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俺と彼女と恋待つ時
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「夏実は村川くんみたいに現状に不満を抱いて実家を離れたいと思ってはないからね。一応の覚悟は持っているんだろうけど、結局は俺との将来を夢見てるだけだと思う。彼女はまだ若いから」
「だから広瀬さんと夏実ちゃんには、ずっと笑い合えるような環境で生活してほしいなって思います。
実際、妻は実家が離れてますけどしょっちゅう連絡取り合ってますしお姉さんも仕事のパートナーとしてずっと過ごしているから寂しい気持ちは抱えずに済んでますからね」
「…………」
「酔っ払いの戯言ですよね、こんな話。会社の先輩、しかも広瀬さんみたいな人に極論押し付けて気持ち悪い男だ、俺は」
ずっと俺の顔を見つめて喋っていた村川くんが立ち上がり「んー」と声を漏らしながら身体を伸ばす。
見つめる彼の顔をずっと視界の端に寄せていた俺も、目線を斜め上にあげて彼の顔をその中心へと据え置いた。
「別にいいよ。貴重な意見だと思って参考にさせてもらうから」
その時彼は両腕を頭上に挙げたまま静止していて、ポツリと
「戯言なのに?」
と俺に問う。
「うん、極論とも感じなかったし」
そう言った俺の言葉に彼の目は反応して少し潤み……
「すみません。でも、嬉しいです」
はにかんだような表情まで見せてくる。
彼の今の顔は、俺が普段目にしているいつもの表情とも夏実に何度も見せたイケメン笑顔とも違う……彼の本質が内から現れているような、そんな表情をしている気がしてならなかった。
多数に開いた両耳のピアス痕
後頭部に薄っすらと見える一文字の傷痕
俺はそのどちらに対して、理由や意味を彼や他の誰かに尋ねた事は無いし敢えて知ろうとも思わない。
隣のデスクに座り、俺の話を熱心に聞き仕事に取り組む姿勢を一目見れば、今年の春に本社内でヒソヒソと流れていた陳腐な噂とは全く違う意味を持つことくらい……30年ぬるま湯に浸かってきたおめでたい脳を持つ俺にだって判ったからだ。
恐らく彼は、俺の知る誰よりも心が弱い人間なのだろう。
それは彼の生まれ持った性質なのか、かつてのトラウマによるものなのかまでは分からない。
弱いからこそ、周囲の普通の人間に強い好意や憧れを持ち 「自分のようにならないでほしい」と憂うのだ。
「あーあ、でも俺酔っ払ってるからこれ以上変なこと言い出す前に妻の珈琲の香りで酔いを醒ましてやんなきゃなぁ」
照れ隠しなのか、村川くんは挙げていた両腕を降ろして首を回し自分が床に置いたビールの缶を拾ったり俺の前に置かれているからのグラスや小皿をトレイに乗せたりなどして周囲を片付け始める。
「今からコーヒー飲むのか?ほろ酔いのままの方が眠れるんじゃねぇの?」
俺の問いに村川くんはスッと表情を「いつもの」に戻して
「飲むんじゃなくて、嗅ぐんです」
と答えた。
「嗅ぐ?」
「そうです。今頃、妻はキッチンで珈琲豆の焙煎をしてると思いますから」
「自宅でもするんだ?……珈琲の焙煎って」
無知なだけかもしれないが、珈琲豆の焙煎は大きな機械みたいなもので焙煎士が行うイメージがある。この部屋にはそのような物が置かれている様子が全く無かったので、今既に彼の妻が珈琲焙煎をしているなど想像が付かなかった。
「専用器具があればキッチンでも出来るんですよ。月末は特にたくさんの量焙煎するんです。月初めに限定のブレンド出すからその準備も兼ねて」
だから、彼の話ぶりから「小型の焙煎器具がある」と初めて知ったし、それも仕事の内なのだと知ると溜め息が出る。
「カフェ店員も大変なんだな」
「カフェじゃなくて珈琲豆の専門店だって言ってるじゃないですか」
俺の「カフェ店員」の発言に彼は鼻で笑い、トレイを持って部屋を出ようとした。
「似たようなもんだろ?」
「全然違います。少なくとも今の俺にとっては、妻の珈琲の香りが人生の全てだから」
部屋の扉を開ける直前、彼は俺の方を振り向いて15時過ぎにマンションのエントランスで見せた睨み顔を見せる。
「……今、広瀬さんに『妻が焙煎するところ見ませんか?』って言おうとしたんですけどやっぱり来ないでください。
あの香りに惚れてもらっちゃ困るんで」「!!」
彼のその表情はエントランスの前で見せた嫉妬に狂うものというよりは、酒酔いの雰囲気や整った顔立ちと相まって妖艶にも純真さを残す少年のようにも感じられて、男の俺でもゾクリとした。
「なんだったんだ今の…………」
村川くんの新たな一面をまた見てしまった。
「まったく……今どきの若い男の考える事は分からないな」
自分の身に起こった何とも言えない感情を、わざとそんな安い言葉で吹き消そうとしてみる。
(そうだそうだ、村川くんは俺にとって単なる新人だ!
毎年思うじゃないか、「今年の新人は何考えてるか分からない」と……)
「でも……」
その分からない新人の口から出たさっきまでの話はどうも頭の中から消え去らない。
『相手を待つ行為はそのまま信頼に直結する』
『でもその信頼は、一時の孤独によって蝕まれる』
それは、学生時代に付き合っていた女から聞いた言葉だった。
思い出さなくてもいいような、どうでもいいエピソードの一つだった筈なのに、今日の村川くんの話によってその言葉の意味が重くのしかかってくる。
「俺はそんな風に夏実を待った事なんてないな……」
性的行為は18になってから。という意味の「待つ」はあってもその間全く自慰行為をしなかった訳ではないし、キスやハグといった軽いスキンシップならしていたから。
けれども夏実は、そこに至るまでの8年間俺を純粋に待ち続けていた。
(付き合ってからは更に2年待たせて、そこからまた何年も強制的に夏実を待たせようとしていたんだよな……)
「そりゃ、夏実も晴美さんも怒るよなぁ」
今の部署にいる限り俺が出張で関東圏を出るはほぼ無く、年に一回の研修旅行くらいしか家を空ける事は無いだろう。
しかし孤独というのは物理的な時間枠では測れない。
さっき村川くんが言っていたように、体感時間は長くなるのだから。
「夏実次第だけど、後でちゃんと相談しないとな」
部屋の中でそういう結論に至ったところで……
「みなとー」
扉の向こうから夏実の声が聞こえた。
「だから広瀬さんと夏実ちゃんには、ずっと笑い合えるような環境で生活してほしいなって思います。
実際、妻は実家が離れてますけどしょっちゅう連絡取り合ってますしお姉さんも仕事のパートナーとしてずっと過ごしているから寂しい気持ちは抱えずに済んでますからね」
「…………」
「酔っ払いの戯言ですよね、こんな話。会社の先輩、しかも広瀬さんみたいな人に極論押し付けて気持ち悪い男だ、俺は」
ずっと俺の顔を見つめて喋っていた村川くんが立ち上がり「んー」と声を漏らしながら身体を伸ばす。
見つめる彼の顔をずっと視界の端に寄せていた俺も、目線を斜め上にあげて彼の顔をその中心へと据え置いた。
「別にいいよ。貴重な意見だと思って参考にさせてもらうから」
その時彼は両腕を頭上に挙げたまま静止していて、ポツリと
「戯言なのに?」
と俺に問う。
「うん、極論とも感じなかったし」
そう言った俺の言葉に彼の目は反応して少し潤み……
「すみません。でも、嬉しいです」
はにかんだような表情まで見せてくる。
彼の今の顔は、俺が普段目にしているいつもの表情とも夏実に何度も見せたイケメン笑顔とも違う……彼の本質が内から現れているような、そんな表情をしている気がしてならなかった。
多数に開いた両耳のピアス痕
後頭部に薄っすらと見える一文字の傷痕
俺はそのどちらに対して、理由や意味を彼や他の誰かに尋ねた事は無いし敢えて知ろうとも思わない。
隣のデスクに座り、俺の話を熱心に聞き仕事に取り組む姿勢を一目見れば、今年の春に本社内でヒソヒソと流れていた陳腐な噂とは全く違う意味を持つことくらい……30年ぬるま湯に浸かってきたおめでたい脳を持つ俺にだって判ったからだ。
恐らく彼は、俺の知る誰よりも心が弱い人間なのだろう。
それは彼の生まれ持った性質なのか、かつてのトラウマによるものなのかまでは分からない。
弱いからこそ、周囲の普通の人間に強い好意や憧れを持ち 「自分のようにならないでほしい」と憂うのだ。
「あーあ、でも俺酔っ払ってるからこれ以上変なこと言い出す前に妻の珈琲の香りで酔いを醒ましてやんなきゃなぁ」
照れ隠しなのか、村川くんは挙げていた両腕を降ろして首を回し自分が床に置いたビールの缶を拾ったり俺の前に置かれているからのグラスや小皿をトレイに乗せたりなどして周囲を片付け始める。
「今からコーヒー飲むのか?ほろ酔いのままの方が眠れるんじゃねぇの?」
俺の問いに村川くんはスッと表情を「いつもの」に戻して
「飲むんじゃなくて、嗅ぐんです」
と答えた。
「嗅ぐ?」
「そうです。今頃、妻はキッチンで珈琲豆の焙煎をしてると思いますから」
「自宅でもするんだ?……珈琲の焙煎って」
無知なだけかもしれないが、珈琲豆の焙煎は大きな機械みたいなもので焙煎士が行うイメージがある。この部屋にはそのような物が置かれている様子が全く無かったので、今既に彼の妻が珈琲焙煎をしているなど想像が付かなかった。
「専用器具があればキッチンでも出来るんですよ。月末は特にたくさんの量焙煎するんです。月初めに限定のブレンド出すからその準備も兼ねて」
だから、彼の話ぶりから「小型の焙煎器具がある」と初めて知ったし、それも仕事の内なのだと知ると溜め息が出る。
「カフェ店員も大変なんだな」
「カフェじゃなくて珈琲豆の専門店だって言ってるじゃないですか」
俺の「カフェ店員」の発言に彼は鼻で笑い、トレイを持って部屋を出ようとした。
「似たようなもんだろ?」
「全然違います。少なくとも今の俺にとっては、妻の珈琲の香りが人生の全てだから」
部屋の扉を開ける直前、彼は俺の方を振り向いて15時過ぎにマンションのエントランスで見せた睨み顔を見せる。
「……今、広瀬さんに『妻が焙煎するところ見ませんか?』って言おうとしたんですけどやっぱり来ないでください。
あの香りに惚れてもらっちゃ困るんで」「!!」
彼のその表情はエントランスの前で見せた嫉妬に狂うものというよりは、酒酔いの雰囲気や整った顔立ちと相まって妖艶にも純真さを残す少年のようにも感じられて、男の俺でもゾクリとした。
「なんだったんだ今の…………」
村川くんの新たな一面をまた見てしまった。
「まったく……今どきの若い男の考える事は分からないな」
自分の身に起こった何とも言えない感情を、わざとそんな安い言葉で吹き消そうとしてみる。
(そうだそうだ、村川くんは俺にとって単なる新人だ!
毎年思うじゃないか、「今年の新人は何考えてるか分からない」と……)
「でも……」
その分からない新人の口から出たさっきまでの話はどうも頭の中から消え去らない。
『相手を待つ行為はそのまま信頼に直結する』
『でもその信頼は、一時の孤独によって蝕まれる』
それは、学生時代に付き合っていた女から聞いた言葉だった。
思い出さなくてもいいような、どうでもいいエピソードの一つだった筈なのに、今日の村川くんの話によってその言葉の意味が重くのしかかってくる。
「俺はそんな風に夏実を待った事なんてないな……」
性的行為は18になってから。という意味の「待つ」はあってもその間全く自慰行為をしなかった訳ではないし、キスやハグといった軽いスキンシップならしていたから。
けれども夏実は、そこに至るまでの8年間俺を純粋に待ち続けていた。
(付き合ってからは更に2年待たせて、そこからまた何年も強制的に夏実を待たせようとしていたんだよな……)
「そりゃ、夏実も晴美さんも怒るよなぁ」
今の部署にいる限り俺が出張で関東圏を出るはほぼ無く、年に一回の研修旅行くらいしか家を空ける事は無いだろう。
しかし孤独というのは物理的な時間枠では測れない。
さっき村川くんが言っていたように、体感時間は長くなるのだから。
「夏実次第だけど、後でちゃんと相談しないとな」
部屋の中でそういう結論に至ったところで……
「みなとー」
扉の向こうから夏実の声が聞こえた。
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