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本編
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「本当ですか!?」
「こちらが証明書になります」
「ありがとうございます」
渡された書類を胸に抱くシリウスの目には涙が浮かんだ。ずっとずっと手にしたいと思っていたものだ。
シリウスにはアルファの婚約者がいる。アルフレッドは姫様が降嫁したことがある名家の生まれで、成績は学園で常に一番キープ。夜会に出れば誰もが振り返ってしまうほど端正な顔立ちで、おまけに性格も良い。まさにアルファの中のアルファ。
一方でシリウスはオメガだが、パッとしない。
オメガといえば長身の美人系か、小柄の可愛い系を想像すると思う。けれどシリウスは背が低くもなければ高くもない。美人でも可愛くもない。一言で表せば地味。初対面の相手からはベータと間違われるほど。
頭だって中の下。
人に胸を張れることといえば、家族仲がいいことくらい。
アルフレッドと肩を並べても恥ずかしくない何かが欲しかった。だから得意の薬学を極めた。学園入学時にはその成果が認められ、オメガでありながら薬学ゼミに誘われた。
ゼミに入れるのは一部のものだけ。少しだけ誇らしかった。それでもまだ婚約者には相応しくない。
学園内に与えられた研究室で、ひたすら研究に励んだ。学園在学中に何かしらの成果を出せば王宮薬師のスカウトが来る。自分の店だって持てるかもしれない。
そうすれば少しだけ自分に自信が持てる。その一心で頑張って、三ヶ月前にようやく実験が成功した。
申請が降りるまで時間がかかったが、無事認められた。嬉しくて嬉しくて。家族よりも先に彼に報告したくて、書類入りの封筒を手に学園を駆けた。
向かう先は、いつも彼が友人と過ごしているカフェテラス。彼の後ろ姿を見つけ、思わず頬が緩んだ。
隣の女性との距離が近いのもいつものこと。彼女はオメガだが年上の婚約者がいて、アルフレッドとは良き友人らしい。彼の言葉を信じているので心配はしていない。
だから気にせず、声をかけようと駆け寄る。けれど聞こえてきた声は冷たいものだった。
「シリウスは研究室に篭っているからつまらない。夜会に行ったところで邪魔なだけだろ」
邪魔だったのか……。
学園に入学してからというもの、研究に明け暮れていた。家にも道具はあるが、学園の方が設備が整っている。だから休みの日も毎日学園に通った。
彼と過ごせる時間は少なくなったが、お茶会や夜会に出る度に彼と釣り合いが取れていないことを再認識する。卒業してしまえば一気に活躍の場は減る。だから寂しくても頑張ることができた。
けれどそんな努力は無駄だったのだ。何もせず隣に居続ければ彼の興味を引くことができたのだろうか。だが何の取り柄もない人間がどれだけ彼を引きつけることができるか。
遅くなるだけで、結果は同じだったのではないか。
いや、こんなこと今更考えたところで意味などないのだ。今までそんな素振りを見せたことがなかったが、他に相手がいるのかもしれない。シリウスなんかよりも一緒に夜会に行きたいと思うような相手が。
言ってくれれば良かったのに。
初めから釣り合いなんて取れていないのだ。
友人だというオメガと並んだ方がよほど絵になる。友人という言葉も嘘だったのかもしれない。
シリウスには確認する術はない。
何が真実か分からぬまま、邪魔という言葉だけが何度も頭の中で繰り返される。
「帰ろう……」
手の中の書類を握りしめ、家に帰る。
帰ったら、父に彼を解放して欲しいと告げよう。だがこちらから理由もなしに婚約解消など出来るはずもない。家族に迷惑がかかってしまう。自分に良いところがないせいで。そんなの嫌だった。
家に着くまでの間、考えて考えて考えて。
薬学以外特技がない頭でようやく辿り着いた答えを家族に告げる。
「絶縁してください。薬学の道を極めるには結婚や出産は邪魔なんです。僕は一流の薬師になりたい」
「え」
「何を言っているんだ!」
「シリウス、冷静になれ」
「これを見てください。僕の技術は国に認められたんだ」
証明書を家族に見せる。
ずっとシリウスが欲しがっていたものだ。家族だって本当は喜びたい。けれどシリウスが家からいなくなるようなことに賛同することはできなかった。悲しそうに表情を歪める彼らに、シリウスの心がずきりと痛む。
それでも考えを曲げるつもりはない。
アルフレッドが好きなのだ。だから少しでも彼の隣に相応しいようにと頑張れた。想い人がいるというのなら、その相手と幸せになって欲しい。
幸せを願うことこそ、平凡なシリウスに出来る唯一のことだと思うから。痛む胸を押さえ、薬師になるための言葉を続ける。
「オメガなのに独り身では迷惑がかかってしまう。だから!」
「ダメだ」
「そうよ。そんなのダメ」
「結婚と出産をしたくないだけなら、婚約解消だけすればいい」
「それがいい。大丈夫だ。お父様が上手く断ってやるから」
「悪い噂なんてお兄様が消してやる。だから絶縁なんて悲しいことを言うなよ」
兄はシリウスの肩に手を置く。
シリウスはこうと決めたら真っ直ぐと進む性格であることは家族もよく知っている。だから家から出て行ってしまわないよう、すぐに婚約解消の手紙をしたためた。
オメガであるシリウスが家から出れば苦労することは目に見えている。彼を家に引き止めるためならいくらだって金を払うつもりである。家族にとってもまた、シリウスは大事な存在なのである。
「お父様、ごめんなさい」
「いいんだ。うちにはお祖父様が残してくれたお金がある。薬師として得たお金を、シリウスが薬師を目指すために使うのならお祖父様だって許してくれるさ」
父も母も兄もそう言って励ましてくれる。けれど婚約解消はなかなか成立しない。アルフレッドからは度々手紙が届いていた。
『直接会って話がしたい』
『婚約解消するなんて言わないでくれ』
『愛してる』
『シリウスしかいないんだ』
一方的な婚約解消の申し出はアルフレッドのプライドを傷つけてしまったのだろう。
それでも会うわけにはいかない。
今まで隠していたように、きっと彼はこの先も上手く隠し続けてくれるのだろう。その言葉に揺らげば、決意もまた揺らいでしまうかもしれない。だがどんなに綺麗な言葉を紡がれたとしても、シリウスの耳にこびりついた言葉は消えないのだ。彼の手を取ったとしても苦しむのは目に見えていた。いっそ本心を打ち明けてくれればいいのだが、彼は優しいから。いや、対等ではないから打ち明けてくれないのか。
シリウスは自分が惨めでたまらない。
手紙には何度も同じ言葉を綴る。
学園生活は残りわずか。単位は足りているので、登校する必要もない。研究室に置いたままの荷物は使用人に取ってきてもらった。
シリウスは卒業式にすら出席することはせず、今度は家の研究室に篭もるようになった。
しばらくは商会に薬をおろすことにし、今後について考える。家族はこのままでいいと言ってくれるが、ただでさえ迷惑をかけているのだ。甘えて過ごすつもりはない。
開発した薬がいい値段になったことが救いだった。これをベースに改良を進めていけばもっと収入も増えるはず。なにより、薬が増えれば救われる人も増えるのだ。
「これで元気になる人が増えるといいなあ」
そんなことを考えながら薬釜をかき混ぜる。
どうにかしようと言う気持ちはあるものの、以前のような焦りはない。劣等感を覚えなくていいからだろうか。彼への気持ちは好きだけではなかったからなおのこと。胸が軽くなった気がする。
けれどそんな日も長くは続かなかった。
アルフレッドが錬金術師としての才能を発揮したのである。錬金術を使える者がいたのはもう百年以上も前のこと。努力すれば出来るようになる薬師とは違う。血縁も頭の良さも関係ない。
才能がなければなれないのが錬金術師だ。
シリウスとの婚約解消が成立すれば愛する人の手だって取れる。全てを手に入れることができるのだ。
それからすぐ、薬師が作った薬よりも錬金術師の作った薬の方が効能がいいと話題になった。
といっても薬師の需要がなくなるわけではない。錬金術師はアルフレッドただ一人。作れる薬には限りがあり、値段も高額だ。金に余裕のある者は錬金術師を頼るが、そうでなければ今まで通り薬師の世話になる。
それに錬金術師が作るのは薬だけではない。今はただ薬を作っているだけにすぎないのだ。
なによりシリウスの作る薬とアルフレッドの作る薬は大きく異なる。アルフレッドは傷や病を治すための万能薬を作っているのに対し、シリウスが作っているのはオメガのための薬。もちろん他の薬も作ってはいるものの、メインはこちら。
薬学ゼミ入りが認められたのも、国に申請が通ったのも、オメガであるシリウスがオメガのために作った抑制剤だったから。月に一度は来る発情期を少しでも軽く出来れば、オメガの生活は楽になり、活躍の幅は今まで以上に広がる。
だから今まで通り、コツコツと自分にできることをして過ごしていた。
そんなシリウスのもとに、一通の手紙が届いた。
アルフレッドからの手紙である。ここ三ヶ月ほど届かなくなっていたので、てっきり婚約解消を受け入れてくれるものだとばかり思っていた。けれど便箋に綴られた文字がそんな考えを否定する。
『錬金術師となった俺との婚約解消はシリウスの家にとってもマイナスになる。それはこのひと月で分かってもらえたと思う。今ならまだ婚約解消の話はなかったことに出来る。愚かな選択をせぬよう、もう一度検討して欲しい』
彼が薬を作っているのはシリウスへ自分の力を示すためだったようだ。薬なんて錬金術でいくらでも作ることができると、そう言いたいのだろう。
シリウスの努力は全て無駄で、才能一つで潰すことが出来る。そう言われているようで涙がこぼれた。
なぜ彼が婚約解消に反対するのかが分からない。けれどシリウスが家に残っている限り、家族に迷惑がかかることだけはよく分かった。
ペンを取り、今までよりも強い拒絶の言葉を記す。それを使用人に託してから、今度こそ絶縁してくれと家族に頭を下げた。
「平民になりたいんです。あなたたちが嫌いなわけじゃない。僕は平民になっても変わらず家族を愛し続けている」
お願いですと、縋り付く。
父も母も兄も悩みに悩んだ。
シリウスの目的が婚約解消である。
それさえ出来れば家に留まってくれる。けれどいつまで経っても先方は頷いてくれない。この先も婚約解消を勝ち取れる保証などなかった。
ならば家を捨てさせることがシリウスのためになるのではないか。彼らは泣く泣くシリウスを家から出すことにした。けれど捨てた訳ではない。親戚が治めている領地で暮らすことを条件として提示したのだ。
そこは王都から遠く離れた辺鄙な場所で、商人すらなかなか来ない。外から来るのは冒険者くらい。薬師と医師はいることにはいるがかなりの高齢で、いけば歓迎されるとのこと。
そう聞かされ、すぐに頷いた。
実際、親戚も領民達もシリウスを歓迎してくれた。薬屋を開くための家を無料で貸してくれたほどだ。
実家にいる時よりも作る薬の種類は増えたが、ここでの生活は穏やかなものだった。
王都から遠く離れているからか、錬金術師の噂を聞くこともない。
地域の人や冒険者なんかが立ち寄って、たまにお茶をしてから薬を買ってくれる。親戚も度々様子を見に来てくれる。
人が少ないため、お店の利益は大したものではないけれど、王都に出荷している薬はそこそこ売れている。贅沢しなければ十分暮らしていけるのである。
「さて、今日も頑張ろう」
新しい薬を棚に並べる。売れ筋は活力剤と傷薬。どちらも効果はさほど高くないがお手頃の値段なので、購入してくれる客が多い。並べると二日でなくなる。
それから回復ポーションや毒消しも冒険者用に常備している。
並べ終わってからお茶を飲んでいると、カランカランと鈴が鳴った。お客さんだ。すぐに立ち上がる。自然と背筋が伸びるのは、この時間に来るお客さんが一人しかいないから。
「もうやってるかな」
「いらっしゃい、今日も来てくれたんですね」
冒険者のフレッドさんだ。
シリウスがここに薬屋を構えてから一ヶ月ほど経った頃から度々来てくれる。
アルフレッドの愛称と同じ名前なのは偶然だ。幼い頃、彼を同じ名前で呼んでいたので、なれるまで少し時間がかかった。
今では常連さんであり、シリウスの気になる相手でもある。名前だけではなく、雰囲気がどことなくアルフレッドに似ているような気がして、気がつけば彼が来るのを楽しみにしていた。
だが本気になるつもりはない。アルフレッドとの一件もあり、恋をするのに臆病になってしまった。また拒絶されるのが怖かった。
それに冒険者が一つの場所に留まることはない。家族がいるならまだしも、彼が独り身であることは今までの会話から把握済み。今はこの辺りで仕事をしているだけ。仕事が終わったらまたどこかへ行ってしまう。
だからこの思いは胸に秘めておくことにした。
「ああ、ポーションを五本と毒消しを二本もらえるかな」
「はい。ご用意しますのでお茶でも飲んでいってください」
「ありがとう。君の淹れてくれるお茶が好きなんだ。いつも楽しみにしている」
その言葉で胸が高鳴り、鼓動が早くなる。
お茶が好きだと言われただけなのに、何を勘違いしてるのか。嬉しさと恥ずかしさで赤くなった頬を叩き、ポーションと毒消しの入った瓶を袋に詰める。
そして腰掛けてお茶を飲む彼に差し出した時だった。ぐらりと視界が揺らいだ。
「危ない!」
シリウスの身体は抱き止められ、パリンと瓶が割れる音が店に響いた。謝らなきゃいけないのに、それどころではなかった。ヒートが来たのだ。
まだ次の発情期まで五日はあったはずなのに……。
早く薬を飲まないと。
ポケットを探り、薬を取り出す。シリウスが開発した抑制剤である。即効性のある薬だが、聞くまで五分はかかる。小瓶に入ったそれを飲み、地面にへたり込む。
「フレッド、さん……はなれて……くださ、い」
うまく回らない頭で、彼に迷惑をかけてしまったと落ち込む。これに懲りてもうオメガの薬屋に来るのは止めてしまうことだろう。
でも良かったのかもしれない。
いつ来なくなるかと心配しなくて済むのだから。
浅い呼吸を繰り返しながら薬の効果が出るのを待つ。次のお客が来るのはまだ先。楽になったら休業札を出してしまえばいい。
シリウスがそんなことを考えている間も、フレッドが店から出ていく様子はない。それどころかシリウスの背中をさすってくれる。
「だが……俺に力になれることはないか?」
親切心なのだろう。だが気のないオメガにそんなことしないでほしい。すぐにいなくなってしまうって分かっているのに、彼が欲しくて泣きそうになる。
「大丈夫か? そうだ、飲み物を。飲みかけだけど」
耳元で囁かれる声に、シリウスの自制心は破れた。
「抱いて……らくに、させて?」
彼の腕を掴み、弱々しく言葉を吐く。
フレッドの喉元がごくりと動いたのを見逃さなかった。シリウスはそのまま彼にしなだれかかり、ベルトに手をかける。けれどその手に大きな手が重なった。冒険者なのに、傷のない綺麗な手だ。まるで貴族のよう。
平凡なオメガの相手なんて嫌だったのか。うるむ瞳で見上げると、優しく微笑む彼と目があった。
「鍵を閉めてくる。今の君を他の男に見せたくない」
フレッドはシリウスを抱え、宣言通りに鍵を閉める。そして「ベッドに案内してくれ」とお願いする。シリウスは言われるがままに居住スペースに案内した。シングルベッドに優しく下ろされ、包み込むように抱かれる。
尻はぐちゃぐちゃに濡れており、すぐにフレッドを受け入れた。身体の関係を持つなんて初めてだ。アルフレッドにだって許したことはなかった。結婚するまでは清い関係でいようと決めていた。
初めての相手がフレッドで良かった。恋愛的な好意はなくとも、手を貸したいと思うだけの好意はある。シリウスの肌を撫でる手つきも優しい。慣れているのかもしれない。
身体を貫かれている間も胸にキスが落とされ、愛されているのだと錯覚してしまいそうになる。けれど彼の唇が首に伸びた瞬間、現実に引き戻された。
「やっ。噛まないで」
「ごめん。嫌だったね」
その言葉でフレッドが不機嫌になることはない。
「君が嫌なことはしないから」
拒絶したシリウスを優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。だからシリウスは彼に身を預けた。身体が楽になったらうんとお返しをしよう。
もっとも、行為が終わった後にもフレッドがいてくれる保証はないのだが。
彼が大きく動く度、快感と嬉しさと不安がごちゃ混ぜになる。けれどナカをかき混ぜられ、何度も果てる度、頭の中が白で埋め尽くされていく。そして意識を手放す頃にはもう何も考えられなくなっていた。
目を覚ますと、半裸の彼がベッドに腰掛けていた。
シリウスが起きるまで待っていてくれたらしい。
「フレッドさん……」
「起きたか。身体は大丈夫か」
昨日出したカップで水を飲んでいる。
「あの、大変な迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない。だが、もしもシリウスに恋人がいたなら……」
「そんなのいません!」
「そうなのか?」
「もう、そんな相手作ろうとも思いませんから」
「どういうことだ」
フレッドは不思議そうに首を傾げる。
実家にいた頃の話をするのは恥ずかしい。けれど彼には裸を見られている。今更だ。
それに誰かに聞いてもらった方が気が楽になる。
シリウスは家族にだって話していなかったことをポツリポツリと話し始めた。
元々婚約者がいたこと。
彼を愛していたこと。
けれど彼にとって自分は邪魔者だったこと。
自分への興味なんてなくなっていたこと。
彼は優しいから態度には出さないけれど、人と話しているところを聞いてしまったこと。
錬金術師であることまでは話さなかったが、年々釣り合いが取れなくなっていたことまで打ち明けた。
一つ一つ溢す度、フレッドの表情が歪んでいった。けれどシリウスの気持ちは軽くなっていく。仕方のないことだったのだと再確認できたのだ。
「俺は君を邪魔だと思ったことなんて一度もない!」
「分かってますよ。それに薬師と冒険者なんて店を出れば接点なんてありませんから」
「っ!」
彼は声を荒げて怒るが、婚約者と客とでは立場が違う。怒ってくれる彼の優しさは嬉しいが、シリウスはアルフレッドが悪者だなんて思わない。悪いのは何の取り柄もないくせに長年彼の隣に立ち続けたシリウスだ。さっさと身の程を弁えていれば良かったのだ。
「少し疲れていたみたいでヒートはずれちゃいましたが、もう二度とこんなことないようにします。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。このお詫びは必ずいたしますので」
「もしも」
「?」
「もしも俺が、君の婚約者を知っていると言ったら軽蔑するか?」
「いいえ。フレッドさんは大事なお客様ですし、彼は僕とはもう関係のない人ですから。今頃、つまらない婚約者が消えて清清しているはすですよ」
個人を特定出来ないように溢したつもりだったが、フレッドさんは気づいてしまったのだろうか。たまたま仕事で知り合って知っていたのかもしれない。
だがどちらにせよ、シリウスとアルフレッドは他人になったのだ。そしてフレッドもまた、客という名の他人なのだ。
彼が縁を切りやすいよう「フレッドさんの冒険の役に立つものがいいですよね。ポーションとか」と笑ってみせる。けれど彼は泣きそうな顔をする。
シリウスはまた、選択を間違えたのだろうか。
分からない。フレッドは拒絶の言葉をくれないから。
優しいのだ。
こんなところまでアルフレッドと一緒だなんて……。
彼のことをまだ諦めきれていないのかもしれない。
シリウスはそんな自分に心底呆れるのだった。
「こちらが証明書になります」
「ありがとうございます」
渡された書類を胸に抱くシリウスの目には涙が浮かんだ。ずっとずっと手にしたいと思っていたものだ。
シリウスにはアルファの婚約者がいる。アルフレッドは姫様が降嫁したことがある名家の生まれで、成績は学園で常に一番キープ。夜会に出れば誰もが振り返ってしまうほど端正な顔立ちで、おまけに性格も良い。まさにアルファの中のアルファ。
一方でシリウスはオメガだが、パッとしない。
オメガといえば長身の美人系か、小柄の可愛い系を想像すると思う。けれどシリウスは背が低くもなければ高くもない。美人でも可愛くもない。一言で表せば地味。初対面の相手からはベータと間違われるほど。
頭だって中の下。
人に胸を張れることといえば、家族仲がいいことくらい。
アルフレッドと肩を並べても恥ずかしくない何かが欲しかった。だから得意の薬学を極めた。学園入学時にはその成果が認められ、オメガでありながら薬学ゼミに誘われた。
ゼミに入れるのは一部のものだけ。少しだけ誇らしかった。それでもまだ婚約者には相応しくない。
学園内に与えられた研究室で、ひたすら研究に励んだ。学園在学中に何かしらの成果を出せば王宮薬師のスカウトが来る。自分の店だって持てるかもしれない。
そうすれば少しだけ自分に自信が持てる。その一心で頑張って、三ヶ月前にようやく実験が成功した。
申請が降りるまで時間がかかったが、無事認められた。嬉しくて嬉しくて。家族よりも先に彼に報告したくて、書類入りの封筒を手に学園を駆けた。
向かう先は、いつも彼が友人と過ごしているカフェテラス。彼の後ろ姿を見つけ、思わず頬が緩んだ。
隣の女性との距離が近いのもいつものこと。彼女はオメガだが年上の婚約者がいて、アルフレッドとは良き友人らしい。彼の言葉を信じているので心配はしていない。
だから気にせず、声をかけようと駆け寄る。けれど聞こえてきた声は冷たいものだった。
「シリウスは研究室に篭っているからつまらない。夜会に行ったところで邪魔なだけだろ」
邪魔だったのか……。
学園に入学してからというもの、研究に明け暮れていた。家にも道具はあるが、学園の方が設備が整っている。だから休みの日も毎日学園に通った。
彼と過ごせる時間は少なくなったが、お茶会や夜会に出る度に彼と釣り合いが取れていないことを再認識する。卒業してしまえば一気に活躍の場は減る。だから寂しくても頑張ることができた。
けれどそんな努力は無駄だったのだ。何もせず隣に居続ければ彼の興味を引くことができたのだろうか。だが何の取り柄もない人間がどれだけ彼を引きつけることができるか。
遅くなるだけで、結果は同じだったのではないか。
いや、こんなこと今更考えたところで意味などないのだ。今までそんな素振りを見せたことがなかったが、他に相手がいるのかもしれない。シリウスなんかよりも一緒に夜会に行きたいと思うような相手が。
言ってくれれば良かったのに。
初めから釣り合いなんて取れていないのだ。
友人だというオメガと並んだ方がよほど絵になる。友人という言葉も嘘だったのかもしれない。
シリウスには確認する術はない。
何が真実か分からぬまま、邪魔という言葉だけが何度も頭の中で繰り返される。
「帰ろう……」
手の中の書類を握りしめ、家に帰る。
帰ったら、父に彼を解放して欲しいと告げよう。だがこちらから理由もなしに婚約解消など出来るはずもない。家族に迷惑がかかってしまう。自分に良いところがないせいで。そんなの嫌だった。
家に着くまでの間、考えて考えて考えて。
薬学以外特技がない頭でようやく辿り着いた答えを家族に告げる。
「絶縁してください。薬学の道を極めるには結婚や出産は邪魔なんです。僕は一流の薬師になりたい」
「え」
「何を言っているんだ!」
「シリウス、冷静になれ」
「これを見てください。僕の技術は国に認められたんだ」
証明書を家族に見せる。
ずっとシリウスが欲しがっていたものだ。家族だって本当は喜びたい。けれどシリウスが家からいなくなるようなことに賛同することはできなかった。悲しそうに表情を歪める彼らに、シリウスの心がずきりと痛む。
それでも考えを曲げるつもりはない。
アルフレッドが好きなのだ。だから少しでも彼の隣に相応しいようにと頑張れた。想い人がいるというのなら、その相手と幸せになって欲しい。
幸せを願うことこそ、平凡なシリウスに出来る唯一のことだと思うから。痛む胸を押さえ、薬師になるための言葉を続ける。
「オメガなのに独り身では迷惑がかかってしまう。だから!」
「ダメだ」
「そうよ。そんなのダメ」
「結婚と出産をしたくないだけなら、婚約解消だけすればいい」
「それがいい。大丈夫だ。お父様が上手く断ってやるから」
「悪い噂なんてお兄様が消してやる。だから絶縁なんて悲しいことを言うなよ」
兄はシリウスの肩に手を置く。
シリウスはこうと決めたら真っ直ぐと進む性格であることは家族もよく知っている。だから家から出て行ってしまわないよう、すぐに婚約解消の手紙をしたためた。
オメガであるシリウスが家から出れば苦労することは目に見えている。彼を家に引き止めるためならいくらだって金を払うつもりである。家族にとってもまた、シリウスは大事な存在なのである。
「お父様、ごめんなさい」
「いいんだ。うちにはお祖父様が残してくれたお金がある。薬師として得たお金を、シリウスが薬師を目指すために使うのならお祖父様だって許してくれるさ」
父も母も兄もそう言って励ましてくれる。けれど婚約解消はなかなか成立しない。アルフレッドからは度々手紙が届いていた。
『直接会って話がしたい』
『婚約解消するなんて言わないでくれ』
『愛してる』
『シリウスしかいないんだ』
一方的な婚約解消の申し出はアルフレッドのプライドを傷つけてしまったのだろう。
それでも会うわけにはいかない。
今まで隠していたように、きっと彼はこの先も上手く隠し続けてくれるのだろう。その言葉に揺らげば、決意もまた揺らいでしまうかもしれない。だがどんなに綺麗な言葉を紡がれたとしても、シリウスの耳にこびりついた言葉は消えないのだ。彼の手を取ったとしても苦しむのは目に見えていた。いっそ本心を打ち明けてくれればいいのだが、彼は優しいから。いや、対等ではないから打ち明けてくれないのか。
シリウスは自分が惨めでたまらない。
手紙には何度も同じ言葉を綴る。
学園生活は残りわずか。単位は足りているので、登校する必要もない。研究室に置いたままの荷物は使用人に取ってきてもらった。
シリウスは卒業式にすら出席することはせず、今度は家の研究室に篭もるようになった。
しばらくは商会に薬をおろすことにし、今後について考える。家族はこのままでいいと言ってくれるが、ただでさえ迷惑をかけているのだ。甘えて過ごすつもりはない。
開発した薬がいい値段になったことが救いだった。これをベースに改良を進めていけばもっと収入も増えるはず。なにより、薬が増えれば救われる人も増えるのだ。
「これで元気になる人が増えるといいなあ」
そんなことを考えながら薬釜をかき混ぜる。
どうにかしようと言う気持ちはあるものの、以前のような焦りはない。劣等感を覚えなくていいからだろうか。彼への気持ちは好きだけではなかったからなおのこと。胸が軽くなった気がする。
けれどそんな日も長くは続かなかった。
アルフレッドが錬金術師としての才能を発揮したのである。錬金術を使える者がいたのはもう百年以上も前のこと。努力すれば出来るようになる薬師とは違う。血縁も頭の良さも関係ない。
才能がなければなれないのが錬金術師だ。
シリウスとの婚約解消が成立すれば愛する人の手だって取れる。全てを手に入れることができるのだ。
それからすぐ、薬師が作った薬よりも錬金術師の作った薬の方が効能がいいと話題になった。
といっても薬師の需要がなくなるわけではない。錬金術師はアルフレッドただ一人。作れる薬には限りがあり、値段も高額だ。金に余裕のある者は錬金術師を頼るが、そうでなければ今まで通り薬師の世話になる。
それに錬金術師が作るのは薬だけではない。今はただ薬を作っているだけにすぎないのだ。
なによりシリウスの作る薬とアルフレッドの作る薬は大きく異なる。アルフレッドは傷や病を治すための万能薬を作っているのに対し、シリウスが作っているのはオメガのための薬。もちろん他の薬も作ってはいるものの、メインはこちら。
薬学ゼミ入りが認められたのも、国に申請が通ったのも、オメガであるシリウスがオメガのために作った抑制剤だったから。月に一度は来る発情期を少しでも軽く出来れば、オメガの生活は楽になり、活躍の幅は今まで以上に広がる。
だから今まで通り、コツコツと自分にできることをして過ごしていた。
そんなシリウスのもとに、一通の手紙が届いた。
アルフレッドからの手紙である。ここ三ヶ月ほど届かなくなっていたので、てっきり婚約解消を受け入れてくれるものだとばかり思っていた。けれど便箋に綴られた文字がそんな考えを否定する。
『錬金術師となった俺との婚約解消はシリウスの家にとってもマイナスになる。それはこのひと月で分かってもらえたと思う。今ならまだ婚約解消の話はなかったことに出来る。愚かな選択をせぬよう、もう一度検討して欲しい』
彼が薬を作っているのはシリウスへ自分の力を示すためだったようだ。薬なんて錬金術でいくらでも作ることができると、そう言いたいのだろう。
シリウスの努力は全て無駄で、才能一つで潰すことが出来る。そう言われているようで涙がこぼれた。
なぜ彼が婚約解消に反対するのかが分からない。けれどシリウスが家に残っている限り、家族に迷惑がかかることだけはよく分かった。
ペンを取り、今までよりも強い拒絶の言葉を記す。それを使用人に託してから、今度こそ絶縁してくれと家族に頭を下げた。
「平民になりたいんです。あなたたちが嫌いなわけじゃない。僕は平民になっても変わらず家族を愛し続けている」
お願いですと、縋り付く。
父も母も兄も悩みに悩んだ。
シリウスの目的が婚約解消である。
それさえ出来れば家に留まってくれる。けれどいつまで経っても先方は頷いてくれない。この先も婚約解消を勝ち取れる保証などなかった。
ならば家を捨てさせることがシリウスのためになるのではないか。彼らは泣く泣くシリウスを家から出すことにした。けれど捨てた訳ではない。親戚が治めている領地で暮らすことを条件として提示したのだ。
そこは王都から遠く離れた辺鄙な場所で、商人すらなかなか来ない。外から来るのは冒険者くらい。薬師と医師はいることにはいるがかなりの高齢で、いけば歓迎されるとのこと。
そう聞かされ、すぐに頷いた。
実際、親戚も領民達もシリウスを歓迎してくれた。薬屋を開くための家を無料で貸してくれたほどだ。
実家にいる時よりも作る薬の種類は増えたが、ここでの生活は穏やかなものだった。
王都から遠く離れているからか、錬金術師の噂を聞くこともない。
地域の人や冒険者なんかが立ち寄って、たまにお茶をしてから薬を買ってくれる。親戚も度々様子を見に来てくれる。
人が少ないため、お店の利益は大したものではないけれど、王都に出荷している薬はそこそこ売れている。贅沢しなければ十分暮らしていけるのである。
「さて、今日も頑張ろう」
新しい薬を棚に並べる。売れ筋は活力剤と傷薬。どちらも効果はさほど高くないがお手頃の値段なので、購入してくれる客が多い。並べると二日でなくなる。
それから回復ポーションや毒消しも冒険者用に常備している。
並べ終わってからお茶を飲んでいると、カランカランと鈴が鳴った。お客さんだ。すぐに立ち上がる。自然と背筋が伸びるのは、この時間に来るお客さんが一人しかいないから。
「もうやってるかな」
「いらっしゃい、今日も来てくれたんですね」
冒険者のフレッドさんだ。
シリウスがここに薬屋を構えてから一ヶ月ほど経った頃から度々来てくれる。
アルフレッドの愛称と同じ名前なのは偶然だ。幼い頃、彼を同じ名前で呼んでいたので、なれるまで少し時間がかかった。
今では常連さんであり、シリウスの気になる相手でもある。名前だけではなく、雰囲気がどことなくアルフレッドに似ているような気がして、気がつけば彼が来るのを楽しみにしていた。
だが本気になるつもりはない。アルフレッドとの一件もあり、恋をするのに臆病になってしまった。また拒絶されるのが怖かった。
それに冒険者が一つの場所に留まることはない。家族がいるならまだしも、彼が独り身であることは今までの会話から把握済み。今はこの辺りで仕事をしているだけ。仕事が終わったらまたどこかへ行ってしまう。
だからこの思いは胸に秘めておくことにした。
「ああ、ポーションを五本と毒消しを二本もらえるかな」
「はい。ご用意しますのでお茶でも飲んでいってください」
「ありがとう。君の淹れてくれるお茶が好きなんだ。いつも楽しみにしている」
その言葉で胸が高鳴り、鼓動が早くなる。
お茶が好きだと言われただけなのに、何を勘違いしてるのか。嬉しさと恥ずかしさで赤くなった頬を叩き、ポーションと毒消しの入った瓶を袋に詰める。
そして腰掛けてお茶を飲む彼に差し出した時だった。ぐらりと視界が揺らいだ。
「危ない!」
シリウスの身体は抱き止められ、パリンと瓶が割れる音が店に響いた。謝らなきゃいけないのに、それどころではなかった。ヒートが来たのだ。
まだ次の発情期まで五日はあったはずなのに……。
早く薬を飲まないと。
ポケットを探り、薬を取り出す。シリウスが開発した抑制剤である。即効性のある薬だが、聞くまで五分はかかる。小瓶に入ったそれを飲み、地面にへたり込む。
「フレッド、さん……はなれて……くださ、い」
うまく回らない頭で、彼に迷惑をかけてしまったと落ち込む。これに懲りてもうオメガの薬屋に来るのは止めてしまうことだろう。
でも良かったのかもしれない。
いつ来なくなるかと心配しなくて済むのだから。
浅い呼吸を繰り返しながら薬の効果が出るのを待つ。次のお客が来るのはまだ先。楽になったら休業札を出してしまえばいい。
シリウスがそんなことを考えている間も、フレッドが店から出ていく様子はない。それどころかシリウスの背中をさすってくれる。
「だが……俺に力になれることはないか?」
親切心なのだろう。だが気のないオメガにそんなことしないでほしい。すぐにいなくなってしまうって分かっているのに、彼が欲しくて泣きそうになる。
「大丈夫か? そうだ、飲み物を。飲みかけだけど」
耳元で囁かれる声に、シリウスの自制心は破れた。
「抱いて……らくに、させて?」
彼の腕を掴み、弱々しく言葉を吐く。
フレッドの喉元がごくりと動いたのを見逃さなかった。シリウスはそのまま彼にしなだれかかり、ベルトに手をかける。けれどその手に大きな手が重なった。冒険者なのに、傷のない綺麗な手だ。まるで貴族のよう。
平凡なオメガの相手なんて嫌だったのか。うるむ瞳で見上げると、優しく微笑む彼と目があった。
「鍵を閉めてくる。今の君を他の男に見せたくない」
フレッドはシリウスを抱え、宣言通りに鍵を閉める。そして「ベッドに案内してくれ」とお願いする。シリウスは言われるがままに居住スペースに案内した。シングルベッドに優しく下ろされ、包み込むように抱かれる。
尻はぐちゃぐちゃに濡れており、すぐにフレッドを受け入れた。身体の関係を持つなんて初めてだ。アルフレッドにだって許したことはなかった。結婚するまでは清い関係でいようと決めていた。
初めての相手がフレッドで良かった。恋愛的な好意はなくとも、手を貸したいと思うだけの好意はある。シリウスの肌を撫でる手つきも優しい。慣れているのかもしれない。
身体を貫かれている間も胸にキスが落とされ、愛されているのだと錯覚してしまいそうになる。けれど彼の唇が首に伸びた瞬間、現実に引き戻された。
「やっ。噛まないで」
「ごめん。嫌だったね」
その言葉でフレッドが不機嫌になることはない。
「君が嫌なことはしないから」
拒絶したシリウスを優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。だからシリウスは彼に身を預けた。身体が楽になったらうんとお返しをしよう。
もっとも、行為が終わった後にもフレッドがいてくれる保証はないのだが。
彼が大きく動く度、快感と嬉しさと不安がごちゃ混ぜになる。けれどナカをかき混ぜられ、何度も果てる度、頭の中が白で埋め尽くされていく。そして意識を手放す頃にはもう何も考えられなくなっていた。
目を覚ますと、半裸の彼がベッドに腰掛けていた。
シリウスが起きるまで待っていてくれたらしい。
「フレッドさん……」
「起きたか。身体は大丈夫か」
昨日出したカップで水を飲んでいる。
「あの、大変な迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない。だが、もしもシリウスに恋人がいたなら……」
「そんなのいません!」
「そうなのか?」
「もう、そんな相手作ろうとも思いませんから」
「どういうことだ」
フレッドは不思議そうに首を傾げる。
実家にいた頃の話をするのは恥ずかしい。けれど彼には裸を見られている。今更だ。
それに誰かに聞いてもらった方が気が楽になる。
シリウスは家族にだって話していなかったことをポツリポツリと話し始めた。
元々婚約者がいたこと。
彼を愛していたこと。
けれど彼にとって自分は邪魔者だったこと。
自分への興味なんてなくなっていたこと。
彼は優しいから態度には出さないけれど、人と話しているところを聞いてしまったこと。
錬金術師であることまでは話さなかったが、年々釣り合いが取れなくなっていたことまで打ち明けた。
一つ一つ溢す度、フレッドの表情が歪んでいった。けれどシリウスの気持ちは軽くなっていく。仕方のないことだったのだと再確認できたのだ。
「俺は君を邪魔だと思ったことなんて一度もない!」
「分かってますよ。それに薬師と冒険者なんて店を出れば接点なんてありませんから」
「っ!」
彼は声を荒げて怒るが、婚約者と客とでは立場が違う。怒ってくれる彼の優しさは嬉しいが、シリウスはアルフレッドが悪者だなんて思わない。悪いのは何の取り柄もないくせに長年彼の隣に立ち続けたシリウスだ。さっさと身の程を弁えていれば良かったのだ。
「少し疲れていたみたいでヒートはずれちゃいましたが、もう二度とこんなことないようにします。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。このお詫びは必ずいたしますので」
「もしも」
「?」
「もしも俺が、君の婚約者を知っていると言ったら軽蔑するか?」
「いいえ。フレッドさんは大事なお客様ですし、彼は僕とはもう関係のない人ですから。今頃、つまらない婚約者が消えて清清しているはすですよ」
個人を特定出来ないように溢したつもりだったが、フレッドさんは気づいてしまったのだろうか。たまたま仕事で知り合って知っていたのかもしれない。
だがどちらにせよ、シリウスとアルフレッドは他人になったのだ。そしてフレッドもまた、客という名の他人なのだ。
彼が縁を切りやすいよう「フレッドさんの冒険の役に立つものがいいですよね。ポーションとか」と笑ってみせる。けれど彼は泣きそうな顔をする。
シリウスはまた、選択を間違えたのだろうか。
分からない。フレッドは拒絶の言葉をくれないから。
優しいのだ。
こんなところまでアルフレッドと一緒だなんて……。
彼のことをまだ諦めきれていないのかもしれない。
シリウスはそんな自分に心底呆れるのだった。
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