競馬の神は神官に微笑む

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「そこだ! 頑張れ、もう少しだ! お前ならできる!」

 馬券を握りしめ、エルドールは声の限り叫ぶ。
 馬と騎手は彼の声援に答えるように順位を上げていく。今シーズン不調が続き、引退間際とさえ言われていた馬が、だ。もう長い間、最下位争いを続けていたため、大穴を狙う者でさえ単勝買いをしなくなった。

 このレースであの馬に賭けているのはエルドールのみだ。それも全財産の半分以上をつぎ込んでいる。

「おい、あれって神官のエルドールじゃないか?」
「は? 神官が賭け事なんてするはず……うわぁマジだ」
「神官辞めたのか?」
「辞めたとしても、信仰が消えるわけじゃない。ましてや王都神殿に勤めていた奴が……ということはあの馬に何かあるのか!?」
「俺も十二番に賭けときゃよかった!!」
「いや、待て。慈善の可能性も捨てきれん」
「なるほど。金儲け目的じゃないから賭け事に興じていることにならず、教えを守っているということだな」
「そうだ。そうであってほしいが……また順位上がってるじゃねぇか!」
「今シーズン絶不調だったじゃねぇか!!」

 エルドールの素性に気付いた者達を中心に騒ぎが大きくなっていく。十二番のゼッケンを付けた馬は誇らしげに大地を蹴り、ゴールした。二着・三着の馬を引き離しての堂々たる一着である。

「よしっ、偉いぞ! 頑張ったなぁ」
 両手の拳を固め、喜ぶ。
 その反面で、エルドールの心は悲しみの涙を流していた。

 なにせこのレース、勝つ気なんてさらさらなかったのだ。
 恋人・マーティンと同居するために貯めていた資金を全て寄付するつもりで不人気馬にベットした。

 マーティンのプライドのために否定しておくが、彼がエルドールを捨てたわけではない。
 遠征で半月ほど王都を離れるからと、その日の朝まで母乳もでないエルドールの乳を愛おしそうに吸っていた男だ。時間だからと引き剥がすのにも苦労したほど。だから神殿に提出された結婚届けを目にした時、驚くと同時に納得したのだ。

 貴族の婚姻に本人の意思など関係ないのだと。
 家族を説得すると言ってくれたマーティンは良家の次男坊だった。一方でエルドールは孤児である。生まれてすぐに親に捨てられ、教会と併設された孤児院で育てられた。大きくなってからは自身も教会の神官となり、今ではそこそこの地位にあるとはいえ結婚が許されるような存在ではなかったというわけだ。

 現実を目の当たりにして、初めて神を恨んだ。
 一度でも神を恨んでしまったエルドールには神殿に残る資格がない。すぐに退職準備を整え、彼が遠征から帰ってくる前に神殿を出た。

 神官時代、教義で禁じられていた賭け事を行ったのは、やけくそが半分、馬への応援が半分。

 幼い頃から信じてきた神への小さな反抗として『賭け事』を行い、マーティンとの思い出と共に同居資金を手放すことに決めたまではよかったが、何に賭けるかまでは決めていなかった。城下町をぶらぶらと歩きながら、色々な賭けを見て回ったものだ。

 競馬に決めたのは偶然、競馬場の近くで熱心な信徒を見つけたから。
 男は半年ほど前から毎日のように王都神殿に通い始めた男であり、願うことは馬のことと決まっていた。王都神殿に来る信徒は多く、全員の顔を覚えているわけではないが、馬は神の使いである。それも決まって人が少ない早朝に来るため、よく覚えていたのである。そんな男が競馬場の裏でボロボロと涙を溢していた。

「俺の力不足でごめんな。もう賭けてくれる人がいないからダメだって。お前ともっと走りたかったが、これが神が決めた運命なら従うしか……」

 手には王都神殿で譲っているお守りが握られている。すぐに彼が神殿に通っていた理由は、競馬で活躍する馬のためだったのだと理解した。彼が心から馬を愛していることも。

 どうせ手放す金ならば彼らのために使ってしまおうと思った。
 ほんの少し前まで賭け事をしようと考えたこともなかったエルドールは競馬のルールなど分からない。一人が賭けたところで何も変わらないのかもしれない。

 それでも馬は神の使いで、エルドールは元神官だった。男のことを覚えていたのも、偶然見てしまったのも神の導きであろう。そう信じ、十二番の単勝馬券を購入した。

 単勝とは、一位を取るのはどの馬かを当てるもの。様々な種類がある馬券の中でも分かりやすいため、初心者でも買いやすいのが特徴だ。大穴狙いであえて不人気馬の単勝を買う者もいるらしい。大勢が勝ち目は低いと判断したが、その分勝てば得られる額が高くなるのだとか。

 馬券売り場に簡単な説明が書かれていた。すでにレース開始間際に差し掛かっていたため、ちゃんと読むことはできなかった。ただ、単勝に高額を賭ければ十二番を応援している者がいることを示せるだろうと。そう信じて買ったばかりの馬券を手に応援していたというわけだ。


「……よし帰ろう」
 意図せず高額馬券を手に入れたエルドールはしばらく悩んで、受け取らなければいいかという結論に至った。

 予想が当たった場合は馬券売り場にて馬券と交換するとの説明を受けている。つまり払い戻し金を受け取らず馬券を廃棄してしまえば、全て競馬場もしくは十二番の馬と騎手に還元されるはず。

 エルドールの目的は同居資金を賭けに使うこと。すでに目的は果たされた。それに今回訪れた競馬場は国営の賭場である。悪いようにはならないはずだ。

 くるりと踵を返したが、時すでに遅し。ニコニコと微笑む職員達が背後で控えていた。エルドール以外の客も多く、売り場にいた職員だって誰がどの馬に賭けていたかを全て記憶しているはずがない。

 ただしエルドールは初参戦とは思えぬほど大声で応援していた。よく目立っていたことだろう。自分は関係ないと言い逃れもできない。

「お客様、どうぞこちらへ」
「えっと、俺は……」
「こちらへ」
「……はい」

 他の客からの視線を受けながら、エルドールは大きな身体を縮こませる。なぜ当たり馬券を握りしめながら気まずい思いをしなければならないのか。

 自分に賭け事は向いていないのかもしれない。溢れそうになるため息をなんとか喉元で押し止め、関係者以外立ち入り禁止エリアへと足を進める。

 客間に通されるとすぐにお茶が出された。香りと色だけでも高価な茶葉が使用されていることが分かる。お茶なんて飲めればいい派のエルドールだったが、マーティンが紅茶にうるさかったため自然と見分けられるようになっていた。

 だが払い戻し金を渡すだけならこんなに高い茶を出すものか。ザッと確認したルール上、払い戻し金が払えずに相談するということもないと思うが……。その時は受け取りを遠慮すればいいだけだ。深く考えることもないかと目の前の男を見据える。

 けれど落ち着きを見せ始めるエルドールとは打って変わって、男は額に汗を浮かべている。会場に居た時の堂々とした態度はどこへやら。具合でも悪いのか。声をかけようとした時だった。男がゆっくりと口を開いた。

「罰するならどうか責任者である私だけを……。他の職員は関係ないのです!」
「一体何のことでしょうか?」
「エルドール様は十二番の引退を阻止するよう、神から使わされたのですよね? 競馬場の職員全員が彼の復帰を心から望んでおりました。もう一度圧巻の走りを見せてはもらえないものかと。ですから今回の勝利は我々全員の悲願とも言えます。本当に、皆から愛されている子なのです。私はどうなっても構いません。ですからどうか皆にはご慈悲を!」
「今回の賭け事は神のお告げではありません。俺は神官を辞め、自分の意思で賭け事を行いました。なので馬の引退を決めたあなたが神より罰せられることはありません。また神の影響を濃く受ける神官・聖女はいかなる理由であろうと賭け事を禁じられているという点をご理解いただけると」
「で、ではあなた様は自らの意思で一番不人気の馬にあれだけの額を賭けた、と? 神官を辞められたとはいえ、そんな……」

 バカな真似をとでも言いたげだ。実際、ルールもろくに理解していない賭け事初心者がする行動ではない。エルドールも理解している。だが本当の理由を話すわけにもいかない。

「私も彼らを応援したくなったのですよ」
 困ったように笑いながら、決して嘘ではない理由を伝える。責任者の彼は納得いかないようだが、小さく頷いた。

「そう、ですか……」
「ですがこの一件で、神官を辞めたとはいえまだ影響を濃く受ける身である俺が賭け事に参加するのはよくないと実感いたしました。なので払い戻し金を受け取るつもりはありません。受け取りは自由でしたよね?」

 エルドールは念押しするように問う。
 けれど彼にも競馬場の、賭場を仕切る責任者としてのプライドがあるようだ。今までの焦りは消え、至極真面目な表情でエルドールを見据えた。

「義務ではありませんが、あなたが受け取るべき正当なお金です。受け取って頂かねば我らが神に顔向けができません」
「では一度受け取るので寄付という形ではいかがでしょう。国営施設に寄付するのであれば何もおかしなことなどありませんでしょう」
「……初めに賭けた額を引いた額であれば」
「それで構いません。どうか今後も彼らを愛してあげてください」

 寄付する側ではなく、される側が折れる形で話はまとまった。この手の話は稀ではあるもののたまにあるようで、すぐに寄付用の書類が用意された。

 エルドールは注意事項に目を通してからサラサラと記入する。ついでに金額部分もバレない範囲で上乗せしようとしたのだが、払い戻し金確認のために回収された馬券と計算機を真横に用意されてはそうもいかなかった。

 結局、使い切る予定だった金はまるっと手元に残ってしまったのである。来た時と全く同じ重さの財布にため息を吐き、競馬場を出る。

 行きとは違い、職員達に見送られながら。
 先ほど金を受け取らせるために大仰なことを言ってしまった手前、どこかの賭場で金を使い切ることなどできやしない。

「冒険者でもしながら各地の孤児院に寄付して回るか……」

 神殿や教会、孤児院に寄付するなら王都神殿に寄付するのが好ましいとされている。特定の場所が決まっているのであれば話は別だが、子供達の支援が目的の場合は神殿側が必要な施設に合わせた額や物を配布してくれる。

 エルドールも本当は王都神殿に寄付したかったのだが、大金を寄付すれば変に詮索される。辞める直前ともなれば余計に、だ。王都神殿と繋がりが深い、近隣の施設も同じ。

 寄付するのであれば遠方の、それもちゃんと子供達にお金を使ってくれるところがいい。個人で教会や孤児院を決めて寄付するとなると、この辺りの見極めも大変なのである。


 それからエルドールは冒険者ギルドに登録し、ソロで依頼を受けながら各地を旅することにした。
 三十近くになってから初めての登録ということもあり、ギルド職員には心配されたものだが、エルドールには一通りの戦闘技術も生活スキルもある。

 というのも孤児院では子ども達が院を出た後でも生きられるように様々なことを叩き込まれる。剣術や魔術もその一つで、入って数ヶ月した頃には魔力の適性検査を受けることになっている。

 この際、エルドールには神聖魔法適正があったため、神官になることに決めた。
 神聖魔法といっても他の魔法と大して変わらない。主に攻撃魔法・防御魔法・回復魔法の三つに分けられる。神殿に在籍していると回復魔法と、防御魔法に含まれる結界魔法が重宝されがちだが、エルドールが最も得意とするのは攻撃魔法。結界の周りに設置するトラップを作る際に活躍していた。

 力の調整次第では、暖炉に火を付けられるしランプに光も灯せる。また他の二つも攻撃魔法には劣るが、わりと使えるレベルではある。剣術に至ってはマーティンが騎士だったこともあり、彼に付き合って鍛錬を続けていた。

 無理して難しい依頼でも受けなければ、一人でもやっていける実力があったのである。駆け出し冒険者ということもあり、初めは小さな依頼しか受けることができなかったが、文句を言わずにコツコツとこなせばギルド側の心配も薄まっていく。


 行く先々で孤児院を見極めては寄付して、また場所を変えて仕事をして。そんな生活を一年ほど繰り返せば、すっかりと冒険者生活にも慣れていた。


 依頼の達成報告ついでにギルド併設の酒場でつまみと酒を注文する。仕事後の一杯に興じようというわけではない。ギルド内には様々な噂が舞い込むのだ。どこの道が封鎖されているだとか、魔物が増えているだとか。ソロで活動するエルドールの情報源はもっぱら酒飲みついでの盗み聞きになっていた。

 といっても聞き続けていい話とそうでない話の区別はちゃんとつけている。変に聞いてしまって巻き込まれるなんてごめんだ。ましてやどこそこのパーティーが痴話喧嘩を起こしたなんて情報は聞くだけ無駄。

 必要以上に長居しないとも決めている。
 酒場に滞在するのはつまみが一皿とジョッキ二杯分まで。今日もエルドールは自分で決めたルールを守りながら、酒場の喧騒に耳を傾ける。すると興味深い話が舞い込んできた。

「『王都の十二番』がまた記念レースで一着を取ったらしいぞ」
「これで三冠か~。幻のレース以降、本当に調子いいよな」
「『神に愛されし馬』だなんてアピールするだけあるよな。十二番も専用ナンバーになったって話だ」

 例の馬のその後が聞けてほっこりとしたのも束の間。彼らの話は予想外の方向へと走り出した。

「あ、そうだ。王都の十二番といえば、レイモンド家が必死で十二番の救世主を探しているって噂、知ってるか?」

 レイモンド侯爵家はマーティンの実家である。
 そして十二番の救世主は幻となったあのレースで唯一十二番に賭けたエルドールのこと。誰が言い出したのかは不明だが、今では競馬好きであれば知らぬ者はいないほど。

 だがあのレースで彼らが勝利をもぎ取ったのはひとえに騎手が馬を、馬が騎手を信じた結果である。エルドールはそのレースに偶然居合わせただけ。救世主だなんて呼ばれる資格はない。かといって否定して回るのも面倒で、そのまま放置しているうちに話が大陸中を巡っていた。

 まさかそんな名前が元恋人の家名と並べられる日が来るとは思わず、驚いたエルドールは酒を飲む手を止めた。

 いきなりいなくなったから心配してるんじゃないか、なんて淡い期待もある。令嬢との結婚はマーティンの意思ではなかったと信じているからこそ、エルドールは未だに彼への想いが捨てきれずにいた。

「レイモンドっていうと先代が競馬好きのとこか。幻のレースで大損害でも食らったのか? だが一年近く前のこと今さら掘り返すか?」
「今の領主が競馬の神の怒りに触れることをしたとかで、カンカンになった先代が領主の座に復帰して探してるって話だから、力を借りたいってところじゃないか? あそこの家、確か同じくらいの時期にどこかの家と揉めてるからな……」
「何したんだろうな、今の領主。いや、先代が復帰したってことはこっちが先代になるのか?」
「俺も詳しいことは分からん」

 どうやらマーティンが探しているわけではないようだ。期待した分、ガックリと肩を落とす。
 競馬の神がなんだか分からないが、エルドールが力になれることは一つもない。そのうち諦めてくれるだろう。

「もうすぐ一年か……。俺もそろそろ諦めて次いかないとな」

 ナッツを摘みながらポツリと呟く。
 すでに結婚相手の腹にはマーティンの子どもがいるかもしれない。引き摺ったところで無意味だ。どんなに思ったところでマーティンがエルドールだけを愛している日々はとうの昔に過ぎ去ってしまったのである。

 さっさと残りの酒とつまみを平らげ、宿に戻る。
 ベッドに寝転がって考えるのは新しい恋人について……ではなく、自分の恋愛対象についてである。

「男にいくべきか女にいくべきか」

 エルドールの男性経験はマーティンただ一人。彼より前にも後にも恋人がいたことはない。もっといえば彼以外に恋愛感情を抱いたこともなければ、性欲を覚えたこともない。

 マーティンと出会うまで、疲れた時に股間が反応する程度でそれも一人で処理して終わり。
 王都を離れた後もムラッとしたのはいつだって彼を思い出してのことだった。マーティンへの思いを引きずってさえいなければ、恋人を作ろうなんて考えにも至らなかったほど。

「そもそも好きな相手もいないのに恋人を作ろうというのもな。身体の相手だけなら娼館に行けばいいと聞いたことが……ああ、そうか、娼婦と娼夫でそれぞれ試してみればいいのか」

 挿入を行うかは別として。
 そもそもマーティンに抱かれ続けたエルドールが今更女を抱けるのかは甚だ疑問ではあるものの、どちらを性対象として見られるか、はたまたどちらも無理なのかを理解するのは大切だ。

「男向けの娼婦なら結構あるが、娼夫は少ないんだよな……。どこがいいんだ? あんまり安いところ行って淡々とした行為で終わるのは嫌だし、ここは少し奮発して高い店に行くか?」

 最近ランクが上の依頼も受けられるようになったため、金には余裕があるのだ。
 なによりエルドールにとっての性行為といえば、マーティンが与えてくれるもの。言葉でも態度でも愛を伝え、包み込んでくれるものだ。

 恋人のそれを娼夫に求めるのは間違いであると理解しながらも、恋愛ごっこのような何かを求めていた。

「高くて、けどぼったくられないところというと王都の表通りの娼館が安心だよな」

 多くの国を旅してきたエルドールだが、どうせなら知っている地の方が安心できる。母国の城下町にデンッと構える娼館は騎士もよく利用するとマーティンから聞いたことがある。当時は自分も利用する日が来るとは思わなかったが、人生何が役立つかは分からないものだ。

 顔見知りと会ったら少し気まずいが、どうせ二回しか使わないのだ。可能であれば、その日のうちに男女の両方を試してしまいたい。

 そして用が済んだらまた国を出る。育った街とはいえ、実家も定住地もないエルドールにとっては旅の一部でしかないのである。

「そうと決まったら早速明日にでも旅立つか!」
 決意が揺らがぬよう、口に出して宣言する。
 母国の城下町までさほど距離がないこともエルドールの勢いを加速させた。

 近くの公衆浴場へ足を運び、身体を清める。途中、立ち寄った薬局で潤滑剤を購入した。娼館に行く前に穴を広げておかねばと思ったのだ。自分で弄っていたとはいえ、尻の穴で誰かを受け入れるのは実に一年ぶりである。解さねば尻が裂ける。

 幸いにも以前、マーティンの遠征中に買った張り型がある。当時は到底本物には敵わぬとすぐに投げ出した。神殿を出るための荷造りをするまで存在すら忘れていたほど。だが神殿に置いていくわけにもいかず、どこか捨てられる場所を……と探していた。

 まさかこんなところで役立つとは思わなかった。宿で買ったお湯で丁寧に清めておく。
 指を使って潤滑剤をよく馴染ませてから、ゆっくりと張り型を奥へと進めていく。

 愛する男以外を迎え入れるために準備していると思うと胸に冷たい風が吹き込むような物淋しさを覚える。それに穴が広がっているのは分かるが、感じるのは快感ではなく異物感でしかない。

 マーティンにしてもらえば前戯だけでも蕩けそうになっていたのに......。

「マーティ、ン……ふっ……」
 彼との行為を思い出し、身体に熱が宿る。尻の中に差し込んだ異物でしかなかった張り型を擦ると微弱な電気が身体を駆け巡るよう。

 重症だ。可愛がられることのない男根もヒクヒクと震えている。
 左手をそちらに伸ばし、軽く扱くと白濁が漏れた。本当にわずかな量で、刺激だって快楽には到底及ばない。

「マーティン……マーティン、もう一度でいいから俺を……」
 ボロボロと涙を溢しながら、どこにいるかも分からぬ男の名前を呼んだ。

 ーーはずだった。
 バンっと大きな音が部屋中に響いた。
 一人で浸っていたエルドールの部屋のドアが破壊されたのである。

「エルドール、俺は一度で終わらせる気はないぞ!」
「マ、マーティン!? お、お前、なんでここにっ!」
「エルドールの目撃情報を追ってきた。潤滑剤を買っているのを見て焦ったが、俺を求めてくれていたとは……遅くなってすまなかった。今からヤろう」
「え、いや、ドアが」
「うちの者が宿の女将に話をつけているから問題ない」

 マーティンは自慢の長い足でベッドまでの距離を一気に詰める。そのまま流れるようにベッドに載り、エルドールの尻から張り型を抜き取る。

「ああ、やっぱり赤くなってるじゃないか」
 尻の縁を撫で、キスを落とす。そのまま近くの潤滑剤で指を濡らし、中に入れようとしたところでようやくエルドールはハッとした。

「マーティン、待て! お前、奥さんはどうした! 結婚したんだろう!」

 流されてはいけない。
 相手は既婚者である。以前のような気安い関係ではないのだ。そう、自分に言い聞かせる。

「やっぱりエルドールはあれを見ていたのか……」
「お前のことは好きだが、愛人になるつもりはない。身を引くと決めたんだ」

 エルドールの決心は固い。
 避けていた布団をたぐり寄せ、下半身を隠す。するとマーティンの表情は真面目なものに変わった。二年前の誕生日にエルドールがプレゼントしたハンカチで手を拭い、まっすぐにエルドールを見据える。

「あの文書は認められず、破棄された。エルドールも知っての通り、近衛騎士の結婚には上司ーー俺の場合は第二王子のダムラード様の承諾が必要だ。だが親父も相手の家も知らなかったらしい。神殿に提出する際にも確認されるんだが、その際に虚偽の申告をしたことが発覚し、罪に問われた」
「王子を無視しようとしたのか……。すごい度胸だな」
「事後報告になるケースもあることはあるが、ダムラード様は聖女マリアンヌとの結婚の際、神殿側を説得してくれたエルドールに感謝している。お二人とも俺達の仲を引き裂こうとした相手に随分とお怒りで、あんなふざけた紙切れはすぐに破棄してくれた。もちろん、俺のスケジュールを流していた者も解雇済みだから安心してほしい」
「でも政略結婚だったんだろ……。貴族はそういうのを大事にすると聞いたことがある。マーティンはいいところの次男坊だから、俺と一緒になれなくても仕方ない」
「政略なんてない。そこにあったのは、一目惚れをした翌日に父親同伴・婚姻届持参で相手の家に突撃してくる令嬢と、息子と恋人の仲を引き裂きたいがために本人に相談なくサインを偽装した父親だけだ。全くとんでもないことをしてくれた。そんなしょうもない理由でエルドールを悲しませようとは……競馬の神がお怒りになるのも無理はない」

 マーティンは「父がすまなかった」と深々と頭を下げる。だが彼こそが一番の被害者である。それにまさかここでも『競馬の神』が登場するとは思わなかった。

 競馬好きの侯爵が勝手に言ってるか、噂が時間と共に形を変えただけではなかったのか。

「酒場でも耳にしたんだが、競馬の神ってなんだ?」
 首を傾げると、マーティンはああと短く呟く。そして悪い笑みを浮かべた。

「十二番の馬が一着ゴールしたあの日以降、レイモンド領と相手の家が治める領地から馬が消え、行商人の馬さえも領地には踏み入ろうとしなくなった。食料が届かず、売りに行くのもままならぬと多くの領民が出ていった。加えて遠縁の親戚まで馬に近づくことができなくなった。馬車が利用できなければ社交界に参加することができない。貴族にとってはこれ以上ない制裁だな」
「そんなバカな……」

 エルドールは馬に金を賭けただけ。
 たまたま応援していた馬が一着でゴールしただけ。
 馬が一丸となって行動を起こすほど、たいそうなことなどしていない。

「逃げた馬と領民は大丈夫なのか?」
「近くの牧場や競馬場、教会で世話してもらっている。領民も事情が事情だけに国から支援を受けている。……まあ金の出所は発端となった二家なんだが」
「そうか……よかった」
「馬は神の使いだ。真面目に神に仕え、一頭の馬の未来を切り拓いたエルドールを虐めた奴らが許せなかったのだろう。俺も馬には頼れず、迎えに来るまで随分と時間がかかった。……寂しい思いをさせてすまなかった。慣れない生活は辛かっただろう」

 マーティンはエルドールの頬を撫でる。
 久々に肌で感じる彼の体温はほどよく温かく、落ち着くと同時に尻が疼き始める。

「なぁマーティン、抱いてくれ。もう限界だ」

 拒絶したばかりだというのに都合のいい話ではあるが、エルドールはすでに一年以上お預けをくらっているのだ。我慢などできなかった。布団を捨てて、甘えたように彼の首に両腕を回す。

「いいのか? 今更だが、恋人は……」
「お前以外、いるわけないだろ」

 娼館に行こうとしていたことは生涯黙っておく。この日この場所で彼と再会できたのもまた神の導きだと思うから。

 心の中で神への感謝を告げ、マーティンの唇に喰らいつく。マーティンの舌と絡み合い、愛を伝える。

「お前だけを愛してる。マーティン」
「エルドール、好きだ。俺だけのエルドール」

 体勢を変え、服を脱ぎ捨て心も身体も混ざり合う。
 久々のマーティンの雄は記憶の中よりもずっと大きく、荒々しい。奥まで遠慮なくガンガンと責められる度、エルドールの低くて鈍い声と共にベッドの悲鳴が部屋に響く。

 ここが防音設備のない部屋であることも、そもそもドアが破壊されていることも忘れていた。



 後日。宿への謝罪を済ませた二人は共に王都へ戻ることにした。

 マーティンが馬に乗れないとの話は嘘ではなかったようで、エルドールが目を離していたほんの短い間に馬から唾を吐きかけられ、泥をかけられていた。乗り合い馬車の馬からもすごい嫌われようであった。それでも「乗せてくれるだけありがたい」と朗らかに笑う彼に、エルドールは競馬の神の怖さを実感したのだった。

「王都に着いたら競馬場と神殿に寄ってもいいか? 心配をかけたから謝りにいかないと」
「なら途中で降りて、人参の産地に立ち寄るのはどうだ? きっと喜ばれるはずだ」
「それはいい!」

 ガタゴトと揺れる馬車で今後のことを話し合う。
 愛し合う二人の障害はもう馬だけ。だが彼らもお詫びの品を手に事情を話せばきっと許し、祝福してくれることだろう。
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