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この世で一番嫌いな名前で、息を吸う

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 花ちゃんが家に住むようになっても、僕の帰宅時間は変わらない。
 23時半を回った時刻にアパートへ戻ると部屋の明かりが中から漏れていて、この時間でも僕の帰りを待ってくれている花ちゃんの優しさに僕の胸がときめく。

「ただいまー」

 それでも周囲に迷惑がかからないよう、静かに中へ入り声量を抑えめにして帰宅の挨拶をリビングに向けて呼びかけてみたけど、返事は無い。

「あれ? 居るよね? 花ちゃん……」

 平日の帰宅時間がいつも遅いから、花ちゃんには「頑張って起きてなくていい」とは言ってある。
 それでも昨日まではテレビやエアコンをつけながら僕の帰りを待ってくれて、僕のただいまにも即反応して玄関で「おかえり」も言ってくれていた。

(でも流石に5日も続くと無理があるかぁ……)

 リビングの照明はついているものの、テレビの音が聞こえずドアも開かない状況に僕は「仕方ない」と息を吐いて靴を脱ぎ、花ちゃんが用意すると言ってくれた夜食を食べようとリビングのドアを開けると

「なんだぁここで寝ちゃったんだ」

 冬用のラグマットの上で寝転び毛布を身体に巻き付けて可愛らしく眠っている花ちゃんが、僕の視界に入ってきて頰の筋肉がゆるんだ。

「……熟睡、してるのかな?」

(背中を丸めて眠ってる……なんだか猫みたいだなぁ)

 そーっと近付いて花ちゃんの頭をそっと撫でてみた。

「モフモフのフードが見える。白猫の部屋着着てるんだ、可愛いなぁ♡ 本当に猫みたいになってるんだ……」

(わざわざ2階から毛布を持って降りて身体に巻き付けて居眠りするなんて……そこまでするなら自分のベッドで寝ちゃえばいいのに)

 花ちゃんの部屋には今週始めにシングルサイズのパイプベッドを購入して使えるようにしている。
 それでも僕の帰りを待ちたいという気持ちが甲斐甲斐しいというか、リビングのラグの上で猫っぽい部屋着を着て猫さながらの寝方するの含めて花ちゃんの事が愛おしくてたまらなくて……。

(花ちゃん、大好き……)

 花ちゃんの頭に触れ、髪を手で梳くだけで大好きの感情が高まっていく。
 ……勿論これはカスミさんの時と心の動き方が違うとハッキリ感じた。

「添い寝したら怒られるかな?」

 帰ってきたばかりの弟が姉の寝てる身体に寄り添ったら気持ち悪いだろう。弟の帰りを待つ為にここで眠っているとはいえ、そこまで踏み込んでいい訳ではない。それが姉と弟の関係性というものだ。
 大好きな花ちゃんに距離的に近付きたい欲求と、それをすると気持ち悪がられるかもしれないという冷静な思考が僕の脳内でせめぎ合う。

「でも……ちょっとだけなら……」

 巻きついた毛布を動かさず、ゴワゴワするアウターを脱いで隣に寝転ぶだけならセーフに違いない。なるべく気持ち悪くならない行動をとりつつ己の欲求を叶えるべく僕はラグマットに横たわり花ちゃんとの距離数センチまで接近する。

「花ちゃん」

 囁くように名前を呼び、彼女の腰に手を回そうとしたその時……

「あっ……」

 22に嗅いだのと同じ匂いがしている事に気が付いた。

 防音されたあの部屋の中で60分近く身体をくねらせ、喘ぎ続け、ショーツのクロッチ部分がビショビショに濡れていたカスミさんの匂い。
 タブレット返却の際に、ソファに横たわり2匹の犬によって愛撫されていたご主人様の匂い。

(発情した……女性フェロモンの匂い……)

 それと同じ匂いが、目の前の花ちゃんからかすかに香っている。

「……」

(もしかして……眠る直前とかに、触って気持ち良くなったのかな……?)

 リビングという僕との共有スペースでする行動とは通常思えないけど、「一人エッチは自分の部屋以外しちゃダメ」なんてくだらない約束は交わしてない。
 でも、こんなところでそんなことを花ちゃんがしたかもしれないなんてこの僕が気付いてしまったら、もうこのたかぶる気持ちを抑えられないじゃないか。

「ねぇ花ちゃん……誰を想いながら、一人エッチしたの?」

 男の自慰は一般的に、時間の余裕と密室な空間と好みの肉体がその場にあれば可能だ。目にするのは実物でなくとも画像や印刷物1枚で構わないし、ぶっちゃけ何も手にせず想像を浮かべるだけでも簡単に出来る。
 僕は女じゃないし女の気持ちは分からないからなんとも言えないけれど、花ちゃんも「何かを想像を浮かべながら湿しめる女陰に指を挿し入れて快楽を得たのだろうか?」と、彼女のそばにスマホすらないこの状況下からそれを推測した。

「ねぇ、誰を想像したの? 花ちゃんの好きな俳優さんかな? アーティストかな?」

 僕は小声で、花ちゃんの寝顔に問い掛ける。
 好きな俳優やアーティストの話題は実家に居た頃時々していたものの、同じ屋根の下に7日を過ごしたこの間そんな話を一度もしていない。

 僕の推察は間違っているかもしれないけれど、今の花ちゃんに一番近しい男は僕しか存在しないと……そう、思う。

「ねぇ……僕、じゃ……ないよ、ね?」

 花ちゃんの寝息も香るエッチな匂いも全て吸い込み、自分の吐息をゆっくりと吐きながら、ゆっくりと、頭に浮かべた欲望や希望を花ちゃんの吸い込む空気の中へ溶け込ませてみる。

「僕をおもって……」
「 … 太」

 緊張感と高揚感が限界まで高まったその瞬間

「……」

 視界に入っている花ちゃんの唇が、僕がこの世で一番嫌う名前の通りに動いたから……

 高まっていた諸々もろもろが一転し、急降下する。

「……」

 僕はその場を無言でサッと離れ、花ちゃんが作ってくれた夜食を温めにキッチンへと向かった。


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