【完結】この花言葉を、君に

チャフ

文字の大きさ
上 下
83 / 113
名前を呼んで

4

しおりを挟む



「はぁ~……疲れたぁ……」

 朝香ちゃんが手掛けた新しい11月限定ブレンドは初日から予想以上の売れ行きとなり、私は開店時間以降店の外へ出れない程の忙しさとなった。

 朝香ちゃんを帰宅させられたのが21時過ぎ。
 そして現在時刻は23時40分というド深夜。

「このまま店で寝てしまいたいなぁ~帰るのめんどくさい……」

 自宅マンションを車通勤しなきゃいけないくらいの距離にしてしまった事や

「なんでバックヤードにソファを置かなかっだんだろう」

 横たわれるスペースを客席にしか作らなかった事を今日ほど後悔した日はなかった。
 
「取り敢えず何か食べて運転する元気つけなくちゃ」

 私はフラフラと勝手口から出て鍵をかけると、車道沿いの通りを見渡す。

「確か……あっちの方にファミレスがあったはず」

 こんな時間、この近所で空いている飲食店といったらそのくらいしか思いつかない。

「ジュンなら色んなお店を知ってるんだろうなぁ」

 昼食はこちらの通りではなく、商店街を利用する。
 店を開いて以降4年半「もりやま青果店」の2階に住ませてもらっていたけれど、ファミレスに入って1人で食事する経験が無く、ドアを手押ししながら「コンビニで済ませれば良かった」とまた悔やむ。



「……何頼んだらいいんだろ」

 席に着き、メニュー表を開きながら私はまた後悔の溜め息をついた。

「『どうせファミレスだし』……なんて舐めてかかったらダメね」

 疲れているのもあって、どのメニューもとても美味しそうで魅力的に見える。
 無難なメニューにしようかとパスタやハンバーグのページを開いたらここ最近食べたものと被っちゃうし、かといって和食メニューは選べる小鉢の種類が意外とあって組み合わせに迷ってしまう。

(どうやってあんな簡単に選んでいるんだろう? 凄いなぁ……)

 私の前の席に着席した女性が即決に近いスピードで注文している様子が目に入ったのでその女性の行動力に関心し

(ジュンならどれを頼むんだろう?
 今夜はタカパンさんと食事したのよね……何を食べたのかしら?)

 今晩のメニューすら決められない自分の拙さをうれい、恋人の食す口元を思い出していた。


ーーー

『俺が恋しくなったら……』

ーーー


「ジュン……」

 メニューで口元を隠しながら、唯一の助けとなる恋人の名を呼んでみた。


ーーー

『名前を呼んでね』

ーーー


 切なさで胸がキュンと苦しくなる。
 けれど、彼の高い体温まで思い出して勇気が湧いてくる気がして

「よし! 牡蠣フライにしよ♪ 海のミルクっていうくらい、栄養満点だしっ」

 乳白色の頬や指を思い浮かべながら呼び出しボタンを押す。

(ジュンが居ない寂しさもあるけど……でも「名前を呼ぶ」ってなんか良いかも♪)

 知らない内に私にとって御守りになっているような……

 彼の名も存在も、私の中で分刻みで段々と大きくなっている事が嬉しかった。




 注文した牡蠣フライ定食は格別に美味しくて、彼の名前呼び効果は抜群だと感じたし、帰宅まで軽ろやかに運転する事が出来た。

「ただいま、皐月」

 玄関で靴を脱いだら真っ先に皐月の部屋へ行き

「皐月、久しぶりにコーヒー飲もうっか♪」

 21歳のままでいる妹の写真をダイニングテーブルの上に置き、デカフェのブラジル産コーヒーを2杯分ネルドリップして写真の前にカップをコトンと置いた。

「デカフェはイヤだった? ごめんね、夜中だから許してね」

 独り言をこの家で言うのは私の日常。
 だけど、夜中に妹の写真に語りかけるのは初めてだったと思う。

「あのね……ちょっと……聞いてほしい話があるの」

 21歳でこの世を去った妹にこんな話をしたら嫉妬に燃えるだろうか?


ーーー

『あのね……お姉ちゃん。私ね……』

ーーー

 けれども皐月だって初めての恋を私に明かしたんだし

「私ね……」

 皐月だって、姉を嫉妬させようという意図があって恋の話を何度もしたのではないと……そういう気持ちで、私は口や舌を軽快に動かす。

「仕事でクタクタになっても、ジュンの存在を感じてジュンの名前を呼ぶと元気になれちゃう。
 恋ってなかなか良いものよね。もうすぐ33歳になるっていうのに、初めて知ったわ」


「私ね、この恋を大事にしたいなぁって、今は思ってるのよ」


 コーヒーカップが空になるまで、私は妹にジュンの話を恥ずかしげもなく語りかけたのだった。





しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

アンコール マリアージュ

葉月 まい
恋愛
理想の恋って、ありますか? ファーストキスは、どんな場所で? プロポーズのシチュエーションは? ウェディングドレスはどんなものを? 誰よりも理想を思い描き、 いつの日かやってくる結婚式を夢見ていたのに、 ある日いきなり全てを奪われてしまい… そこから始まる恋の行方とは? そして本当の恋とはいったい? 古風な女の子の、泣き笑いの恋物語が始まります。 ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ʚ♡ɞ━━ 恋に恋する純情な真菜は、 会ったばかりの見ず知らずの相手と 結婚式を挙げるはめに… 夢に描いていたファーストキス 人生でたった一度の結婚式 憧れていたウェディングドレス 全ての理想を奪われて、落ち込む真菜に 果たして本当の恋はやってくるのか?

初めから離婚ありきの結婚ですよ

ひとみん
恋愛
シュルファ国の王女でもあった、私ベアトリス・シュルファが、ほぼ脅迫同然でアルンゼン国王に嫁いできたのが、半年前。 嫁いできたは良いが、宰相を筆頭に嫌がらせされるものの、やられっぱなしではないのが、私。 ようやく入手した離縁届を手に、反撃を開始するわよ! ご都合主義のザル設定ですが、どうぞ寛大なお心でお読み下さいマセ。

振られた私

詩織
恋愛
告白をして振られた。 そして再会。 毎日が気まづい。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

処理中です...