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恋しい人が愛した香り

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「りょーくんごめんなさい。私がお世話になっているマスターが夕紀さんだとか、お墓参りも皐月さんのだったとか……りょーくんに黙っているつもりは全然なくて、私何も知らなくて」

 ネルドリップでゆっくりと淹れたグアテマラアンティグアをりょーくんの前に差し出して私は謝った。

「いいよ」

 りょーくんは首を左右に振る。

「俺も、先生のお姉さんの修業先があーちゃんの実家だったなんて知らなかった。しかも珈琲関連とは思ってなくて何かの職人をしてるのだとばかり思い込んでたんだ。
 先生からはその時のお土産で、ガラス工房で売られているペーパーウェイトを貰ったし」

 5年前のゴールデンウィークで皐月さんが泊まりに来てくれた時、半日だけ夕紀さん皐月さんの2人きりでドライブに出かけていた。
 りょーくんの言う「ペーパーウェイトのお土産」とは恐らくその時に皐月さんが買ったものなんだとすぐに分かった。

「……そうなんだ。皐月さんはりょーくんに夕紀さんの話をあまりしなかったんだね」

 私から見た皐月さんは、「夕紀さん大好き」っていう気持ちが雰囲気からあふれ出てるようだったのに親しくしていたりょーくんに話してないという事に不思議に思うも、すぐに「話す暇が無いくらい日々追い詰められていたんだろう」と1人で納得する。

「それに一回、あーちゃんと喧嘩した日だから……4ヶ月前か。俺は珈琲店で先生のお姉さんと話もしちゃってるんだよね。
 今朝あーちゃんへの着信で遠野夕紀さんの名前が表示された時になんか……色々こみ上げてきてさ。 あーちゃんに迷惑かけちゃった。本当にごめんね」
「りょーくんが謝ることないよ! りょーくんは何も悪くないもの!」
「先生のお姉さんの気持ちは物凄く良く分かるし『言われた言葉』は事実だから」
「…………」

 「言われた言葉は事実」……それは絶対、夕紀さんが少年を詰りながら号泣しながら言い放った「あの言葉」を指している。
 そしてりょーくんが「事実」と言ったその表情は、「俺の悪い噂は事実」と言っていた時よりもずっと痛々しく……そして悲しく聞こえた。


 りょーくんはカップから立ち昇る香りを嗅ぎながら、コーヒーに口をつけ……

「このコーヒー美味しい。今まで飲んでいたのとはまた違った感じだね」

 目を輝かせ私の方を見ながらそのコーヒーを褒めた。
 
「これはね、私が手煎り焙煎したものじゃないんだ。夕紀さんがお店で焙煎した豆なの」
「えっ……?」

 私が微笑みながら言った言葉にりょーくんは驚きの表情に変え、まじまじとコーヒーカップを見つめる。

 グアテマラのアンティグア地方で栽培される珈琲豆は、果実とスパイスとカカオが複雑に合わさったような上品な香りと柔らかな酸味が特徴で、特にネルドリップで淹れると甘みとコクが増す。
 そして飲み口がクリアでスッキリとしていて、お店でも人気の豆だ。

「先生の……お姉さんのコーヒーなんだ……そっかぁ」

 りょーくんは何かを噛み締めるように、もう一度口に含む。

「ダメ……だったかな?私の焙煎豆の方が良かったとか?」
「いや……いつもあーちゃんは自分で手煎りした珈琲豆を使うのに、今日はなんでお姉さんのなんだろう? って不思議に思っただけ」

 彼の言葉に、私の方がしんみりとした表情になってしまう。

「このコーヒーにするには、私じゃまだまだ焙煎の経験値が足りないの。夕紀さんだって何年も私の実家で修行してたのに求めた味にならなくて、最近ようやく掴みかけた……ってところまで来たから」
「えっ? このコーヒーって、そんなに作るの難しいの?」
 
 りょーくんの驚き声に私は首を左右に振る。

「グアテマラアンティグアは品質が凄く良い豆だし、大手のコーヒーチェーンでも販売されてるくらい広く知られてる美味しい豆だから沢山のお店で焙煎されてる筈だよ。私の実家でも、ブレンド一本にするまではシングルオリジンの定番商品になってたくらいだし」
「じゃあ……なんで……?」
「夕紀さんはね、このコーヒーが大好きで幼い頃から大事にしてるの。わざわざ広島まで行って何年も修行したくなるくらい、このコーヒーの味を作りたいって、必死に努力してて」
「……」
「うちの親はね『そんな特別な事をしてたり技術が必要だったりはしてないよ』って言うの。でも、その焙煎の仕方が夕紀さんにとっては人生で1番知りたいし身に付けたかったみたい」
「……」
「夕紀さんの、温かい家庭を形成する為に必要なコーヒーだったから」

 私がそこまで説明すると、りょーくんは驚いた表情をする。

「……じゃあ、先生も飲んでたの?」
「勿論だよ、皐月さんも大好きなコーヒーだったの。
 夕紀さんと皐月さんは、それぞれ家庭環境が複雑でね。皐月さんにとってこのコーヒーは家族4人が集まって楽しむ為に必要だったし、夕紀さんもそう。夕紀さんが珈琲豆専門店をやりたいって思うきっかけになったコーヒーでもあるから」
「そうだったんだ……先生も……本当は……好きだったんだ……コーヒー……」

 私の説明にりょーくんははらはらと丸い粒の涙を流す。

「りょーくん?」
「俺……先生の事が大好きだったのに、何も知らなかった……。
 先生の家庭環境の事とか……コーヒーをよく飲んでいた事とか…………。
 先生はいつも、ティーバッグの紅茶ばかり飲んでいたから」

 その姿にも、私も泣きたくなった。


 本当は大好きなコーヒー。
 それすらも、皐月さんは日々我慢して……我慢して。
 誰にもこのコーヒーが好きと言う事なく、色んな事に我慢して、耐えて……。
 そうして、夕紀さんがお店を開く事を楽しみにしていたのかと思うと、悲しくて悲しくて堪らなかった。

 私が、皐月さんの代わりとして夕紀さんと働きたいと強く願ったのは自分の意志ではあるけど……。
 4年半の月日を超え、皐月さんを愛していた人にこのコーヒーを届ける役を担っていたのかと思うと、運命の糸みたいなものを感じてしまう。




 しばらく沈黙が流れ、りょーくんはゆっくりと顔を上げて私に微笑みを向けた。

「先生の家族が大好きなコーヒーだったのが物凄く良く分かる。
 飲み口がスッキリしているのに、ずっとホワホワポカポカした気分になって……凄く幸せな気持ちになるよ。なんか、プロの味だなぁって思った」

 その言葉に、私は心からポカポカと温まり、私もコーヒーを口にする。

「そうだよ、夕紀さんの珈琲はとても美味しいんだから!」

 それから私もりょーくんに微笑み返した。





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