脳裏に浮かんでは散り散りに消え、鈍くなった一ミの心に降り積もった。まるで大きな手に突然掴まれて、抵抗もすべて意に介されずどこかに連れて行かれるような感覚。格子窓越しに青い空が見え、一ミはそれをぼんやりと見つめた。狭い空の中を、雲と鳥が泳いでいく。一ミの黒い目が無機質に青空を反射する。一ミはそうして、畳にへたり込んで、立ち上がれなくなっていた。
「……一ミ?」
 開いたままの引き戸から一人の長吏が顔を出した。黒い髪に浅黒い肌の青年だった。
「どうしたよ、ぼうっとして」
 その青年は一ミの肩に触れ、その顔を覗き込んだ。一ミはそれを認めると、ぼんやりと口を開いた。
「ちょっと、嫌になっちまった」
「何がだよ」
「急に動いて、疲れちまったみたいな」
「はあ?」
 青年は訝しげな顔をする。一ミはそれを見て、静かに腹を括ることにした。
 膝をつき、少ない荷物を持って立ち上がる。青年は一ミの顔を見て、その袖をついと握った。
「なあ、お前……」
 一ミは青年の手に自らの手を重ね、柔らかく微笑んだ。
「平気」
 一ミはそういうと、静かに長屋を出て行った。
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