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【番外編 その後のお話】 ドア越しの営み
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しおりを挟む「ねえっ! 仕事と家庭、どっちが大事なのっ??!」
パートナーから「仕事と家庭のどちらが大事か?」と言われるシチュエーションなんて、もう聞く事のない死語みたいなものだと思っていた。
「どっちも大事だと思ってる」
いつの時代も「言われた側」はそう答えなければならず、そもそもが不毛な台詞であると理解しておかなきゃいけない。
「じゃあなんでユウちゃんは自分の体を一番大事にしてあげないんだよ! 朝香ちゃんだって『1人で店を回せる』って言ってるし、俺だって亮輔くんだって仕事終わったらすぐに片付けの手伝い出来るしもっと周りを頼っていこうよ! ユウちゃんの体はもう、一人の体じゃないんだから!!」
私は今、ベッドに横たわったまま両手で耳を塞いでいる。
大事な夫であるジュンの言葉が正論であっても聞き入れられないんだ。
「……気分悪いから部屋から出てって」
「でもユウちゃん」
「いいから出てって!!」
ジュンの言い分は正しい。
「……俺はリビングに布団敷いて寝るよ、ユウちゃんが心配だもん」
「……」
「食べやすそうな食事はテーブルに置いてるけどその時は俺をちゃんと起こして。約束して」
「……」
「洗面器はここに置いておくから。何かあったら俺、ちゃんと起きるしトイレにも付き添うから」
……正しいし、すごく優しい。
「……」
「じゃあね、今日のところはおやすみ」
私の言動は、駄々こねてる痛いオバさんのように見えてしまっていた。完全に。
「……はぁ」
先週のバレンタインデーに、私の妊娠が判明した。
当然の事ながらジュンは大喜びし、朝香ちゃんも亮輔くんも自分の事のように喜んでくれた。
そしてこれも当然であるがごとく商店街の皆さんにも光の速さで伝わり、私は突如「どこかの国のお姫様ご懐妊」みたいな扱いをされて地域の方々から祝福を受けている。
「仕方ない。仕方ないんだけど、みんな私を守り過ぎだよ……」
まだまだ妊娠初期の段階だから周囲への報告は早過ぎだと思うんだけど、立場上そういうのは隠せない。
実際、私は悪阻で苦しんでいて昨日から一歩も外を出歩けない状態なんだから。
それに私だって一応は自分の店を持つ経営者だ。
今まで1日足りとも休んだ事の無かった私が「体調不良で休みます」となったら、地元密着型の商店街っていうか狭いコミュニティ内である事ない事の噂が立ってしまう。
「お腹痛い」
色々とマイナス思考になっている私に追い討ちをかけるようなお腹の鈍い痛みや吐き気……悪阻というものは私という人間を試しているんだなぁってつくづく思う。
(吐き気も辛いんだけど、お腹の痛みはどうにかならないかなぁ……)
子宮の痛みも悪阻に含まれるなんて経験してみないと分からない事だなとつくづく感じる。
(「喩えるなら未使用のゴム風船を膨らます時と似てる」……かぁ)
腹痛は妊娠初期に起きる症状なのだそうで、産科医からは「ある程度お腹が大きくなれば痛みは治まる」と説明を受けた。
「ゴム風船の喩えってなんなのよ……こっちは四六時中お腹にジャブを撃たれているような気分だっていうのに」
普段はなかなかしない悪態をついてしまうほど、私は精神的に参っていた。
「痛いよぅ……」
ジュンの言う通りだ。こんな状態じゃ立ち仕事を出来る筈がない。
(明日は土曜日だし、朝香ちゃんや亮輔くんに仕事を任せてジュンには家事をしてもらうしかないよね)
こんな状況なら、休むのが一番だ。
(っていうか……)
(皐月の願いでもあったけれど、私は多くの人に安らぎの香りを提供したくて珈琲豆を扱う仕事に就いたっていうのに……)
休んでしまうのは怖い。
(妊娠から授乳期まではカフェインの摂取量を極力減らして鉄分摂取を増やさなきゃいけない。
珈琲扱う人間がコーヒー飲めなくなるって致命的よね……)
分かっている。
分かっているんだけど、辛いし怖い。
必死で手に入れた「珈琲」から身も心も離れていってしまうのが。
「でも……」
ジュンと結婚して「家庭」を築くようになって以来、この問題は何度も何度も頭の中でシミュレーションしてきた事でもあった。
仕事も大事だけど、私だって血の繋がった家族が欲しい。愛するジュンとの子どもを産みたい。
そう何度も何度も願って、自分のベストなタイミングがやって来るまでジュンに待ってもらった挙げ句に手に入れた大きなチャンスだと……今は自分に言い聞かせるしかなかった。
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