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序章

三話

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 一ミは困っていた。
 日はすでに高く上り、客引きをする妓夫の声や遊女を品定めする客の声が通りに響き始めている。一ミはそんな色町の路地裏で途方に暮れていた。
 色町で女が一人で出歩くことはない。自由な出入りが認められるのは火事の時だけであり、そうでない時に女が一人で歩くと足抜けとされ取り抑えられるのである。
 一ミは今自分が女装していることを思い出し、服を脱ぎ髪を下ろそうと考え、半端に化粧も手で拭っていた。しかし、一ミは無論女物の着物を着た経験などなく、帯の解き方が分からずにいたのだ。襟を引っ張って裾を抜こうかともしたが、服がみちみちと嫌な音を立てたので断念し、なら帯を褌のように下ろせば良いと下げれば、腰骨に引っかかってそれ以上降りない。そうして足掻いているうちに、一ミは髪も化粧も服も半端に乱れた状態になっていた。
「どうしよ……」
 一ミが呆然としていると、男たちの声が聞こえてくる。談笑に耽るおそらく二人組は、どんどん一ミに近づいていた。一ミは慌てて路地に積まれた桶の影に隠れる。男たちの談笑は下卑たもので、どこそこの遊女のアレが緩いだとか、新入りの陰間がまるで女のようだったとか、色町に相応しい話題ばかりだった。それにやや辟易としていた一ミだったが、その二人組が己が身を隠す路地裏に入ってきたことで心臓が嫌な音を立て始めた。
 いっそ陰間の振りでもするか、と一ミがひっそりと腹を括ったその時、男たちの談笑がピタリと止んだ。一ミは不思議に思ったが、桶の陰から顔を出すわけにもいかず、じっと息を殺して待っていた。少しすれば、ばたばたと慌ただしい足音が一ミとは逆の方向に走って行った。
 理由はわからないが、とにかく助かった、と一ミが胸を撫で下ろす。ゆっくりと立ち上がり、桶の陰から顔を出した。
「あ?」
 目が合う。
 クマの毛皮、藍色の着流し、黒い下駄、そして何より竹田頭巾。白から覗く青い目と、一ミの黒い瞳がかちあった。
「あん? おめえ、どっかで見た顔だなあ」
 ずっしりと重そうな下駄がからんころんと軽やかな音を立てる。包帯に包まれた手が地面にしゃがみ込んでいた一ミの襟首を掴み、そのまま持ち上げる。一ミは苦しそうに顔を顰めた。
「長吏かと思ったが陰間だったか? それとも陰間の振りした長吏か」
 一ミの足がもがき、そのつま先が地面を掻く。楽しげに喉で笑った焔硝の頭は、襟を掴んだまま一ミを下ろした。軽く咳き込む一ミの顔を背を屈めて覗き込む。
「そう怯えんなよ。俺ァ仲間には優しいンだ」
 一ミの耳元、低い声で囁きながらその肩を抱く。襟を掴んでいた手が一ミの尻に回った。
「金に困ってるってんなら買ってやる。おめえの家ァどこだ」
 ん? と甘い声を出して一ミの尻を撫で回す。火薬の匂いに紛れて女物の香油の香りが包帯に包まれた胸板から香る。
 一ミは怒っていた。
 いったいどのような手順でこの男を地面に付けさせようか、猛烈に頭を回していた。下駄でこめかみを殴る。親指で喉を潰す。股間を蹴り上げる。近づいたその顔に膝を叩き込む。一瞬で様々な傷付け方が一ミの脳内を過り、とりあえず一発ぶん殴ってやる、と拳を作ったところで焔硝の頭はふと頭を上げた。
「はは、おめえのその目。昨日も見たな」
 一ミの尻を撫でていた手が今度は手首を掴み、それを捻りあげる。一ミは瞬間的な痛みに顔を顰めるも、その目を決して目の前の男から離さなかった。
「何が仲間だ、焔硝の癖に。俺とおめらを一緒にすんじゃねえ」
 一ミは歯を剥いて唸るように威嚇した。獣じみたその仕草は、崩れた女装と伴い異様な迫力を持っていた。
「いいじゃねえか。同じ長吏同士、目につくもん全部壊したくてたまんねえだろ?」
「バカ言ってんじゃねえや! おめえらがあちこちで暴れっから俺らも迷惑してんだ! 離せこのっ!」
 一ミは肩を抱いている腕を身を捩って避け、足で目の前の男の腹を押した。捻りあげられた腕を引っ張り、何とか逃れようとする。
 不意に、肩の手が離れる。その手のひらは流れるように拳を作り、迷いなく、速度を持って一ミの顔に叩き込まれた。
 がちん、と骨と骨が擦れる音がする。脳が揺れた一ミの視界に星が飛び、抵抗していた膝から力が抜けてへたり込む。白む視界に一ミは一瞬呆けたが、すぐに目の前の男の顔に自らの額をぶつけようと振りかぶった。しかしそれは空を切り、一ミの頭はあらぬ方向へと倒れ込んだ。それは半端な威力を持って包帯に包まれた胸板に当たり、そこから溢れる様々な香りに一ミは僅かな吐き気を催した。
「はは、良い顔するじゃねえか」
 脳が揺れたせいか、耳の近くを殴られたせいか、匂いのせいか、一ミの体は半ば脱力していた。顔は青くなり目は虚、口の端からは嘔吐の前兆である唾液がわずかに垂れていた。
 ふらふらと意識も覚束ない一ミを俵担ぎにし、焔硝の頭は上機嫌に路地裏から外に出た。

 一ミが目を開けると、そこは自分の家だった。
 ネズミが走り、虫の気配が飛び、血と汗と脂と埃の臭いが強い。何か嫌な夢を見ていた気がする、と一ミは体を起こす。ふと自分の体を見下ろせば、なぜか上裸だった。
 疑問を頭に生やしながら脱ぎ散らかしたであろう服を探せば、見覚えのない背中が視界の中に入り込んだ。
「おう。起きたか」
 振り返った男。包帯に包まれた顔から覗くその目は青く、楽しげに湾曲していた。脱ぎ捨てられた竹田頭巾を傍に、熊の毛皮をあぐらをかいた膝にかけた男は右手に煙管を、左手に数枚の紙を握っていた。
「おめえの仲間に家の場所聞いたらあっさり教えやがったぜ。ここん長吏は腑抜けが多いな」
 そう鼻で笑うと、男は紙をぺらぺらとめくった。一ミは混乱しながらもその手にある紙に血の気が引いていた。
「これはおめえが描いたのか?」
 一枚、その紙が一ミの前に突き出される。そこには一人の美少年が物憂げな顔で座敷に座っていた。
 格子窓の外には雨が降り、行灯だけが頼りの室内で少年の肌は淡く照らされ、着物が滑り顕になった肩が色っぽく艶めいている。その眼差しはこちらを見ているようで、どこか遠くを見つめているようでもあった。
 一ミは咄嗟にそれを奪い取ろうとして、床に倒れ込んだ。腰が抜けたように言うことを聞かず、そこで初めて一ミは自分が褌もつけていない全裸であることに気がついた。
「急に動くなよ。腰に響くぜ」
 そうせせら笑った男は包帯の隙間に煙管の口を差し入れた。
「しっかし、なかなか良い絵じゃねえか。真に迫るもんがある。ゾッとするねえ」
 紙を翻し、焔硝の頭はその絵をまじまじと見つめた。その絵の中の美少年と見つめ合い、焔硝の頭はついと口角を上げた。
「おめえ、俺の元で絵を描かねえか」
 青い目が一ミを見下ろす。へたり込んだままの一ミは、その目をまじまじと見つめ返した。
「美味い飯、美味い酒、いい女、安心できる寝床。なんだっておめえにやる。足抜けした女を追う必要も、夜通しくるかもわからねえならず者に睨みを利かす必要も、虫を食って踏みつけられる必要もない」
 男はへたり込む一ミの腕を掴んで引きずり引き寄せた。膝の上にかけていた毛皮を一ミの肩にかけながら、その腰を抱き寄せる。一ミは男の包帯から自分とよく似た匂いがすることに気がついた。
「さあ、お前の欲しいものを言ってみろ。なんでも用意してやる。その腕を俺のために振るうならな」
 一ミは抱き寄せられたまま頭上の顔を伺った。意味がわからなかったのだ。何故絵描きを必要とするのか、何故自分は裸なのか、何故自分と同じ身分のはずの男は金や寝床など贅沢を軽々に口にできるのか。未だ夢でも見ているのかと疑うほど、現実味のない状況だった。
 男はそんな一ミの視線に気づくと、その額に唇を落とす。包帯越しの柔らかい感触だった。一ミは反射的に掌底でその顔を突っぱねる。仰け反った男は「なんだ違うのかよ」とぼやいた。
「まあおめえの意思なんざ最悪どうでもいい。慣れてるだろ、金と引き換えにその体をあちこち跳ね飛ばされてきたはずだ。今回もその延長だ。いつもと違うのは、その金がお前に入るってことだ」
 一ミの手を払い、露になった胸元を人差し指で突く。男の目は至極楽しそうに歪み、ある種、子供じみた輝きを持っていた。一ミはその目から目を離せなかった。
「なあ、いいだろ」
 もう一度、一ミの肩が抱かれる。額と額がふれあい、青と黒がかち合った。一ミの胸に刺さっていた指は下がり、一ミの手に指を絡めた。久しく感じることのない体温だった。遊女たちにおもちゃにされることはあれど、こうして抱き寄せられることなどなかった。一ミの心臓は今まで感じたことのない音を出している。
「……おめえじゃ、ないんで、名前……」
 ようやく絞り出した一言が、それだった。
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