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名前を呼んで
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しおりを挟む「はぁ~……疲れたぁ……」
朝香ちゃんが手掛けた新しい11月限定ブレンドは初日から予想以上の売れ行きとなり、私は開店時間以降店の外へ出れない程の忙しさとなった。
朝香ちゃんを帰宅させられたのが21時過ぎ。
そして現在時刻は23時40分というド深夜。
「このまま店で寝てしまいたいなぁ~帰るのめんどくさい……」
自宅マンションを車通勤しなきゃいけないくらいの距離にしてしまった事や
「なんでバックヤードにソファを置かなかっだんだろう」
横たわれるスペースを客席にしか作らなかった事を今日ほど後悔した日はなかった。
「取り敢えず何か食べて運転する元気つけなくちゃ」
私はフラフラと勝手口から出て鍵をかけると、車道沿いの通りを見渡す。
「確か……あっちの方にファミレスがあったはず」
こんな時間、この近所で空いている飲食店といったらそのくらいしか思いつかない。
「ジュンなら色んなお店を知ってるんだろうなぁ」
昼食はこちらの通りではなく、商店街を利用する。
店を開いて以降4年半「もりやま青果店」の2階に住ませてもらっていたけれど、ファミレスに入って1人で食事する経験が無く、ドアを手押ししながら「コンビニで済ませれば良かった」とまた悔やむ。
「……何頼んだらいいんだろ」
席に着き、メニュー表を開きながら私はまた後悔の溜め息をついた。
「『どうせファミレスだし』……なんて舐めてかかったらダメね」
疲れているのもあって、どのメニューもとても美味しそうで魅力的に見える。
無難なメニューにしようかとパスタやハンバーグのページを開いたらここ最近食べたものと被っちゃうし、かといって和食メニューは選べる小鉢の種類が意外とあって組み合わせに迷ってしまう。
(どうやってあんな簡単に選んでいるんだろう? 凄いなぁ……)
私の前の席に着席した女性が即決に近いスピードで注文している様子が目に入ったのでその女性の行動力に関心し
(ジュンならどれを頼むんだろう?
今夜はタカパンさんと食事したのよね……何を食べたのかしら?)
今晩のメニューすら決められない自分の拙さを憂い、恋人の食す口元を思い出していた。
ーーー
『俺が恋しくなったら……』
ーーー
「ジュン……」
メニューで口元を隠しながら、唯一の助けとなる恋人の名を呼んでみた。
ーーー
『名前を呼んでね』
ーーー
切なさで胸がキュンと苦しくなる。
けれど、彼の高い体温まで思い出して勇気が湧いてくる気がして
「よし! 牡蠣フライにしよ♪ 海のミルクっていうくらい、栄養満点だしっ」
乳白色の頬や指を思い浮かべながら呼び出しボタンを押す。
(ジュンが居ない寂しさもあるけど……でも「名前を呼ぶ」ってなんか良いかも♪)
知らない内に私にとって御守りになっているような……
彼の名も存在も、私の中で分刻みで段々と大きくなっている事が嬉しかった。
注文した牡蠣フライ定食は格別に美味しくて、彼の名前呼び効果は抜群だと感じたし、帰宅まで軽ろやかに運転する事が出来た。
「ただいま、皐月」
玄関で靴を脱いだら真っ先に皐月の部屋へ行き
「皐月、久しぶりにコーヒー飲もうっか♪」
21歳のままでいる妹の写真をダイニングテーブルの上に置き、デカフェのブラジル産コーヒーを2杯分ネルドリップして写真の前にカップをコトンと置いた。
「デカフェはイヤだった? ごめんね、夜中だから許してね」
独り言をこの家で言うのは私の日常。
だけど、夜中に妹の写真に語りかけるのは初めてだったと思う。
「あのね……ちょっと……聞いてほしい話があるの」
21歳でこの世を去った妹にこんな話をしたら嫉妬に燃えるだろうか?
ーーー
『あのね……お姉ちゃん。私ね……』
ーーー
けれども皐月だって初めての恋を私に明かしたんだし
「私ね……」
皐月だって、姉を嫉妬させようという意図があって恋の話を何度もしたのではないと……そういう気持ちで、私は口や舌を軽快に動かす。
「仕事でクタクタになっても、ジュンの存在を感じてジュンの名前を呼ぶと元気になれちゃう。
恋ってなかなか良いものよね。もうすぐ33歳になるっていうのに、初めて知ったわ」
「私ね、この恋を大事にしたいなぁって、今は思ってるのよ」
コーヒーカップが空になるまで、私は妹にジュンの話を恥ずかしげもなく語りかけたのだった。
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